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第八章:嘘か誠かイタズラか
35:七年前の鉄骨落下事故
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自室で休んでいた一郎さんを、次郎君はすぐに叩き起こしたみたいだ。
わたしがこの部屋を出てから、すでに半日近くが経っている。少しは睡眠不足を解消できたかなと思いながら、やってきた寝起きの一郎さんに目を向ける。
リビングにゆったりと配置された大きなソファセットに、いつもの顔ぶれが揃った。わたしは抱えていたピンクのカバのぬいぐるみを、元の棚の上に置いた。ジュゼットが見当たらないけど、きっと違う部屋にいるのだろう。
「すぐに晩御飯の用意ができるけど、どうする? 食べながら話をする?」
瞳子さんは夕食をしながらのつもりだったらしく、ソファから立ち上がる。キッチンへ向かおうとする背中に、次郎君が声をかけた。
「待って、瞳子さん」
「え?」
「俺、食欲がないかも」
「あ、もしかして途中であやめちゃんと会って、何か食べて帰ってきたの?」
瞳子さんの屈託のない声に、次郎君は「違うよ」と曖昧に笑う。すぐに一郎さんを振り返った。
「もう前置きはなし」
けだるげにソファに身を預けている一郎さんに、厳しい目を向ける。
「単刀直入に兄貴に聞きたい」
緊張しているのか、睨むような強い眼差しだった。ソファがL字に続く斜め向かいで、一郎さんは身を沈めるように座っている。
睡眠不足は解消されていないのか、覇気のない様子で次郎君の視線を受け止めていた。
「兄貴はさ、この世界を変えてしまったんじゃない?」
動じない一郎さんのかわりに、わたしがぎくりと身じろいでしまう。
ゆるくソファのクッションが傾くのを感じて、隣に瞳子さんが腰掛けた事に気づいた。
一郎さんは何も言わない。戸惑いも焦りもなく、まだ寝ぼけているのかと思うくらい、寛いだ様子だった。次郎君の話が突拍子もないことに聞こえたのか、瞳子さんが問いかける。
「世界を変えるって、そんなことできるの?」
もっともな疑問には、次郎君が答える。
「――できないよ、普通は。そういうことが可能なのか親父に確かめてきたけど、あり得ないって」
「じゃあ、どうして一郎にそんなことを聞くの?」
一郎さんからは、次郎君のような緊張感が伝わってこない。それでも、わたしは息苦しくなっていた。心臓がいつもより大きく鳴っている。てのひらにも、じわりと汗がにじみ出す。
「ネットでは見つけられなかったから、俺、図書館に寄って過去の新聞とか雑誌も調べてきた。七年前の夏、俺が中三の時に鉄骨の落下事故がなかったか。少年が巻き込まれて、大怪我した事件がなかったか」
張り裂けそうに心臓がうるさく暴れ出す。息苦しい。
わたしと次郎君の緊張が伝わったのか、ふうっと一郎さんが大きく息をついた。
「そんな事故はなかった、だろ?」
「なかった。というか、図書館でも、そんな事件は見つけられなかった」
一郎さんは場違いにも見える、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、おまえは思い出した」
口調は軽いのに、とてつもなく威力のある言葉だった。
「――っそんな!」
今にも口から飛び出しそうな心臓の訴えに耐え切れず、わたしは思わず立ち上がって叫んでいた。聞きたくない。認めたくない。
三人が驚いたようにわたしを見ている。
「あやめ?」
次郎君が気遣うように眉根を寄せている。発作のように高ぶった気持ちが、すっと血の気の引くようにおさまった。
「あ、カバさん……、カバさんが」
