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第四話 闇の在処(ありか)

一章:四 闇の地:罪過

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「我が君」 
「主上」 

 声を上げて泣くしかできない自分の背後で、聞き慣れた声が呼んでいる。あんなにも恐れていたのに、今は縋りたくてたまらなかった。彼らが自分をおとしいれるしき使いであったとしても、こんな絶望を独りで受け止められるほど強くない。 

 固く抱きしめていた着物から、彼は涙で濡れた顔を上げる。彼らは寄り添うように膝をついて、そっと腕を伸ばす。彼の手を取って告げた。 

「どうか嘆かないで下さい。我らがここに在ります」 
「あなたをお護りします」 

 初めて間近に見た彼らは、泣きじゃくる彼を見て苦しげに表情を曇らせていた。美しい人に与えられていた剣を手放した今、彼らを遠ざける境界が失われている。まるで濡れたように艶やかな黒髪の合間から、黒玻璃くろがらすのように見える双眸ひとみがこちらを見つめていた。 

「我が君、どうか我らに名を与えてください」 

 彼は急に不安になって問いかけた。 

「名を呼んだら、おまえ達は消えてしまうのか」 

 今までは考えもしなかった。むしろ彼らがいなくなることを願っていたのに。こんな取り残されたような世界でたった独り残されるのかと思うと、考える前に口が開いてしまう。彼らは首を振って、彼の問いを否定した。 

「我らはずっとあなたのお傍に在ります。もし姿が見えなくなっても、あなたが名を呼べばすぐに参ります」 

 彼は涙を拭うこともせず、じっと彼らを見た。嘘をついているとは思えない。漆黒をまとっていても、恐れずに眺めていると綺麗だと感じる。 

 時には獣のようであったり、時には人のようであったり、彼らは自身の輪郭かたちを変える。不可思議な存在。 

「おまえたちの名を呼べば、私は禍になってしまうのか」 

 彼らはゆっくりと首を横に振る。そんなことはないのだと、言葉よりも強い意志が込められているように感じた。 

「我らはあなたを守護するために生まれた者です。たとえあなたがわざわいになろうとも、何があってもお護りいたします。お傍に在ります」 

(――たとえ禍になろうとも) 

 彼は腕の中に残された着物に視線を落とした。朔夜さくやもそんなふうに考えたのだろうか。この身が禍になることよりも、日々の不毛な戦いを止めたかったのだろうか。この身体が痛めつけられるだけの日々を、ただ変えたいと願ったのだろうか。 

 例えそれが凶事への一歩を踏み出すことを示していても。 
 朔夜さくやは心優しい。だから、見ていられなかったのかもしれない。 

 悠闇剣ゆうあんのつるぎ輪郭かたちにした時に、彼は感じてしまった。力が解き放たれる感覚。きっと開いてはいけない扉を開いてしまったに違いない。美しい人が頑なに封印してくれていた力を解放してしまったのだ。 

 恐れて苦しんで傷ついて、戦い続けるだけの日々。それが禍へと向かう運命に抗う戦いであっても、朔夜は望まなかった。 

 もう戦わなくても良いのだと示した。まるでその宿命を恐れて抗わなくても良いと、ただ運命に縛られて、傷つかなくても良いのだと云うふうに。 

――あなたにはこの世を助けることができます。 

 いつか禍と成り果てるその日まで、もっと出来ることがあるのだと云いたかったのだろうか。 
 目覚めさせてしまったじゅって、この世のを制する。悠闇剣ゆうあんのつるぎを手にした今、それは容易たやすい。疲弊してゆく世界の抱える負をとり除くことができる。 

――陛下は……。 

 朔夜は何を伝えたかったのだろう。 
 陛下――黄帝。凶事となる自分とは対極にある祝福に満ちた存在。この地に在れば、天帝てんてい加護かごをうまく発揮できない陛下の力になれるだろう。 

 この世の凶兆であっても、必ずしも行いの全てが否定されるわけではない。 
 かき消された届かない言葉。 
 彼女の最期さいごの声には、そんな思いが込められていたのだろうか。 

 わからない。 
 わからないけれど。 

 この身に与えられた運命はいずれ完結するのだ。 
 どれほど抗おうとも禍として形になる。 
 だから朔夜は戦わなくてもいいのだと導いてくれたのだろうか。意味がない抵抗で傷つく必要はないのだと。 

――恐れずに彼らに名を与えて……。 

 目を背けても宿命は消えない。与えられた運命には、決して抗えない。 
 受け入れて生きていくことしか許されない。 

――どうか、忘れないで。 

 朔夜が望むのなら、そのみちを選びとろう。 

「もう、……戦わない」 

 戦うことが、抗うことが苦しいのなら、受け入れてしまえばいいのだと。 
 朔夜がそう望むのならば迷わない。 
 全て受け入れて生きていく。 
 それが、どれほど哀しい真実であったとしても。 

――もう苦しむことはないのです。だから、泣かないで。 

 彼女が与えてくれた優しさに応えたいのだ。 

「……さくや」 

 彼は振りしぼるように呟いて、遺された着物を強く握り締めた。去来する哀しみをやり過ごすように、じっと別れを惜しむ。 
 やがて涙で滲む視界に目の前の彼らを映した。 
 漆黒をまとう、二つの影。 

麒一きいち麟華りんか) 

 彼らの名は視える。感じられる。この身に与えられた真名まなを感じるのと同じように。 
 形作られた剣が名乗るのと同じように、語りかけてくるのだ。 
 彼はもう迷うこともなく告げた。 

「――麒一、麟華。私の傍に在ってくれ、ずっと。この身が滅びるまで」 

 「かしこまりました」と平伏す守護を、視界に映すことはできなかった。再びとめどなく溢れ出る涙で何も見えない。 
 不毛な戦いは終わり、これまでの苦痛は失われた筈なのに。 

 哀しい。 

 全てが哀しい。 
 朔夜を失ったこと。二度と柔らかな言葉を聞くことができない。 
 そして。 
 禍として生きていくしかできないことが、それを受け入れることが、どうしようもなく哀しかった。
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