138 / 233
第四話 闇の在処(ありか)
一章:二 闇の地:絶望 1
しおりを挟む
希望はいつでも唐突に打ち砕かれる。
壮絶な戦いの最中、目の前に現れた人影は錯覚ではなかった。信じられない。
「そんな――」
彼は力なくその手から剣を落とした。がらんと地面を打つ音がやけに大きく響いた。
時間が止まる。
鬼の襲撃を受けていることも忘れて、憎しみと恐れと嫌悪で一杯になっていた胸に、別の感情が込み上げて心を占めていく。
「……どうして」
目の前の光景が信じられない。どうして彼女がこんな処に現れて、そして倒れているのだろう。何が起きたのだろう。一部始終を見ていたはずなのに、うまく思い描けない。
周りを取り囲む黒い影は、放心した彼に同調するかのように動きを止めた。
襲い掛かってくる鬼が、彼女を傷つけたわけではない。
突然現れた人影、――朔夜だった。
彼女は何かを訴えていたのだ。
失った声の代わりに、大きく頭を振って勢い良く目の前に躍り出た。
――違うのです、そうではありません。
聞こえるはずがないのに、そんな叫びが聞こえた気がした。
突然の成り行き。
彼は振り下ろす刀剣の勢いを殺しきれず、朔夜の身を斬った。あまりの出来事に身動きできない彼の前で、倒れていた朔夜の体がゆるりと動く。その瞬間、彼は雷に打たれたように叫んだ。
「朔夜っ」
その場に膝をついて抱き起こすと、彼女は大丈夫だと訴えるように口元を引きつらせた。それが微笑みであることを、彼は誰よりも知っている。初めて腕に抱えた体は驚くほど細く、そして重みが感じられない。戦いの最中であることも忘れ去り、彼は朔夜を介抱しようと、幾重にも纏った着物を肩から滑らせ、小袖の上から切りつけた処を探る。止血をしなければと焦っている為なのか、血の溢れ出る箇所を見つけられない。
浅い呼吸を繰り返す朔夜に対して成す術が見つけられず、指先が、腕が、全身が震えだす。考えたくないのに最悪の絶望を思い描いてしまう。
「朔夜、――しっかり、誰か……」
視界が滲み始めて彼女の顔がはっきりと見えない。抱き上げて屋敷に連れ戻るしかないと考えて立ち上がろうとすると、彼女が強く拒んだ。力なく身を起こして彼の掌に指先を当てる。
――恐れてはいけません。
はらはらと涙を零して身動きのできない彼と向かいあい、朔夜は再び微笑んだようだった。細い腕を上げて彼の頬を伝う涙に触れた。掌に触れる指先が語る。
――大丈夫です。周りを見て下さい。
「朔夜、……怪我を、している筈。……先に、手当てを」
嗚咽しそうになっては堪え、言葉がうまく声にならない。血が流れ出していなくても、彼女の魂魄が費えていくような気がしてどうすればいいのか判らない。哀しみと絶望で飽和しかけた彼の心を叱咤するかのように、朔夜が弱々しい力でぱちりと彼の頬を叩く。
――周りを見て。
彼はしゃくりあげながら、示されたとおり辺りを見る。暗い夜空の下にあってもくっきりと浮かび上がる鮮明な影。ぞわぞわと蠢いていてこちらを窺っている。彼はハッと状況を思い出して剣に手を伸ばしたが、朔夜によって遮られた。
「どうして」
弱々しい彼女を見ると、すぐに競りあがってくる絶望に支配された。鬼を打ち据えることも、勝利を手に入れることも、彼女がいなければ意味がなくなってしまうのだ。
恐れも憎しみも嫌悪も、全てが哀しみに呑み込まれてしまう。
――大丈夫。見てください。あなたの哀しみが鬼にうつる。ただ泣いているあなたを襲っては来ることはありません。鬼は負の心を映す鏡のようなモノ。あなたが嫌悪すると、鬼もあなたを嫌悪する。憎めば憎み、恐れれば恐れます。
彼女の指先が語る言葉を、彼は懸命に聞いた。そうしなければいけない気がしたのだ。まるで最後の言葉を振り絞るような、朔夜の覚悟が伝わってくる。
彼は涙で歪む視界で、果てしなく辺りを埋め尽くす鬼を眺めた。たしかに彼らはさっきまでの激しい様子が嘘のように力なくこちらを窺っている。肩を落として立ち尽くす姿は、まるで朔夜を悼んでいるかのように哀しげに見えた。
――カナシイ、カナシイ、カナシイ。
ぞろりと蠢く影から声が聞こえる。怨嗟にも似た暗い声が、哀しいと訴えているのだ。彼は耳を疑ったが、たしかに響いてくる。
――ヒトリ、カナシイ、カナシイ、ヒトリ、カナシイ。
そっと朔夜の指先が触れる。
――恐れないで。
「……恐れてなど」
恐れてなどいない。本当に恐ろしいのは朔夜が傍にいなくなることなのだから。
――ヒトリ、カナシイ、カナシイ。
暗い声が渦巻くほど、引きずり込まれるかのように絶望が深くなっていくのが判る。朔夜が消えてしまうのならば、もう全てがどうでもいい気がしていた。このまま鬼に寄り憑かれて禍と成り果ててもいい。どうせ誰も自分が生きていることを喜んでなどくれないのだから。
