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第二章 シルファ=マスティア=サクリード

2:私の聖女

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 事務所となっている部屋で、先日の伯爵の娘惨殺事件について、部下の持ち寄った報告書に目を通していると、いつの間にか窓から差し込む陽光が午後の日差しに変わっていた。

 館を出ずに職務を行っている時は、いつもならミアが昼食を用意してやってくる頃合いだった。シルファは玄関に続く扉ではなく、屋内に続く扉を振り返ったが、ミアが現れる気配はない。

(まだ怒っているのかな)

 昨夜から今朝の成り行きを思い出して、シルファはふうっと息を吐く。
 ミアがシルファにとって特別な女であることは本当だった。

 聖女。

 崇高な一族サクリードにとっては女神に等しい存在。永い月日をかけて探し出し、命がけで召喚した娘。聖女の血肉は崇高な一族に大いなる力を齎す。アラディアに奪われた心臓も、聖女の心臓を喰らえば再生させることができた筈だった。

 けれど、召喚する頃には手遅れだったのだ。魔鏡に映し、聖女として成熟するまでミアを見守ってきた。無垢で素直なまま、日ごとに美しく花開いていく姿。

 すでに心が奪われていることは分かっていた。召喚しても手にかけることはできない。心臓の代替えにはできない。
 見逃すべきだったが、できなかった。この世にただ一人、焦がれて止まない存在。傍に置きたいと、心から願い欲した。

ーー私を元の世界に返して!

 けれど、召喚した聖女は全てを拒絶した。心からの悲痛な叫び。絶望に等しい涙。
 自分の願いは、ただ彼女を不幸にした。悔いてもどうにもならない。心臓を失った自分には、大きな魔力は扱えない。今の自分には彼女を帰す力がない。
 だから。
 いつか必ず帰す。そう約束することしかできなかった。 
 帰れないことを嘆くミアの姿は、今でも思い出すだけでシルファの胸を苛む。

 物思いを断ち切るように、シルファは長椅子から立ち上がる。ミアを召喚するまでの習慣を思い出し、自分で一息つくことにした。

 事務所から食卓のある部屋に赴くと、シルファは珍しい光景を目にする。
 食卓の上には、中途半端に出来上がった昼食が並んでいた。二人分の用意がされている所を見ると、怒りに任せて自分を無視していたわけではなさそうだ。

 ミアは食卓の傍らの長椅子に掛けたまま、うたた寝をしている。子供向けの絵本が、膝の上で開かれたまま置かれていた。聖女としての力の一端なのか、彼女の語る言葉は何の齟齬もなく通じる。また逆にこちらの言葉も伝わる。

 けれど、どうやらミアにはマスティアの文字が読めないようだった。聖女の力ではそこまでの翻訳がなされないということだろうか。よくわからない制約に縛られているが、ミアは文字を読めるようになりたいと、日々、本を開いて励んでいる。

「ミア」

 呼びかけながら、膝の上にあった絵本を取り上げる。ミアが目覚める気配はない。
 シルファは自分の内に芽生える渇望を自覚する。心臓を失った自分が、人の血を絶っていられるのは、聖女の恩恵を受けているからに他ならない。

 シルファはそっと指先でミアの唇に触れる。柔らかな唇をなぞるように指先を動かすが、彼女は目覚めない。シルファの紫の瞳が、じわりと真紅に色を移す。

 欲望よりも抗いがたい、渇望。
 聖女の唾液は酔いそうなほど甘い。ひととき渇望を満たし、彼に癒しをもたらす。
 シルファが口付けると、ミアが夢現のまま反応する。絡みつく熱。

 渇望しているのがどちらであるのかわからなくなるほど、ミアの舌先がシルファを求める。まるで餌をねだる雛鳥のように。

 どのくらい互いに貪りあっただろうか。シルファが離れると、ミアはさらに深い眠りに誘われたかのように、ぐったりと腕に寄りかかってきた。

「私の聖女――」

 強く胸に抱きしめてから、シルファはミアから離れた。何事もなかったかのように、彼女をうたた寝のひとときに戻して、そのまま食卓のある部屋を後にした。
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