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第四話 闇の在処(ありか)
二章:四 緋国:火種 2
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次の日も、その次の日も、老猫に与えた餌はそのまま残されていた。褐色の毛並みに縞模様をもつ猫は、縁下に戻っている様子がない。
老猫の気配がないまま三日が過ぎたとき、六の君は居ても立ってもいられない思いに苛まれた。耐え切れず、ついに辺りを探すことを決意する。
今まで、抱き上げることはおろか、触れたこともないのだ。なのに、どうしてこれほど気になるのか分からない。分からないのに、自分がうろたえているのは隠しようもなかった。ただ与えた物を受け入れてくれる。それだけの繋がりに、想像以上に慰められていたのだろうか。あるいは、自分の求めている居場所を、老猫との関わりに見出していたのかもしれなかった。
六の君はいいようのない不安な気持ちを抑えて、考えを巡らせる。
朝の膳が下げられてから、まだそれほど時間は経っていない。もともと自分の周りには、ほとんど人の気配もない。何か行事や用向きがないかぎり、南対屋を訪れる者はいない。予定のある日は朝に告げられ、何もない日は独りの時間を持てあますだけなのだ。万が一、不在であることがばれても、昼時までに戻れば何とでも言い訳はできる。誰も自分の動向になど興味はないだろう。
六の君は自分に対して、考えうる限りの言い訳を思い浮かべて行動に出た。身軽に動く為に不必要な着物は脱いで、小袖と緋色の長袴だけになる。袴の裾も引き摺らないように上げた。
こんな格好でこそこそと動き回っている処が見つかったら、叱咤と共に今まで以上の中傷を招くことは間違いない。とにかく人目を避けることが最優先だった。 内庭の植え込み、殿舎の物陰、縁下、思いつくところを覗き込み、小さな影が横切らないかと目を凝らす。六の君が馴染みのある付近には気配が感じられない。
六の君は内庭から、正面の中庭へと抜ける道を見つめた。人が出入りするようには作られていない植木の合間を抜ければ、人目につくこともない。中庭へ出てしまえば、寝殿の縁下に隠れながら、建物の周りを捜索できるだろうと安易に考えていた。
植え込みを潜り抜けるようにして、六の君は正面の寝殿の前に出た。素早く縁下にもぐりこみ、息を潜めるようにして辺りの様子をうかがう。遠くの方でかすかに話し声がするが、見つかる気はしなかった。自分の小さな姿を隠すくらいの死角には困らない。
縁下を這うように身を小さくして、彼女は正面の寝殿から西対屋《にしのたいのや》へと進む。そのまま西中門から釣殿に続く廊の縁下に移動した。釣殿までたどり着けば中島も近い。目を凝らすだけでも、なかなかの範囲を見渡すことが出来るだろう。
門の付近には訪問者でもない限り、人がやってくることもない。予想以上に何の問題もなく探索を続けていると、突然バサリと風を切る音が聞こえた。
何の前触れもなく、西中門に天馬をつないだ緋庇車が現れたのだ。門外に待機していた衛兵が、西中門に駆けつけてくる足元が見えた。
周囲が賑やかになるのを感じて、六の君は一気に緊張した。思わず息を潜め、縁下に深めに潜む。よほど運が悪くない限り、見つかることはない。早まる鼓動を感じながら、じっと身を硬くして外の気配に集中していた。
赤毛の天馬の長い脚が、縁下からも見える。足先だけを眺めていても毛並みは美しく、夜が訪れる前のひとときの夕暮れの色合いをしていた。着地の瞬間もその足元は優雅だった。
「使いの者をやった筈だが、よく考えると天馬で訪れる私の方が早く着いてしまうな」
突然の訪問に対する非礼を詫びる素振りもなく、現れた男は笑った。天馬の傍らに在る足元の衣装を見る限り、宮家に劣らぬ家柄であることがうかがえる。
ならば緋国の汚点である自分に礼を尽くす必要もない。
六の君はただひたすら気配を殺すことに努めていたが、よく考えると早く戻らねば大変なことになると震えた。
どのような用向きがあるのか知らないが、自分が借り出されることは間違いない。けれど、今南対には抜け殻のような着物しかないのだ。それを侍女が発見したらどうなるのか。考えるだけで、六の君は血の気がひく。縁下を進んで一刻も早く戻るしかない。
