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第三話 失われた真実

第八章:1 夢と現VI

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 が追いかけてくる。 
 彼らに捕まってはいけない。梢から漏れる淡い夜光ひかりが追手を照らし出す。人影の不自然な輪郭かたちが、少しずつあらわになった。 
 彼女は逃れるために、夢中で走っていた。あるかなしかの光に包まれた夜道には見覚えがあるはずなのに、ここがどこなのかわからない。迷路に入り込んだように、行く当てもなく走っている。 

(どこへ行けば、いいの) 

 ふと過ぎる想い。掠めてゆく孤独。 
 考えないようにしても、絶望はじわじわと彼女の中を満たしてゆく。 
 彼女は振り返って追手を確かめた。 

 うごめく暗い影。 
 彼らは人ではない。ぞわぞわと密度を増していく暗黒。まるで呼び寄せられたかのように集まって、追いかけてくる。 

 と成り果てたもの。 
 懸命に走っているのに、彼らとの距離は縮まっている。このままでは追いつかれてしまうだろう。 
 もっと早く走らなければ捕まってしまう。判っていても、既に息は上がっている。胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。 
 足取りは重たくなる一方だ。 

 群れを成して追ってくるは、呼吸をしているのかどうかも判らない。生気のない顔をしているのに、動きは敏捷びんしょうだった。 
 彼らの眼差しは闇のように暗く、別世界を映しているようにも思えた。 
 手を伸ばせば届きそうな距離まで、気配が近づいている。 

 捕まってしまう。 
 彼女は恐ろしさにすくんで、目を閉じた。 
 誰かが、自分の腕をつかむのと同時だった。 

 悲鳴を上げると同時に、彼女はその場に強く引き倒される。いっせいに伸びてきた手に長い髪を掴まれ、動きを封じられる。小柄な体にのしかかるように、数多のが彼女を押さえつけた。 

 溢れ出る涙のせいで、既に視界は滲んでいる。濡れた瞳に映る光景が、おぞましい影で埋め尽くされた。次から次へと容赦なく伸ばされる手と、不自然な輪郭かたち。 
 輪郭を与えられたが、群れをなして彼女に襲い掛かって来る。 

(助けて、誰か――) 

 這い出そうとしては、足首を掴まれて引き摺り戻される。もはや自力では逃げ出すことが適わない。 
 悪意が形作った魂鬼こんきの襲撃。 
 憎悪に呑まれた人々に寄りつき、によって悪意が器を手に入れる。あるいは強烈な悪意が具現する。魂鬼こんきを形作るのは、人々の想念。悪しき感情。 

 彼女は懸命に覆いかぶさるを払いのけようとしてあがく。悪意によって形作られた影は、頭頂にそそり立つ角を持ち、人外の者であることを示した。

(どうして、こんなことに)

 嗚咽を漏らす余裕もない。それでも、涙に濡れた頬が乾くことはなかった。 

(――誰か) 

 遠ざかった金域こんいきの輝きが、木々の梢からほのかに黒樹こくじゅもりを照らしている。黄帝の許可を得ず金域に立ち入ったものが生きて戻れぬ理由は、やはりこの地帯にあるのだろう。 

 自分は黄帝の意に背いているのだろうか。先守さきもりの言葉を信じていても、不安はどこからか滲み出してくる。 
 けれど、導かれずとも彼女はきっと同じように逃亡を試みたと思いなおす。許されない過ちだと判っていても、自分の想いに背くことができない。 

 例えそれが天意の逆鱗げきりんに触れるのだとしても、歪めることは出来なかった。
 心に決めた比翼ひよくは、ただ一人。 
 その心を偽り、想いに背くほうが大罪となる。 

(私の想いは、――) 

 変わらない、変えられない。 
 どんな陵辱を受けようとも、消えない。胸に刻まれている輝き。 

 彼女はこんな処で果てるわけには行かないと、歯を食いしばって逃れようと力を振り絞った。激しい息遣いは、まだ熱を帯びている。まるで強烈なかぜに当てられたかのようだ。思うように力を発揮できない。 
 虚空の鞘から自身の剣を掴み取ろうとするが、刀身が形にならなかった。 

「助けて、誰か……」 

 呟きは襲い掛かる手によって、むなしくかき消される。彼女は思わず彼の名を叫びそうになって、辛うじて思いとどまった。 
 どっと胸に迫る罪悪感。 

(今、助けを乞うことはできない) 

