上 下
60 / 233
第二話 偽りの玉座

終章:一 天落の地

しおりを挟む
 異界へ渡るこの感覚を、どのように表現すれば良いのか翡翠ひすいにはわからない。 
 それでもあえて言葉にするのなら。 
 世界がどこからか捲れ上がって、その変化の中に自分も巻き込まれている錯覚。

 全てが覆されて、新たな世界へと生まれ変わるように。 
 そこには何も無い。けれど、何かが在る。 
 目の前に広がる闇は何一つ変わらないのに、忙しなく流動しているようにも見えた。 

 かいくぐる様に虚空を掻いても、触れる物は何もない。 
 視界を奪う深淵の中で、いつしか自身の鼓動だけを聞いている。 
 長く歩き続けたような気がしたが、ただ立ち尽くしていただけのような気もする。 

 やがて。 
 はっと目覚めるように、異界に立つ自分を知るのだ。 


「――ようこそ、天落てんらくへ」 

 目の前に立つ男は、翡翠に向かって深く頭を下げていた。異界は夜を迎えているらしく、昼夜の区別を無くした天界や地界よりも、そらは更に深く暗い。 
 輝く点が散りばめられ、一面が澄んだ濃紺に染められた異界のそら。 
 翡翠にも美しいと感じることが出来る。 

 異界に聳え立つこの建物が、人々の学び舎であることは承知している。 
 立ち入りを禁じられた、校舎の屋上。 
 今までにも、翡翠は幾度となくここに降り立って来た経験が在った。 
 けれど、異界へ渡り、出迎えを受けるのはこれが初めてだった。目の前の男は異界に良くある黒髪と黒目である。 

 既に見慣れていた筈なのに、翡翠は鼓動が高鳴るのを感じた。 
 この男が異界に渡ったと噂をされている闇呪あんじゅではないと言い切れるだろうか。天籍てんせきを持つ者が放つ気配を感じないが、異界でもその感覚が有効であるとは限らない。 
 警戒心と緊張を高めていると、目の前の男はゆっくりと顔を上げる。 

「天籍をお持ちであれば、貴方は私の言葉を理解できるはずです」 
「――言葉?」 

 問い返すと、彼は頷いて見せた。 

「良かった。……私にもあなたの言葉は理解できるようです」 
「意味がわからない。あなたは一体誰なんだ」 

 翡翠にはこれまで異界の言語を理解できなかった記憶がない。人々が語る言葉も、書き表された記号も文字も、そこに示された意思を正しく伝えてくれる。 

「あなたはこちらの世界の者にとっては、神と人の狭間にあるように映ります。言葉も文字も、発音や形に左右されることはなく、その中に含まれた意思を理解する」 

 翡翠は異界との事情の違いを説明されているのだと、何となく男の語ることを理解した。けれど、ここで一番の問題となるのは、彼の正体なのだ。警戒を緩めず、目の前の男を見据えた。 

「僕の質問に答えていないよ。あなたは誰なんだ」 
「私はこの学院の理事長から、ここであなたを迎えるように命じられた者です。東吾とうごと申します」 

「学院の理事長ということは、堕天した先守さきもりの一族?……天宮あまみや?」 
「どのように受け取っていただいても結構です。あなたは碧国からおいでになった第二王子。愛称は翡翠。そうですね?」 
「……そう、だけど」 

 闇呪あんじゅではないことは、既に明らかである。それでも抑揚の無い男の声が、翡翠には不気味に聞こえた。堕天した先守が今も天落の地を護っているという話は、白虹はっこう皇子みこから聞いている。 
 けれど。 

「どうして僕がここに来ることを知っていたの? それは先守さきもりの占い? だとすれば、天宮あまみやはこちらの世界で、まだ先守として顕在しているということ?」 
「何も申し上げることは出来ません」 

 男は答えてくれなかったが、ここに翡翠を迎えるために現れたということが、全てを肯定している。 

「あなたがこちらの世界で過ごすための用意は揃っています。あなたがお望みであれば、学院に受け入れる手続きも進めます」 

 男は翡翠を導くように、ゆっくりと歩き始めた。翡翠はしばし呆然と佇んでいたが、覚悟を決めて男の後をついていく。一体どのような思惑が絡んでいるのかは分からないが、異界に滞在するための条件を手に入れられることは確かなのだ。 