慌てながら、それでも気配を殺すことに気を配りつつ体を方向転換した。
縁下から人が集い始めた中門の様子をうかがう。誰も気付いていない。
(とにかく、はやく戻らないと)
間に合うとは思えないが、他にどうすればいいのかも分からなかった。
焦りのために動悸のする胸を抱えて進もうとした。
その時。
ぬっと縁下を覗き込んだ瞳に見つかる。
「――っ」
六の君は悲鳴を上げそうになって、辛うじて呑み込んだ。刹那、止まりかけた鼓動は、壊れそうなくらい激しく打っていた。
天馬が頭をもたげてこちらを見ている。穏やかな深紅の眼差しが、じっと六の君を見つめて動かない。身動きすることが出来ずにいると、「どうした」と近くで声がする。
訪れてきた男がこちらに歩み寄ってくる。天馬の様子に気付いたらしい。
「赤霞、何か在るのか」
こちらに来ないでという、祈るような思いは届かない。六の君は成す術もなく、身を屈めるようにして縁下を覗き込んできた男と目が合った。
(見つかった)
「―――……」
男もまさかこんな所に人が忍んでいるとは思わなかったのだろう。絶句したまま六の君を見つめていた。
「紅於様、いかがなさいました」
訊きなれた暁の声がする。紅於といえば、二の宮である紅蓮と縁を結ぶことが決まっている左大臣家の長子だった。暁は突然の紅於の訪問を聞きつけて駆けつけたようだが、声はいつものように落ち着いていた。
(もう駄目だわ)
紅於が自分を見逃す理由はない。諦めにも似た思いで、他の侍女に見つかるよりは、暁に見つかるほうがいいと思い直す。ひどく叱られるだろうが、暁はいわれのない理由で責めるようなことはしない。
絶句していた男は、暁の登場で我に返ったのか屈めていた上体を起こした。六の君は覚悟を決める。赤霞と呼ばれていた天馬は、未だにこちらを見つめていた。
「ああ、なんでもない。子猫でも通ったのだろう」
(――え?)
どうしてという思いで、六の君は男の足元を見つめていた。
今は成り行きに身を任せるしかできない。
「なぁ、赤霞」
主に声をかけられて、天馬も頭を上げた。六の君はようやく深紅の眼差しから解放されたが、男の思惑が読めず緊張感は増した。
ここで見つからなくとも、自分を呼びにいく者がある限り遠からず露見する。
潔くここで見つかるほうが良かったのではないか。
混乱する六の君にはかまわず、暁の落ち着いた声が男を諌めた。
「いくら橙家の長子とはいえ、このような突然の訪問は配慮に欠けていると思われませんか、紅於様」
遠まわしに無礼だと非難しているのだろう。筋を通す暁らしい言いようだった。男は言外に含まれた皮肉に気付かないのか、少年のように笑う。
「これは本当に申し訳ない。末の姫宮にも挨拶をしておかなければならないと思い立ってね。いずれ私は義兄となるのだし」
無礼というよりは、人懐こい口調だった。六の君はこんな人もいるのだと驚いた。大人は皆、凛として落ち着いているものだと思っていたのだ。それとも殿方は女人とは違うのだろうか。
暁も彼の人となりを理解しているのか、吐息を返すだけだった。
男は続ける。
「とはいえ、突然の訪問でそちらもすぐには歓迎できないだろう。私はしばし赤霞とこちらの中島を探索するので、用意が整ったら呼んでくれないか。ああ、人はつけなくても結構だ。それから、ついでに何か食事を用意して頂けるとありがたいのだが。本当に何も考えずに飛び出して来たからね」
暁はあきれ果てて、咄嗟に言葉が出で来なかったのだろう。一呼吸の沈黙のあとに「かしこまりました」と答えた。
本当にこちらを慮っての提案なのか、単に傍若無人なのか分からない。六の君は幼いながらに、こんな人があの二の宮である紅蓮とうまくいくのだろうかと引っ掛かりを感じた。
紅蓮は六の君の目から見ても、美しく誇り高い姉宮だった。宮家の威信を揺るがすようなことは許さず、見逃さないという感じがする。その気性のせいか、六の君に対する風当たりは一番強い。紅蓮自身が六の君を蔑んでいるので、彼女の周りの者も同じ態度になる。二の宮は美しく凛として尊いが、六の君にとってはただ恐ろしい姉だった。
「では、また後ほどお迎えにあがります」
暁の声で辺りが動き始める。
