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第四話 闇の在処(ありか)
六章:一 金域(こんいき):偽りの玉座
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耳の痛くなるような静寂の向こう側から、ことりと沓を踏み鳴らす音が聞こえる。久遠はそっとその場に平伏した。黄帝がやってくるまで、それほど時はかからなかった。
「――華艶はまだなのか」
問いかけに答えるように、久遠はゆっくりと面を上げた。
「もうすぐ参られると思います。陛下、ご自身の宮でお待ちになった方がよろしいのではないでしょうか。お体に触ります」
こちらを見下ろす黄帝の肩から、はらりと金髪が流れ落ちる。疲弊しつつある世にあって、ここだけが皮肉なほど変わらない。金域だけは、わざとらしく感じるほど眩い。
「ここは息苦しい。おまえの言うとおりにしよう」
力のない足取りで黄帝が立ち去る。
久遠は長い金髪に飾られた後ろ姿を見送る。やがて痛々しいものから目を背けるように顔を伏せた。きりきりと胸が痛む。
偽りの玉座。
心に刻まれた真実が、久遠の胸をじわじわと締め付ける。
この世から輝きが失われていくのを、ただ眺めることしか出来ない歯がゆさ。
(――朔夜)
まるで祈りを捧げるように、久遠は彼女を思う。
美しく聡明な姉、朔夜。稀有な力を秘めた先守。物心がついたときから、久遠の傍らには姉が在った。彼女の語る美しい言葉と共に過ごした。
同じ父と母を持ちながら、久遠は朔夜のように先守として生まれなかった。滄と緋の混血で在りながら、天に占う力を与えられなかったのだ。
ただ髪色と瞳だけが先守と等しく紫紺を彩っている。無力な自身を嘆く日々もあったが、ある日、姉の朔夜が静かに宿命を語った。この世の真実と共に。
先守であるが故に与えられた、朔夜の使命。
そして。
無力であるが故に与えられた、久遠の使命。
朔夜は未来を視る。だからこそ物心がついた時から覚悟を決めていたのだろう。未来を守るために、姉はその身を捧げた。はじめから、そう決めていたのだ。決まっていた。
久遠はそっと目を閉じた。
あの日――既に色褪せそうな遠い日を思い出す。
輝きに満ちた金域へと向かう道中で、姉の美しい横顔は色を失っていた。はじめて金域を訪れる久遠の内にも喜びや高ぶりは生まれてこなかった。ただ覚悟だけがあった。朔夜は蒼白い顔でこちらを見た。吸い込まれそうな紫紺の瞳には、哀しみが映っていた。姉の苦悩が、久遠にも痛いほどわかった。金域へと続く道程。あれは姉である朔夜にとっては久遠を使命へと送り出す旅路だったのだ。
姉――朔夜の美しい声。
(「――あなたは恐ろしいものを見る」)
痛々しいものを眺めるように朔夜は目を細めた。
ただ頷いて見せた久遠に、姉はぎこちなく微笑み、詫びた。
(「あなたを巻き込んだことを、どうか許してほしい」)
頷くと朔夜はありがとうと笑った。それが自分に向けられた最後の姉の声だった。
姉の辿った末路は、彼女が久遠に告げた先途と何ひとつ狂うことはなく形になった。
稀有な先守であるがゆえに、朔夜は呪いを受ける。人々はそれを天罰であると語り継ぐ。
(「――わたしは陛下を導かなければならない。たとえどのような目にあおうとも」)
揺るがない決意で、姉は自身に架した使命を全うした。
久遠は胸に拳を当てて痛みに耐える。
どれほど目を背けたくなるような光景であろうとも、今は耐えるしかないのだ。
朔夜が耐えたように。
全ての真実を封印して、久遠は立ち上がった。
(「――陛下は妾を見捨てた」)