――鬼は誰の内にも在るもの。あなたには、その凝った思いを天に導くことができます。
恐れずに鬼に触れて下さいと朔夜が促す。彼は濡れた黒硝子のような瞳で、目前の鬼を眺めた。肩を落としてじっとこちらを見たまま立ち尽くしている影。恐ろしさなど感じない。哀れなほど小さな闇。打ちひしがれ、まるでじっと絶望に耐えているかのようだった。
これまで見てきた光景が嘘のように。可哀想なくらいに。
――カナシイ、ヒトリ。カナシイ。
同じなのだと思えた。憎まれ疎まれる存在。孤独であることを嘆くだけの自分と同じ。
そして、どうすればいいのか判らないのだ。
「おまえも、哀しいのか」
哀しかったのか。
誰にも顧みてもらえないことが。独りが。
あるいは朔夜を失う恐れと絶望が、この胸の内から伝染したのだろうか。
壮絶な戦いの最中、目の前に現れた人影は錯覚ではなかった。信じられない。
「そんな――」
彼は力なくその手から剣を落とした。がらんと地面を打つ音がやけに大きく響いた。
時間が止まる。
鬼の襲撃を受けていることも忘れて、憎しみと恐れと嫌悪で一杯になっていた胸に、別の感情が込み上げて心を占めていく。
「……どうして」
目の前の光景が信じられない。どうして彼女がこんな処に現れて、そして倒れているのだろう。何が起きたのだろう。一部始終を見ていたはずなのに、うまく思い描けない。
周りを取り囲む黒い影は、放心した彼に同調するかのように動きを止めた。
襲い掛かってくる鬼が、彼女を傷つけたわけではない。
突然現れた人影、――朔夜だった。
彼女は何かを訴えていたのだ。
失った声の代わりに、大きく頭を振って勢い良く目の前に躍り出た。
――違うのです、そうではありません。
聞こえるはずがないのに、そんな叫びが聞こえた気がした。
突然の成り行き。
彼は振り下ろす刀剣の勢いを殺しきれず、朔夜の身を斬った。あまりの出来事に身動きできない彼の前で、倒れていた朔夜の体がゆるりと動く。その瞬間、彼は雷に打たれたように叫んだ。
「朔夜っ」
その場に膝をついて抱き起こすと、彼女は大丈夫だと訴えるように口元を引きつらせた。それが微笑みであることを、彼は誰よりも知っている。初めて腕に抱えた体は驚くほど細く、そして重みが感じられない。戦いの最中であることも忘れ去り、彼は朔夜を介抱しようと、幾重にも纏った着物を肩から滑らせ、小袖の上から切りつけた処を探る。止血をしなければと焦っている為なのか、血の溢れ出る箇所を見つけられない。
浅い呼吸を繰り返す朔夜に対して成す術が見つけられず、指先が、腕が、全身が震えだす。考えたくないのに最悪の絶望を思い描いてしまう。
「朔夜、――しっかり、誰か……」
視界が滲み始めて彼女の顔がはっきりと見えない。抱き上げて屋敷に連れ戻るしかないと考えて立ち上がろうとすると、彼女が強く拒んだ。力なく身を起こして彼の掌に指先を当てる。
――恐れてはいけません。
はらはらと涙を零して身動きのできない彼と向かいあい、朔夜は再び微笑んだようだった。細い腕を上げて彼の頬を伝う涙に触れた。掌に触れる指先が語る。
――大丈夫です。周りを見て下さい。
「朔夜、……怪我を、している筈。……先に、手当てを」
嗚咽しそうになっては堪え、言葉がうまく声にならない。血が流れ出していなくても、彼女の魂魄が費えていくような気がしてどうすればいいのか判らない。哀しみと絶望で飽和しかけた彼の心を叱咤するかのように、朔夜が弱々しい力でぱちりと彼の頬を叩く。
――周りを見て。
彼はしゃくりあげながら、示されたとおり辺りを見る。暗い夜空の下にあってもくっきりと浮かび上がる鮮明な影。ぞわぞわと蠢いていてこちらを窺っている。彼はハッと状況を思い出して剣に手を伸ばしたが、朔夜によって遮られた。
「どうして」
弱々しい彼女を見ると、すぐに競りあがってくる絶望に支配された。鬼を打ち据えることも、勝利を手に入れることも、彼女がいなければ意味がなくなってしまうのだ。
恐れも憎しみも嫌悪も、全てが哀しみに呑み込まれてしまう。
――大丈夫。見てください。あなたの哀しみが鬼にうつる。ただ泣いているあなたを襲っては来ることはありません。鬼は負の心を映す鏡のようなモノ。あなたが嫌悪すると、鬼もあなたを嫌悪する。憎めば憎み、恐れれば恐れます。
彼女の指先が語る言葉を、彼は懸命に聞いた。そうしなければいけない気がしたのだ。まるで最後の言葉を振り絞るような、朔夜の覚悟が伝わってくる。