 霊獣れいじゅう趨牙すうが――皓月こうげつが自分を裏鬼門まで送り届けてくれた意味。 
 全ては、天意の示すままに。 
 翡翠は目に見えない使命が与えられているのかもしれないと考えていた。 

「どうして、僕にそこまでしてくれるの?」 

 前を進む男の背中に声をかける。どうせ答えてくれないだろうという予想とは裏腹に、男は翡翠を振り返って答えた。 

「――こちらの世界には、あなたの望んだものがあるのかもしれない。だから、どうか心ゆくまでこちらの世界を探検されると良い――。それが理事長である天宮からの伝言です」 

 男――東吾とうごは始めて無表情な顔に、かすかに笑みを浮かべた。翡翠の存在に好奇の目を向けず、嫌悪感を現すこともない。得体が知れない事この上ないが、不快ではなかった。 
 翡翠は「ふうん」と気のない相槌だけを返す。 

(――僕の望むもの、か)

 それは鍵となる相称そうしょうつばさ。 
 そして、それ以上に。 
 世界の未来を護るための、――真実。 

(天宮は何もかもお見通しって訳だ) 

 翡翠はこれからのこちらでの日々に気合いを入れるように、大きく深呼吸をした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

王太子殿下の執着が怖いので、とりあえず寝ます。【完結】

霙アルカ。
恋愛
王太子殿下がところ構わず愛を囁いてくるので困ってます。 辞めてと言っても辞めてくれないので、とりあえず寝ます。 王太子アスランは愛しいルディリアナに執着し、彼女を部屋に閉じ込めるが、アスランには他の女がいて、ルディリアナの心は壊れていく。 8月4日 完結しました。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】どうして殺されたのですか?貴方達の愛はもう要りません  

たろ
恋愛
処刑されたエリーゼ。 何もしていないのに冤罪で…… 死んだと思ったら6歳に戻った。 さっき処刑されたばかりなので、悔しさも怖さも痛さも残ったまま巻き戻った。 絶対に許さない! 今更わたしに優しくしても遅い! 恨みしかない、父親と殿下! 絶対に復讐してやる! ★設定はかなりゆるめです ★あまりシリアスではありません ★よくある話を書いてみたかったんです!!

【完結】そんなに側妃を愛しているなら邪魔者のわたしは消えることにします。

たろ
恋愛
わたしの愛する人の隣には、わたしではない人がいる。………彼の横で彼を見て微笑んでいた。 わたしはそれを遠くからそっと見て、視線を逸らした。 ううん、もう見るのも嫌だった。 結婚して1年を過ぎた。 政略結婚でも、結婚してしまえばお互い寄り添い大事にして暮らしていけるだろうと思っていた。 なのに彼は婚約してからも結婚してからもわたしを見ない。 見ようとしない。 わたしたち夫婦には子どもが出来なかった。 義両親からの期待というプレッシャーにわたしは心が折れそうになった。 わたしは彼の姿を見るのも嫌で彼との時間を拒否するようになってしまった。 そして彼は側室を迎えた。 拗れた殿下が妻のオリエを愛する話です。 ただそれがオリエに伝わることは…… とても設定はゆるいお話です。 短編から長編へ変更しました。 すみません

別れてくれない夫は、私を愛していない

abang
恋愛
「私と別れて下さい」 「嫌だ、君と別れる気はない」 誕生パーティー、結婚記念日、大切な約束の日まで…… 彼の大切な幼馴染の「セレン」はいつも彼を連れ去ってしまう。 「ごめん、セレンが怪我をしたらしい」 「セレンが熱が出たと……」 そんなに大切ならば、彼女を妻にすれば良かったのでは? ふと過ぎったその考えに私の妻としての限界に気付いた。 その日から始まる、私を愛さない夫と愛してるからこそ限界な妻の離婚攻防戦。 「あなた、お願いだから別れて頂戴」 「絶対に、別れない」

処理中です...