 彼の翼扶つばさとしてある限り、呼べばみちが開かれる。迷わず駆けつけて救い出してくれる。 
 けれど。 

(この体を、あの方の前に晒す勇気がない)

 魂鬼こんきに襲撃を受けた傷とは異なった痣が、体中に刻まれている。彼女は思い出すだけで体が震えた。頬を伝って熱い涙が滑り落ちる。 
 全てを悟ったとしても、彼はきっと受け止めてくれるだろう。決して彼女を責めることは無く、抱きしめてくれるに違いない。 

(だけど、……知られたくない) 

 知られてはならない。

(もし、あの方と黄帝に、軋轢あつれきが生まれてしまったら……)

 世を滅ぼすわざわいとなる契機を与えてしまうことになりはしないか。
 彼女は再びどこへ行けばいいのかわからなくなった。黄帝から逃れてどこに向かえばよいというのだろう。 
 闇呪あんじゅに縋ることなど、できよう筈がないのに。 

(――わたくしにも、覚えのある感情です) 

 ふと華艶かえんの美しさが心をよぎる。先守きさもりの宿命を、彼女は哀しそうに語った。故に、彼が焦がれても手に入れる事のできなかった想い。 
 信じていても、それはつっと彼女の中に影を落とす。 
 呼応するように、生身からだの痛みが増す。 

(――知られたくない) 

 様々な想いが錯綜して、朱桜すおうは身動きがとれなくなった。 
 魂鬼こんきが彼女の魂魄いのちを貪るように、細い首を締め上げる。気持ちが挫ければ、すぐに魂魄いのちが喰らい尽くされ屍となる。彼らはますます群れを増し、ぞわぞわと辺りに充満した。 

(だけど) 

 弱気になる気持ちを、彼女は精一杯奮い起こす。 
 ここで果てるわけには行かないと、力の入らない腕でもがいた。息がつけない。 
 苦しさが限界に達する。 

(死ねない。……私はまだ、何も伝えていない) 

 生き延びると強く念じながらも、生き残るための方法を模索することが出来ずにいた。何があっても、彼に助けを乞うことはできないのだ。この身に起きた出来事だけは、知られたくない。彼の元へ帰ってよいのかも、わからない。 

「助けてっ……」 

 声だけが虚しく響く。彼女の気持ちが折れかけた時、ざっと辺りを旋回する巨大な影が過ぎった。大きな翼が辺りの木々をなぎ倒す。同時に彼女を捕らえていた数多の影が吹き飛んだ。 
 自由を取り戻した手足で起き上がると、すぐに腕を掴む強い力があった。 

「こっちだ、早く走れ」 

 どこから現れたのか、小柄な少年が彼女を連れて走る。彼女は重い体を引き摺るようにして懸命について行く。少年の素性を確かめる暇もない。 

「こっちよ、こっち」 

 前方の木々の合間から、少年に良く似た少女が手を振った。金域こんいきの輝きが届くとはいえ、視界は暗く明瞭であるとは言えない。彼女は息が続かず、その場に崩れるようにして膝をついた。 
 少年がちっと舌打ちする。 

「まだ変化の途中だな。いったいこれは何事なんだ。ったく、最悪の始まりだ」 
「ちょっとぅ、何をしているのよ」 

 少女が駆けつけてきて、彼女の前に立った。 

「まだ完全じゃないのね。……とりあえず、私達の名を呼んで」 

 彼女は喘ぎながら二人を仰いだ。少年が苛々した面持ちで繰り返す。 

「さっさと俺達の名を呼べよ。それで、守護が完成する」 
「――え? 何……」 

 彼女は要領を得ない。少年と少女がはっとしたように背後を振り返った。跳躍する少年から再び舌打ちが聞こえる。 

「何かがおかしい。とにかくおまえは走れ。力の限り」 

 ぞわぞわと群れを成した黒い大群が迫ってくるのが判る。彼女は重い体を起こす。少女の声が響いた。 

「ここは私達に任せて」 

 力強い声だった。彼女は気持ちを奮い立たせ、再び駆け出した。後ろを振り返る余裕はなく、ただ黒い木立の中を駆けた。 
 このまま彼の傍に戻ってよいのは、わからない。 
 これまでのように、傍にいることはできないのかもしれない。 

 けれど。 
 それでも。 

(私は、伝えなければいけない)

 何があっても。 
 彼の想いに応えるために。ただ一人、自身の比翼となる人。 

闇呪あんじゅきみ、私は誰よりもあなたを――)
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