上 下
18 / 233
第一話 天落の地

第5章:1 不穏な影1

しおりを挟む
 いつもどおり登校すると、始業開始までに出会うことが少ない佐和さわの姿が教室にあった。朱里あかりは自分の席に鞄を置くと、既に生徒達に囲まれている彼女の元へ歩み寄った。 

「おはよう、佐和。今日は部活の朝練なし?」 

 声をかけてから、朱里はすぐに愚問であることに気付いた。 

「どうしたの? それ」 

 佐和は石膏で固められた左腕を肩からの包帯で吊っている。骨折しているのだ。朱里は一瞬、既に治った昨日の怪我を佐和が肩代わりさせられたのかと焦った。そんな代償が必要ならば、自然に治っていくのを持つほうが良いに決まっている。 

「おはよ、朱里。昨日さ、部活でやっちゃったんだよね」 

 佐和の言葉で、朱里はすぐに思い違いだと考えを改める。佐和は苦笑しながら、朱里の腕を見た。 

「せっかく朱里がかばってくれたのに、これじゃあ意味がないよね」 
「そんなこと関係ないよ」 

 朱里は思わず既に完治している自分の腕に掌を当てた。学院は十月を間近に控えて、丁度冬服へと移行していく衣替えの時期である。学院内には夏服と冬服が混在していた。朱里は既に冬服を着用していたので、腕は長袖に隠れている。昨日の今日で跡形もなく消えている傷跡の不自然さは、それで誤魔化すことができた。 

「だけど、部活でそんな大怪我をするなんて」 

 朱里が佐和の石膏で固められた腕を心配そうに眺めると、佐和は照れくさそうに笑った。 

「全力疾走していて、こけただけなんだけど。掌をつけばよかったのに、咄嗟に手の甲で支えたもんだから、バキッて。倒れたとき嫌な音が聞こえたもん」 

 状況を想像するだけでも、朱里は身震いした。周りに集っていた生徒の中に、佐和と同じ陸上部の男子生徒がいて彼女の説明を補足する。 

「でも、速水はやみのこけ方はすごかった。俺は丁度目撃したけど、体が吹っ飛んでた。全力疾走の勢いってすごいんだなって、思わず感心したよ」 

 素直な感想にうけたらしく、佐和は声をたてて笑う。 

「あー、たしかに自分でもそれは思った。……でも、不思議なんだよね。思い切り障害物に引っ掛かった気がしたんだけど。でもコース上に障害物とか荷物を置いてあるわけないし。あの感じは何だったんだろう。ちょっと謎かも」 
「不自然といえばこけ方が不自然だったような気もするけど。でも勢いがついていたら、あんなもんじゃないか」 

 二人の会話を聞きながら、朱里は理科室の前で見た女子生徒の光景を思い出していた。辺りを包んでいた暗い陽炎。もしかすると佐和の怪我も繋がっていないだろうか。学院内に蠢いている、この世に有り得ない何か。 

 それが生徒に危害を加えるのなら見過ごしておくことは出来ない気がする。朱里は言いようのない不安を覚えたが、すぐに考えすぎだと打ち消した。全ての原因をそこに見出すほど、朱里は不穏なモノの正体を知っているわけではない。 
 学院にははるかもいるのだ。彼は得体の知れない何かに有効な力を発揮することが出来る。 

「全治二ヶ月は長いよ。体がなまる」 

 残念そうに呟いて、佐和が石膏に包まれた左腕を撫でている。 
 それほど事態を深刻に考えていない佐和の様子は、いつものように能天気だった。彼女の怪我は偶然の事故なのだ。朱里は自分の中に芽生えた憶測を吐き出すように、深く吐息をつく。昨日の体験が思った以上に尾を引いているに違いない。少し神経質になりすぎだと気持ちを切り替えようとした時、朱里はギクリと体を強張らせた。 

 背後から淀んだ何かが迫ってくる。気分が悪くなるほど重苦しい空気。 
 ざわりと肌を撫でる危機感には、覚えがあった。 
 朱里はゆっくりと振り返って、あまりの光景に目を瞠る。 