六の君はどうすべきなのか分からない。縁下で様子を見ていると、中門に集っていた人の気配が遠ざかっていく。静寂を取り戻すと、再び紅於が身を屈めて縁下をのぞいた。
「さて、こんな処で隠れん坊かな」
老猫の気配がないまま三日が過ぎたとき、六の君は居ても立ってもいられない思いに苛まれた。耐え切れず、ついに辺りを探すことを決意する。
今まで、抱き上げることはおろか、触れたこともないのだ。なのに、どうしてこれほど気になるのか分からない。分からないのに、自分がうろたえているのは隠しようもなかった。ただ与えた物を受け入れてくれる。それだけの繋がりに、想像以上に慰められていたのだろうか。あるいは、自分の求めている居場所を、老猫との関わりに見出していたのかもしれなかった。
六の君はいいようのない不安な気持ちを抑えて、考えを巡らせる。
朝の膳が下げられてから、まだそれほど時間は経っていない。もともと自分の周りには、ほとんど人の気配もない。何か行事や用向きがないかぎり、南対屋を訪れる者はいない。予定のある日は朝に告げられ、何もない日は独りの時間を持てあますだけなのだ。万が一、不在であることがばれても、昼時までに戻れば何とでも言い訳はできる。誰も自分の動向になど興味はないだろう。
六の君は自分に対して、考えうる限りの言い訳を思い浮かべて行動に出た。身軽に動く為に不必要な着物は脱いで、小袖と緋色の長袴だけになる。袴の裾も引き摺らないように上げた。
こんな格好でこそこそと動き回っている処が見つかったら、叱咤と共に今まで以上の中傷を招くことは間違いない。とにかく人目を避けることが最優先だった。 内庭の植え込み、殿舎の物陰、縁下、思いつくところを覗き込み、小さな影が横切らないかと目を凝らす。六の君が馴染みのある付近には気配が感じられない。
六の君は内庭から、正面の中庭へと抜ける道を見つめた。人が出入りするようには作られていない植木の合間を抜ければ、人目につくこともない。中庭へ出てしまえば、寝殿の縁下に隠れながら、建物の周りを捜索できるだろうと安易に考えていた。
植え込みを潜り抜けるようにして、六の君は正面の寝殿の前に出た。素早く縁下にもぐりこみ、息を潜めるようにして辺りの様子をうかがう。遠くの方でかすかに話し声がするが、見つかる気はしなかった。自分の小さな姿を隠すくらいの死角には困らない。
縁下を這うように身を小さくして、彼女は正面の寝殿から西対屋《にしのたいのや》へと進む。そのまま西中門から釣殿に続く廊の縁下に移動した。釣殿までたどり着けば中島も近い。目を凝らすだけでも、なかなかの範囲を見渡すことが出来るだろう。
門の付近には訪問者でもない限り、人がやってくることもない。予想以上に何の問題もなく探索を続けていると、突然バサリと風を切る音が聞こえた。
何の前触れもなく、西中門に天馬をつないだ緋庇車が現れたのだ。門外に待機していた衛兵が、西中門に駆けつけてくる足元が見えた。
周囲が賑やかになるのを感じて、六の君は一気に緊張した。思わず息を潜め、縁下に深めに潜む。よほど運が悪くない限り、見つかることはない。早まる鼓動を感じながら、じっと身を硬くして外の気配に集中していた。
赤毛の天馬の長い脚が、縁下からも見える。足先だけを眺めていても毛並みは美しく、夜が訪れる前のひとときの夕暮れの色合いをしていた。着地の瞬間もその足元は優雅だった。
「使いの者をやった筈だが、よく考えると天馬で訪れる私の方が早く着いてしまうな」
突然の訪問に対する非礼を詫びる素振りもなく、現れた男は笑った。天馬の傍らに在る足元の衣装を見る限り、宮家に劣らぬ家柄であることがうかがえる。
ならば緋国の汚点である自分に礼を尽くす必要もない。
六の君はただひたすら気配を殺すことに努めていたが、よく考えると早く戻らねば大変なことになると震えた。
どのような用向きがあるのか知らないが、自分が借り出されることは間違いない。けれど、今南対には抜け殻のような着物しかないのだ。それを侍女が発見したらどうなるのか。考えるだけで、六の君は血の気がひく。縁下を進んで一刻も早く戻るしかない。
慌てながら、それでも気配を殺すことに気を配りつつ体を方向転換した。
縁下から人が集い始めた中門の様子をうかがう。誰も気付いていない。
(とにかく、はやく戻らないと)