彼は涙で歪む視界で、果てしなく辺りを埋め尽くす鬼を眺めた。たしかに彼らはさっきまでの激しい様子が嘘のように力なくこちらを窺っている。肩を落として立ち尽くす姿は、まるで朔夜を悼んでいるかのように哀しげに見えた。
――カナシイ、カナシイ、カナシイ。
ぞろりと蠢く影から声が聞こえる。怨嗟にも似た暗い声が、哀しいと訴えているのだ。彼は耳を疑ったが、たしかに響いてくる。
――ヒトリ、カナシイ、カナシイ、ヒトリ、カナシイ。
そっと朔夜の指先が触れる。
――恐れないで。
「……恐れてなど」
恐れてなどいない。本当に恐ろしいのは朔夜が傍にいなくなることなのだから。
――ヒトリ、カナシイ、カナシイ。
暗い声が渦巻くほど、引きずり込まれるかのように絶望が深くなっていくのが判る。朔夜が消えてしまうのならば、もう全てがどうでもいい気がしていた。このまま鬼に寄り憑かれて禍と成り果ててもいい。どうせ誰も自分が生きていることを喜んでなどくれないのだから。
――鬼は誰の内にも在るもの。あなたには、その凝った思いを天に導くことができます。
恐れずに鬼に触れて下さいと朔夜が促す。彼は濡れた黒硝子のような瞳で、目前の鬼を眺めた。肩を落としてじっとこちらを見たまま立ち尽くしている影。恐ろしさなど感じない。哀れなほど小さな闇。打ちひしがれ、まるでじっと絶望に耐えているかのようだった。
これまで見てきた光景が嘘のように。可哀想なくらいに。
――カナシイ、ヒトリ。カナシイ。
同じなのだと思えた。憎まれ疎まれる存在。孤独であることを嘆くだけの自分と同じ。
そして、どうすればいいのか判らないのだ。
「おまえも、哀しいのか」
哀しかったのか。
誰にも顧みてもらえないことが。独りが。
あるいは朔夜を失う恐れと絶望が、この胸の内から伝染したのだろうか。
0
お気に入りに追加
134
あなたにおすすめの小説
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
見捨てられたのは私
梅雨の人
恋愛
急に振り出した雨の中、目の前のお二人は急ぎ足でこちらを振り返ることもなくどんどん私から離れていきます。
ただ三人で、いいえ、二人と一人で歩いていただけでございました。
ぽつぽつと振り出した雨は勢いを増してきましたのに、あなたの妻である私は一人取り残されてもそこからしばらく動くことができないのはどうしてなのでしょうか。いつものこと、いつものことなのに、いつまでたっても惨めで悲しくなるのです。
何度悲しい思いをしても、それでもあなたをお慕いしてまいりましたが、さすがにもうあきらめようかと思っております。
殿下には既に奥様がいらっしゃる様なので私は消える事にします
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のアナスタシアは、毒を盛られて3年間眠り続けていた。そして3年後目を覚ますと、婚約者で王太子のルイスは親友のマルモットと結婚していた。さらに自分を毒殺した犯人は、家族以上に信頼していた、専属メイドのリーナだと聞かされる。
真実を知ったアナスタシアは、深いショックを受ける。追い打ちをかける様に、家族からは役立たずと罵られ、ルイスからは側室として迎える準備をしていると告げられた。
そして輿入れ前日、マルモットから恐ろしい真実を聞かされたアナスタシアは、生きる希望を失い、着の身着のまま屋敷から逃げ出したのだが…
7万文字くらいのお話です。
よろしくお願いいたしますm(__)m
【完結】今夜さよならをします
たろ
恋愛
愛していた。でも愛されることはなかった。
あなたが好きなのは、守るのはリーリエ様。
だったら婚約解消いたしましょう。
シエルに頬を叩かれた時、わたしの恋心は消えた。
よくある婚約解消の話です。
そして新しい恋を見つける話。
なんだけど……あなたには最後しっかりとざまあくらわせてやります!!
★すみません。
長編へと変更させていただきます。
書いているとつい面白くて……長くなってしまいました。
いつも読んでいただきありがとうございます!
運命の番?棄てたのは貴方です
ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。
番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。
※自己設定満載ですので気を付けてください。
※性描写はないですが、一線を越える個所もあります
※多少の残酷表現あります。
以上2点からセルフレイティング
その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる