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第三話 失われた真実

第二章:2 噂との差異

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 直後、キンと拍子抜けするほど軽い音が響く。彼方かなたのすぐ傍らで身動きする気配が、緩やかな風を生んだ。 

「――この地で抜刀して剣を振るうなど、正気か」 

 彼方は現れた人影を見て、小さく声をあげた。 

「ふ、副担任」 

 まるで大したことではないように、副担任であるはるかが碧宇の剣を受け止めていた。遥が手にしている輝きのない刀剣。彼方は緊迫した状況を置き去りにして、思わずしげしげと眺めてしまう。 
 辺りの暗闇よりも、いっそう深い漆黒。眺めていると、艶やかな美しさが浮かび上がってくる不思議な剣だった。 

(もしかして、白亜の話に出てきた、――悠闇剣ゆうあんのつるぎ……) 

 遥は受け止めていた剣を簡単に振り払って、碧宇へきうと対峙している。 

「ここは天落てんらくの地。かんの地と同様に戦伐せんばつの禁じられた地。――退かぬなら誰であろうと容赦はしない。魂魄いのちを失うと思え」 
「――闇呪あんじゅあるじか」 

 碧宇へきうの問いに、遥は沈黙で答えた。碧宇はゆっくりと構えていた剣を下ろし、虚空へ一振りして具現化することのない鞘へおさめた。戦意のないことを示すと、碧宇はさっき降りてきた階段へと足を向ける。立ち去ろうとする碧宇に、遥のよく通る声が問いかけた。 

「目的は何だ。誰の差し金だ」 

 碧宇は背を向けたまま、くっと小さく笑う。彼方には闇呪あんじゅを前にして、兄がこれほど平然と構えていられることが信じられない。容赦なく葬り去られるとは考えないのだろうか。何もかもが、彼方かなたの想像を超えた行動だった。 

「我が主は黄帝」 
「どうやら愚問であるようだ」 

 遥は聞くだけで無駄であったというように、深く息をついた。碧宇は浅い笑みを浮かべたまま続けた。 

「今は貴殿の相手をする段階ではない。――出直そう」 

 呆気なく戦意を喪失して、碧宇は引き下がる。それ以上何も語らず、すっと踊り場の暗闇に姿を消した。 

「兄上っ」 

 咄嗟に彼方が追いかけても、もうどこにも姿がない。唖然として立ち尽くしていると、背後で深い溜息を感じた。深夜の校内に、よく通る艶やかな声が響く。 

「どうやら王子様は厄介ごとばかり持ち込んでくれるようだな」 

 彼方をちらりと横目で見たまま、遥が睨む。絶体絶命の危機を脱したのも束の間、彼方はすぐに新たな緊張感に占められる。 

「えーと。この場合、僕は被害者だと思うんだけど」 

 既に副担任の正体が、極悪非道だと語られてきた闇呪であることは明らかである。こちらの地で見てきた限り、彼は噂ほど残虐な人物には見えない。見えないが、それでも全ての恐れが払拭されるには程遠い位置に在った。 

 闇呪である副担任に対して、彼方はどのように接すればいいのかわからない。互いに素性が明らかなのだ。今更、教師と生徒を演じることはできない。
 戸惑う彼方に構わず、遥は手にしていた剣を一振りして虚空にある鞘へ収めた。何事もなかったように歩み寄ってくると、彼方の腕を掴む。 

「痛っ」 

 腕を引っ張られた勢いで、傷口に激痛が走る。彼方はその痛みで左肩を負傷していたことを思い出した。 

「――仲間割れか」 

 遥に問われて、彼方は「違う」とすぐに頭を振った。何がどうなっているのか、彼方自身にもわからない。あんなに弟として自分を可愛がってくれていた兄の、信じられない豹変振り。それを思うだけで、気持ちが暗くなってしまう。 
 遥にどのように成り行きを説明すれば良いのか考えていると、血に濡れた左肩の辺りを眺めていた遥が口を開いた。 

「上着を脱ぎなさい」 
「え?」 
「いちおう教え子と先生の関係ですからね。止血くらいはしてあげましょう」 

 突然副担任の立場を取り戻した遥に、彼方は身につけていた制服の上着をもぎとられてしまう。中にきていた白いシャツは、更に血の赤が鮮明だった。

「ちょっ、待って。い、痛い」 

 彼方の訴えを見事に聞き流して、すっぱりと切られた処から、遥はシャツの左袖を無造作に破る。それを包帯代わりにして、彼方の傷口を押さえるように回して、締め上げた。 

「い、いたたた」 
「この場合は手当てをするしか方法がありませんからね。怨むのなら、こんな痛手を負わせた相手を怨みなさい」 

 応急処置が終わっても、彼は生徒として彼方が帰宅するのを見届けるつもりなのか、立ち去ることはなくこちらを眺めている。 

「あの、どうして今更、副担任のふりをするわけ?」 
「私は正真正銘の副担任ですが……」 
「あなたは闇呪の主だ」 

 思い切って宣告すると、遥はやれやれと吐息をついて暗い廊下を歩き出した。彼方は成り行きで後ろをついていく。 

「先生と生徒の方が簡単だろう」 
「そういう問題じゃないと思うけど……」 

 ぼそりと本音を漏らすと、彼は「面倒くさいだけだ」と呟いた。 
 遥の背中を見ながら廊下を進んでいると、彼方は全てが夢ではないかという錯覚に陥る。極悪非道だと語られてきた闇呪には、何の恐れも感じない。自分を窮地から救い出し、丁寧に傷の応急処置まで施してくれるのだ。 

 再会した兄である碧宇の方が、よほど恐ろしかった。 
 自分の中にあった何かが根底から覆るような気がして、彼方の戸惑いは大きくなる一方だ。 
 闇呪に出会い、語り合うことが可能であれば、彼方は山のように聞きたいことがあった。けれど、立て続けに起きた予想外の展開に混乱しているのだろうか。何を問うべきなのかが、にわかにわからなくなっている。 

 兄の碧宇が語った、彼方の立場。今となっては、自分の立ち位置さえしっかりと把握できていない。整理のつかない思考の中で、彼方はふと一つだけ状況に相応ふさわしい問いが浮かんだ。 

「副担任は、もう体の具合はいいの? たしかを呑んで重体だった筈だよね」 

 当たり障りのない会話の糸口を見つけたと思ったが、はるかは不自然に歩みを止めて、驚いたように振り返る。彼方は何かまずいことを口走ってしまったのかと、思わず背筋を伸ばした。 

「君は正体を知りながら、私のことを心配するのか。――変わっているな」 

 遥は機嫌を損ねた様子はなく、珍しいものを見るようにこちらを見ている。彼方はそう言われるのも無理はないと思ったが、素直に答えた。 

「あなたが僕の想像と違っていたから」 
「想像?」 
「噂だよ。極悪非道だと聞いていた」 

 打ち明けると、遥は自嘲的に小さく笑う。 

「私はいずれそういうものになるのだろうな」 

 寂しげな声だった。彼方は自分の中に刷り込まれた闇呪あんじゅが、作り上げられた悪の虚像であったことに気付く。 
 本人と出会えば、こんなにも明らかなことだ。 
 白虹はっこう皇子みこが出会った誰か。白露はくろの末路を救ったのは、おそらく目の前にいる遥――闇呪あんじゅに違いない。 
 何かが違うと彼方はますます混乱が増す。 
 どこかに大きな過ちがあるのだ。 

「副担任。あなたは昔、白虹はっこう皇子みこを助けたことがあるよね」 
「白虹の皇子?」 
「当時、透国とうこくの後継者だった皇子みこだよ。地界の娘を望んだけれど、病で亡くした。残されたのは黒きむくろで。あなたはその娘の亡骸を救った」 

 自身の中に芽生えた期待。彼方かなたはそれを証明したくて、まくし立てるように語る。 
 どうして、こんなにも遥に肯定してほしいと思うのだろう。 
 人柄がどうであっても、彼は世界を滅ぼす凶兆でしかないのだ。 
 その宿命を変えることはできないのに。 
 彼が完璧な悪でなければ、何かが救われるような気がするのだ。 

「黒き躯か。たしかに君の言うことには覚えがあるが」 
「やっぱり」 
「私は取り返しのつかない過ちを犯したのかもしれない」 

 遥の語る後悔が何を意味しているのか、彼方には判らない。白露はくろを救った経緯いきさつが、なぜ過ちになってしまうのか。 

「今更悔いても仕方のないことだな。それが間違いだったのか正しかったのかは、私が答えを出すことではないのだろう」 

 校舎の闇を貫く声。明瞭で穏やかな響きだった。彼は真っ直ぐに彼方かなたを見つめた。 

へきの王子、残念ながら私には天界で何が起きているのか判らない。しかし、私がどのように在ろうとも、この身に与えられた宿命は消えない。私が望まずとも、いずれ黄帝のあだとなり、世界を滅ぼすやみとなる。君がこちらの世界で動くのは勝手だが、相称そうしょうつばさに関わろうとするのならば、相応の覚悟をしておいた方がいい」 

 遥は守護である黒麒麟くろきりんから、彼方が彼らに語った事情を聞いているのだろう。 
 語られた警告には脅しの要素がなく、まるで彼方の立場を労わるような言い方だった。その印象はすぐに裏付けられた。 

「君に剣を抜いたのは、同じ碧の王子だった。そうだろう?」 
「――うん」 

 小さくうなずきながら、彼方は斬りつけられた肩をてのひらで押さえた。信じたくない事実だったが、傷跡が真実であることを示す。傷跡の痛みは嘘のようにひいていたが、ずんと胸が痛んだ。 

「天界へ戻り、大人しく過ごした方が良い」 
「今更そんなことはできない。僕は真実を知りたい」 

 噛み締めるように呟く。彼方は勢いに任せて問う。 

「あなたにとって相称の翼は憎むべき存在なのかもしれない。だけど、僕にとっては救世主だ。どんな思惑が絡もうとも、諦めることはできない。ねぇ、あなたは本当に相称の翼を奪ったの? どうして?」 

 遥は動じる様子もなく、ただ浅く笑った。 

「君に答える必要はない」 

 強い眼差まなざしで遥を見上げていると、彼は改めて厳しい声を出す。 

「とにかく警告はした。君が私の護るべき者の仇となるなら、その時は容赦しない」 
「――護るべき者?」 

 遥はそれ以上語らず、彼方に背を向けた。足音もなく校内を歩いていく。彼方は立ち尽くしたまま、月明かりに照らされ、遠ざかっていく背中を見つめていた。 
 求めているものは、未だ手に入らない。 
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