間に合うとは思えないが、他にどうすればいいのかも分からなかった。
焦りのために動悸のする胸を抱えて進もうとした。
その時。
ぬっと縁下を覗き込んだ瞳に見つかる。
「――っ」
六の君は悲鳴を上げそうになって、辛うじて呑み込んだ。刹那、止まりかけた鼓動は、壊れそうなくらい激しく打っていた。
天馬が頭をもたげてこちらを見ている。穏やかな深紅の眼差しが、じっと六の君を見つめて動かない。身動きすることが出来ずにいると、「どうした」と近くで声がする。
訪れてきた男がこちらに歩み寄ってくる。天馬の様子に気付いたらしい。
「赤霞、何か在るのか」
こちらに来ないでという、祈るような思いは届かない。六の君は成す術もなく、身を屈めるようにして縁下を覗き込んできた男と目が合った。
(見つかった)
「―――……」
男もまさかこんな所に人が忍んでいるとは思わなかったのだろう。絶句したまま六の君を見つめていた。
「紅於様、いかがなさいました」
訊きなれた暁の声がする。紅於といえば、二の宮である紅蓮と縁を結ぶことが決まっている左大臣家の長子だった。暁は突然の紅於の訪問を聞きつけて駆けつけたようだが、声はいつものように落ち着いていた。
(もう駄目だわ)
紅於が自分を見逃す理由はない。諦めにも似た思いで、他の侍女に見つかるよりは、暁に見つかるほうがいいと思い直す。ひどく叱られるだろうが、暁はいわれのない理由で責めるようなことはしない。
絶句していた男は、暁の登場で我に返ったのか屈めていた上体を起こした。六の君は覚悟を決める。赤霞と呼ばれていた天馬は、未だにこちらを見つめていた。
「ああ、なんでもない。子猫でも通ったのだろう」
(――え?)
どうしてという思いで、六の君は男の足元を見つめていた。
今は成り行きに身を任せるしかできない。
「なぁ、赤霞」
主に声をかけられて、天馬も頭を上げた。六の君はようやく深紅の眼差しから解放されたが、男の思惑が読めず緊張感は増した。
ここで見つからなくとも、自分を呼びにいく者がある限り遠からず露見する。
潔くここで見つかるほうが良かったのではないか。
混乱する六の君にはかまわず、暁の落ち着いた声が男を諌めた。
「いくら橙家の長子とはいえ、このような突然の訪問は配慮に欠けていると思われませんか、紅於様」
遠まわしに無礼だと非難しているのだろう。筋を通す暁らしい言いようだった。男は言外に含まれた皮肉に気付かないのか、少年のように笑う。
「これは本当に申し訳ない。末の姫宮にも挨拶をしておかなければならないと思い立ってね。いずれ私は義兄となるのだし」
無礼というよりは、人懐こい口調だった。六の君はこんな人もいるのだと驚いた。大人は皆、凛として落ち着いているものだと思っていたのだ。それとも殿方は女人とは違うのだろうか。
暁も彼の人となりを理解しているのか、吐息を返すだけだった。
男は続ける。
「とはいえ、突然の訪問でそちらもすぐには歓迎できないだろう。私はしばし赤霞とこちらの中島を探索するので、用意が整ったら呼んでくれないか。ああ、人はつけなくても結構だ。それから、ついでに何か食事を用意して頂けるとありがたいのだが。本当に何も考えずに飛び出して来たからね」
暁はあきれ果てて、咄嗟に言葉が出で来なかったのだろう。一呼吸の沈黙のあとに「かしこまりました」と答えた。
本当にこちらを慮っての提案なのか、単に傍若無人なのか分からない。六の君は幼いながらに、こんな人があの二の宮である紅蓮とうまくいくのだろうかと引っ掛かりを感じた。
紅蓮は六の君の目から見ても、美しく誇り高い姉宮だった。宮家の威信を揺るがすようなことは許さず、見逃さないという感じがする。その気性のせいか、六の君に対する風当たりは一番強い。紅蓮自身が六の君を蔑んでいるので、彼女の周りの者も同じ態度になる。二の宮は美しく凛として尊いが、六の君にとってはただ恐ろしい姉だった。
「では、また後ほどお迎えにあがります」
暁の声で辺りが動き始める。
六の君はどうすべきなのか分からない。縁下で様子を見ていると、中門に集っていた人の気配が遠ざかっていく。静寂を取り戻すと、再び紅於が身を屈めて縁下をのぞいた。
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