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第一話 天落の地

プロローグ:2 瞳

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 朱里あかりがぼんやりと寝間着のままダイニングに入ると、姉の麟華りんかがキッチンに向かって立っていた。自分なりに早起きしたつもりだが、兄の姿は見えない。食卓には朝食の名残があった。既に邸宅を出た後なのだろう。 

 寝不足のせいで、身体がだるい。 
 スリッパも履かず、裸足のままペタペタとフローリングを横切ろうとすると、気配に気付いた姉が弾かれたように振り返った。 

「うわぉ。朱里あかり、びっくりした。どうしたの? こんな朝早くから」 
「うん。何となく目が覚めたから」 

 姉である麟華りんかは目を丸くして、まじまじと朱里を見た。 

「えー? めっずらしい。あなた、ついに彼氏でも出来たの?  恋患い?」 
「あのね、朝から何を訳の判らないこと言ってるの」 
「だって、いつも起こしても、ぎりぎりまで寝ているくせに」 

 麟華は楽しげに笑っている。高校二年の朱里より一回り年上の姉だった。知的で格好の良い見た目に似合わず、明るくて可愛らしい気性の持ち主だ。 
 密かに朱里にとっては、自慢の姉だった。真っ直ぐに伸ばされた黒髪が、麟華が笑うと艶やかに揺れる。 

「だけど、私は朱里が彼氏を作るのは反対。朱里にはね、運命的な出会いをしてほしいのよ」 

 うっとりと、麟華は目を輝かせている。 

「麟華、お願いだから、良い年をして恥ずかしいことを堂々と言わないで」 
「全然、恥ずかしくないわよ」 

 麟華の突き抜けた調子は、早朝でも損なわれることがない。 
 変わらず朗らかで、明るくて元気だった。朝が弱い朱里には驚異的なくらいだ。 

「あー、寝不足でだるい」 

 目をこする妹をきょとんと見つめてから、麟華は首を傾げる。 

「どうしたの?」 
「くだらないことを考えていたら、眠れなかっただけ」 

 姉の麟華は朱里の通う学院の高等部で、美術の教師をやっているのだ。そんな麟華に、まさか学級内の企てを話すわけにもいかない。 
 朱里は寝不足の理由を適当につけて、リビングの大きなソファに沈み込んだ。 

麒一きいちちゃんは?」 

 姿の見えない兄の所在を尋ねると、麟華からは予想通りの返答があった。 

「もう大学へ行ったわよ」 

 麟華の双子の兄である麒一。
 彼は学院の大学で助教授を務めている。父親が理事長を勤める学院は、朱里達の住まいの裏手にあった。塀でへだてられているだけで、敷地の一部が背中合わせのようになっている。 

 朱里は兄姉三人で暮らしていた。物心がついてからの記憶を辿っても、父親の顔を見たのは数えるほどしかない。 
 母親の顔は全く知らなかった。朱里が生まれてすぐに逝去したと聞かされていたし、双子の兄達と朱里は腹違いになる。異母兄妹だった。 

 麒一きいち麟華りんかの母親も、朱里が生まれる頃には亡くなっていたという話である。 
 複雑な繋がりであるが、朱里はこれまで両親の不在を寂しいと嘆いたことはない。麒一と麒華が、幼い頃から妹の朱里をとても可愛がってくれたからだ。 

「麒一ちゃんって、いつもこんなに早いの?」 
「そうよ」 

 麒華によく似た兄の姿を思い浮かべて、朱里は素直に「すごいね」と感嘆を漏らした。 

「朝ごはん、食べるわよね」 
「うん。……顔を洗ってくる」 

 朱里は欠伸をつきながら、洗面所へ向かった。 




 鏡に映った自分の顔を眺めて、朱里あかりはぎくりとする。 
 瞳の色がいつもより明るい。彼女の眼は中心にある瞳孔は真っ黒なのに、虹彩はかなり茶色が強い。それは日本人には稀な明るい色合いで、更に外側の白目との境目などは、角度によっては赤褐色で縁取りを描く。 

 初対面の人には、よくカラーコンタクトをしているのかと間違われた。 
 朱里は明るめの瞳の色合いが嫌いだった。自分が慕う兄達との違いを突きつけられるようで嫌なのだ。 
 幼い頃から、瞳のおかげでどれほど嫌な思いをしてきたのかも数え切れない。 
 それでも、麒一や麟華が綺麗な眼だと言って褒めてくれるから、その瞬間だけは価値があるような気がしていた。 

「何、これ」 

 けれど、今朝の眼は何事だろうか。 
 朱里は恐る恐る、洗面台の鏡に映った自分の顔に手を伸ばした。 
 ひやりとした質感。鏡をこすって見ても、瞳の色は変わらない。 
 真っ黒な瞳孔を抱くのは、金色こんじきに輝く虹彩。白目との境界には、夕焼けを思わせる鮮やかなあか。 

 朱里は強く瞳を閉じて、開く。ゆっくりとした瞬きを数回繰り返した。 
 少しずつ、色合いが戻っているような気がする。 
 それとも、単に光線の加減だろうか。 

 眼が充血するくらいこすっていると、美しい金色が幻のように、いつもの茶色に戻っていた。目の醒めるような朱の色も失われている。いつのまにか、瞳は見慣れた色合いに戻っていた。 
 朱里は全身にみなぎっていた緊張を解いて、大きく息をついた。 

 鏡の中にさっきまでの異変を探しても、もうどこにも見つけられない。きっと、あれは錯覚だったのだ。麟華りんかも瞳について何も言わなかった。 
 無理矢理そう思いこんで顔を洗うと、朱里はいつものように眼鏡をかけた。レンズには度が入っていない。少しでも特異な瞳を紛らわせようという気休めだった。 

 彼女は続いて手際よく、癖のない長い黒髪をくしかして束ねると、固く結んだ。今時の女子高生には珍しいくらいに、清潔感のある髪型が出来上がる。別に結ぶことが学院の風紀に定められているわけではない。朱里の通う高等部は上に続く大学の雰囲気に影響を受けて、私立にしては校則が自由なのだ。 

 麟華も綺麗な黒髪なのにと、束ねることを残念がっている。朱里も唯一姉に似た艶やかな黒髪は好きだった。けれど、自慢しようと言う気にはどうしてもなれない。 
 自分でも地味な格好だと思うが、気に入っている。 

 朱里はとにかく目立つことが嫌いだった。称賛であっても嫌悪であっても、目立っていると何かと問題に巻き込まれてしまう。 
 瞳の色合いが違うだけで、幼い頃は同級生にからかわれたものだ。 
 古くから学院に伝わる鬼の逸話もあって、中には朱里のことを鬼だと囃し立てる少年達もいた。 

 目立たないように立ち居振る舞う習慣。これまでの経験が叩き込んだ習性なのだろう。全てが平凡で、普通であることに安堵する。自分なりに目立たないように立ち居振舞うのが習慣になっていた。必要以上に普通であることに固執しているのかもしれない。 
 後ろ向きの意志であることは判っていたが、どうしようもなかった。 

「ああ、今夜が憂鬱」 

 朱里は素直に胸の内を呟いてから、鏡を見て気合いを入れるようにぴしゃりと頬を叩いた。
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