空耳のように、懐かしい恨み言が聞こえる。色彩のない闇色の宵衣を羽織っても、沈むことのない美貌。女は思わず顔を綻ばせた。
憎悪で混沌とした闇の中心に燻る想い。今となっては耳を澄ませても、はっきりと聞き取ることができなくなっている。
可哀想な女の小さな嘆き。女の名は――華艶と云っただろうか。
当時、天地界に並ぶことのない美貌を謳われた女。その美しさゆえに、最悪の仕打ちを受けた昔日。
懐かしい。
「愛しい恨み――」
くすくすと甘い笑い声が通路の静寂を満たしている。
するすると宵衣を引き摺りながら、たおやかな足取りで進む人影。先守の最高位にある絶世の美女。そう謳われる女は、通路の行き止まりでもある重々しい扉の前でぴたりと立ち止まった。
金域にありながら、先帝が失落後誰も立ち入ることのできない最奥の間。
そっと白い手を上げると、巨大な扉がゆっくりと内側へと開かれた。
光を集めたかのような眩い居室。しかし視線を下げると足元には夥しい鬼が陽炎のように渦巻いている。
女は臆することもなく踏み込み、中心に吊るされた霊獣の影を仰いだ。輝く四肢。生かされた亡骸を目にするたびに、女は知らず目を細めてしまう。
傍らの台座に目を向けると、眼球を繰り抜かれた頭部が鎮座していた。額から伸びる角は、元の輝きが嘘のように失われ、その身に下された呪いを現している。
漆黒の角。
先帝はじわじわと正気を犯され、目を覆いたくなる凶行に及んだ。
自身の守護である麒麟に呪いをかけ、自らは天罰を受けて消滅した。失落するよりもっとたちの悪い終焉。
全ては女の目論見どおりに果たされた。
呪いに囚われたまま生かされている、麒麟の亡骸。今も失われることがなく、ぽたりぽたりと不可思議な輝きを秘めた赤い血を垂らす。
麒麟の生血。それが何を成し遂げたのか。
女は満たされつつある杯を手に取り、磔のように吊るされた影を仰ぐ。
「哀れな姿。愚かな主を恨むが良い。――いつの世も変わらぬ」
甘く柔らかな発音はそのままに、女の声は暗い呪詛を吐き出すように厳しい。
「――華艶はまだなのか」
問いかけに答えるように、久遠はゆっくりと面を上げた。
「もうすぐ参られると思います。陛下、ご自身の宮でお待ちになった方がよろしいのではないでしょうか。お体に触ります」
こちらを見下ろす黄帝の肩から、はらりと金髪が流れ落ちる。疲弊しつつある世にあって、ここだけが皮肉なほど変わらない。金域だけは、わざとらしく感じるほど眩い。
「ここは息苦しい。おまえの言うとおりにしよう」
力のない足取りで黄帝が立ち去る。
久遠は長い金髪に飾られた後ろ姿を見送る。やがて痛々しいものから目を背けるように顔を伏せた。きりきりと胸が痛む。
偽りの玉座。
心に刻まれた真実が、久遠の胸をじわじわと締め付ける。
この世から輝きが失われていくのを、ただ眺めることしか出来ない歯がゆさ。
(――朔夜)
まるで祈りを捧げるように、久遠は彼女を思う。
美しく聡明な姉、朔夜。稀有な力を秘めた先守。物心がついたときから、久遠の傍らには姉が在った。彼女の語る美しい言葉と共に過ごした。
同じ父と母を持ちながら、久遠は朔夜のように先守として生まれなかった。滄と緋の混血で在りながら、天に占う力を与えられなかったのだ。
ただ髪色と瞳だけが先守と等しく紫紺を彩っている。無力な自身を嘆く日々もあったが、ある日、姉の朔夜が静かに宿命を語った。この世の真実と共に。
先守であるが故に与えられた、朔夜の使命。
そして。
無力であるが故に与えられた、久遠の使命。
朔夜は未来を視る。だからこそ物心がついた時から覚悟を決めていたのだろう。未来を守るために、姉はその身を捧げた。はじめから、そう決めていたのだ。決まっていた。