「……夏美なつみ」 

 いつのまにか、暗い陽炎が教室を満たすように立ち昇っている。 
 朱里のすぐ背後には見慣れた小柄な人影が佇んでいた。いつもと同じ光景なのに、息が詰まるほど禍々しい。朱里は鳥肌が立つのを感じながら、思わず一歩後退した。 

「朱里、おはよう」 

 か細い声だった。色白の顔色は蒼ざめて色を失っている。現れた夏美はこの上もなく加減が悪そうだった。今にも意識を手放して倒れてしまいそうである。 

 教室には黒いもやが充満しているのに、誰も気がついていない。室内はいつもどおりで、生徒達のざわめきが賑やかだった。 
 朱里は夏美の間近まで歩み寄って、その蝋人形のような顔色を見つめた。 

「夏美、顔が真っ青だよ。体の調子が良くないんじゃないの?」 

 教室を埋め尽くす暗い陽炎かげろうがなければ、朱里はこれほど狼狽ろうばいしなかったのかもしれない。昨日の部活見学が、虚弱な夏美に負担だったのかと考えただけだろう。 

「保健室に行って休む?」 

 朱里は手の先から血の気が引く。禍々しい陽炎が夏美から体力を奪っているような気がして仕方がなかったのだ。弱々しい夏美の状態を偶然だと考える余裕がない。 

「朱里」 

 細い腕をとると、夏美は泣き出しそうな顔で朱里を見た。 

「助けて。……私、どうすればいいのか」 
「え?」 
「夏美、おはよ」 

 二人の会話を遮るように、後ろから佐和の闊達な声が響いた。 

「わ。ちょっと、顔色が悪いよ。大丈夫?」 

 佐和もすぐに夏美の状態に気がついたようだ。石膏で固められた左腕をものともせず、身軽に傍まで駆け寄ってくる。夏美は目の前に立った佐和を見て、蒼白な顔をひきつらせた。 

「ちがう。私は、……そんなこと、望んでいない」 
「どうしたの? 夏美」 

 佐和が歩み寄ると、夏美はガタガタと震え出した。朱里は細い針に貫かれるような寒気を感じた。はっとして辺りを見回す。 
 どうっと勢いを増して、暗い陽炎が深さを増す。朱里は悪夢のような光景を前にして、身動きできなかった。 

 黒いもやは密度を増して、生き物のように天井へと駆け上って行く。真っ黒な影の蠢きは、わざわいを手招きしているように不気味だった。 

「やめて。誰か、助けて……とめて」 

 夏美の細い声が、朱里の脳裏で昨日の女子生徒と結びついた。一心に助けてと訴えていた、かすかな声。 

「夏美?」 

 心配そうに手を伸ばした佐和の真上で、どろどろとした影が淀んでいる。天井に据えられた蛍光灯に、音もなく亀裂が走るのを、朱里は他人事のように見ていた。 

「いやぁ、違う」 

 夏美が悲鳴をあげて顔を伏せた。その声で朱里は呪縛を解かれたように我にかえる。一呼吸送れて、派手な衝撃音と共に頭上の蛍光灯が砕けた。 

「佐和っ」 

 朱里が彼女に手を伸ばすと、それを止めるように自分の体を抱きとめる力があった。 
 同時にどんっと激しい地鳴りがして、更に教室の窓硝子が砕け散る。あちこちで生徒達が悲鳴をあげていた。朱里は強く引き倒されながら、淀んでいた影が潰されるように四散するのを見た。 

「――委員長ってば、信じられないくらい無謀だね」 

 朱里を引き止めて同じようにその場に転倒したのは、五日ぶりに登校して来た彼方かなただった。彼は制服をはたきながら立ち上がると、朱里に手を差し出した。 

「私より、佐和は?」 

 朱里が顔を向けると、佐和はその場に立ち尽くしたまま固まっていた。驚きのあまり身動きできなかったようだが、どうやら無傷のようである。佐和は朱里の視線に気付いてようやく我に返ったらしく、引きつってはいたが笑顔を浮かべた。 

「昨日から、運勢が最悪みたい」 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

無価値な私はいらないでしょう?

火野村志紀
恋愛
いっそのこと、手放してくださった方が楽でした。 だから、私から離れようと思うのです。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

処理中です...