久遠はそっと目を閉じた。
あの日――既に色褪せそうな遠い日を思い出す。
輝きに満ちた金域へと向かう道中で、姉の美しい横顔は色を失っていた。はじめて金域を訪れる久遠の内にも喜びや高ぶりは生まれてこなかった。ただ覚悟だけがあった。朔夜は蒼白い顔でこちらを見た。吸い込まれそうな紫紺の瞳には、哀しみが映っていた。姉の苦悩が、久遠にも痛いほどわかった。金域へと続く道程。あれは姉である朔夜にとっては久遠を使命へと送り出す旅路だったのだ。
姉――朔夜の美しい声。
(「――あなたは恐ろしいものを見る」)
痛々しいものを眺めるように朔夜は目を細めた。
ただ頷いて見せた久遠に、姉はぎこちなく微笑み、詫びた。
(「あなたを巻き込んだことを、どうか許してほしい」)
頷くと朔夜はありがとうと笑った。それが自分に向けられた最後の姉の声だった。
姉の辿った末路は、彼女が久遠に告げた先途と何ひとつ狂うことはなく形になった。
稀有な先守であるがゆえに、朔夜は呪いを受ける。人々はそれを天罰であると語り継ぐ。
(「――わたしは陛下を導かなければならない。たとえどのような目にあおうとも」)
揺るがない決意で、姉は自身に架した使命を全うした。
久遠は胸に拳を当てて痛みに耐える。
どれほど目を背けたくなるような光景であろうとも、今は耐えるしかないのだ。
朔夜が耐えたように。
全ての真実を封印して、久遠は立ち上がった。
(「――陛下は妾を見捨てた」)
空耳のように、懐かしい恨み言が聞こえる。色彩のない闇色の宵衣を羽織っても、沈むことのない美貌。女は思わず顔を綻ばせた。
憎悪で混沌とした闇の中心に燻る想い。今となっては耳を澄ませても、はっきりと聞き取ることができなくなっている。
可哀想な女の小さな嘆き。女の名は――華艶と云っただろうか。
当時、天地界に並ぶことのない美貌を謳われた女。その美しさゆえに、最悪の仕打ちを受けた昔日。
懐かしい。
「愛しい恨み――」
くすくすと甘い笑い声が通路の静寂を満たしている。
するすると宵衣を引き摺りながら、たおやかな足取りで進む人影。先守の最高位にある絶世の美女。そう謳われる女は、通路の行き止まりでもある重々しい扉の前でぴたりと立ち止まった。
金域にありながら、先帝が失落後誰も立ち入ることのできない最奥の間。
そっと白い手を上げると、巨大な扉がゆっくりと内側へと開かれた。
光を集めたかのような眩い居室。しかし視線を下げると足元には夥しい鬼が陽炎のように渦巻いている。
女は臆することもなく踏み込み、中心に吊るされた霊獣の影を仰いだ。輝く四肢。生かされた亡骸を目にするたびに、女は知らず目を細めてしまう。
傍らの台座に目を向けると、眼球を繰り抜かれた頭部が鎮座していた。額から伸びる角は、元の輝きが嘘のように失われ、その身に下された呪いを現している。
漆黒の角。
先帝はじわじわと正気を犯され、目を覆いたくなる凶行に及んだ。
自身の守護である麒麟に呪いをかけ、自らは天罰を受けて消滅した。失落するよりもっとたちの悪い終焉。
全ては女の目論見どおりに果たされた。
呪いに囚われたまま生かされている、麒麟の亡骸。今も失われることがなく、ぽたりぽたりと不可思議な輝きを秘めた赤い血を垂らす。
麒麟の生血。それが何を成し遂げたのか。
女は満たされつつある杯を手に取り、磔のように吊るされた影を仰ぐ。
「哀れな姿。愚かな主を恨むが良い。――いつの世も変わらぬ」
甘く柔らかな発音はそのままに、女の声は暗い呪詛を吐き出すように厳しい。
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