我に返っても、何を伝えれば良いのかわからない。じっとこちらを見ていた一郎さんが、もう一度ため息をついた。すぐに場を仕切り直すように明るい声を出す。
「はいはい! 次郎もあやめちゃんも、そんな悲壮な想像を繰り広げなくても大丈夫!」
「どういうこと? みんな何の話をしているの?」
瞳子さんは一郎さんとわたし達を交互に見て、不思議そうに目を丸くしている。立ち尽くしたままのわたしを仰いで、一郎さんが慰めるようにほほ笑む。
「大丈夫だから、あやめちゃん。ほら、座って」
「……はい」
ゆっくりとソファに座り直す。瞳子さんの労わるような視線を感じたけれど、わたしは俯いていた。大丈夫だと言われても、簡単に「はいそうですか」とは思えない。
「兄貴の言う大丈夫って、何がどう大丈夫なわけ?」
責めるような次郎君の声にも、一郎さんがうろたえている気配はない。わたしはそっと顔をあげる。隣で困惑した顔をしている瞳子さんに気付いたのか、一郎さんが沈み込んでいたソファから、のんびりと上体を起こして姿勢を正した。
「とりあえず瞳子にもわかるように言うと、あやめちゃんがずっと見てきた悪夢は、本当に起きた出来事だった。俺がその出来事をなかったことにした。そうだろう? 次郎」
わたしがこの部屋を出てから、すでに半日近くが経っている。少しは睡眠不足を解消できたかなと思いながら、やってきた寝起きの一郎さんに目を向ける。
リビングにゆったりと配置された大きなソファセットに、いつもの顔ぶれが揃った。わたしは抱えていたピンクのカバのぬいぐるみを、元の棚の上に置いた。ジュゼットが見当たらないけど、きっと違う部屋にいるのだろう。
「すぐに晩御飯の用意ができるけど、どうする? 食べながら話をする?」
瞳子さんは夕食をしながらのつもりだったらしく、ソファから立ち上がる。キッチンへ向かおうとする背中に、次郎君が声をかけた。
「待って、瞳子さん」
「え?」
「俺、食欲がないかも」
「あ、もしかして途中であやめちゃんと会って、何か食べて帰ってきたの?」
瞳子さんの屈託のない声に、次郎君は「違うよ」と曖昧に笑う。すぐに一郎さんを振り返った。
「もう前置きはなし」
けだるげにソファに身を預けている一郎さんに、厳しい目を向ける。
「単刀直入に兄貴に聞きたい」
緊張しているのか、睨むような強い眼差しだった。ソファがL字に続く斜め向かいで、一郎さんは身を沈めるように座っている。
睡眠不足は解消されていないのか、覇気のない様子で次郎君の視線を受け止めていた。
「兄貴はさ、この世界を変えてしまったんじゃない?」
動じない一郎さんのかわりに、わたしがぎくりと身じろいでしまう。
ゆるくソファのクッションが傾くのを感じて、隣に瞳子さんが腰掛けた事に気づいた。
一郎さんは何も言わない。戸惑いも焦りもなく、まだ寝ぼけているのかと思うくらい、寛いだ様子だった。次郎君の話が突拍子もないことに聞こえたのか、瞳子さんが問いかける。
「世界を変えるって、そんなことできるの?」
もっともな疑問には、次郎君が答える。
「――できないよ、普通は。そういうことが可能なのか親父に確かめてきたけど、あり得ないって」
「じゃあ、どうして一郎にそんなことを聞くの?」
一郎さんからは、次郎君のような緊張感が伝わってこない。それでも、わたしは息苦しくなっていた。心臓がいつもより大きく鳴っている。てのひらにも、じわりと汗がにじみ出す。
「ネットでは見つけられなかったから、俺、図書館に寄って過去の新聞とか雑誌も調べてきた。七年前の夏、俺が中三の時に鉄骨の落下事故がなかったか。少年が巻き込まれて、大怪我した事件がなかったか」
張り裂けそうに心臓がうるさく暴れ出す。息苦しい。
わたしと次郎君の緊張が伝わったのか、ふうっと一郎さんが大きく息をついた。
「そんな事故はなかった、だろ?」
「なかった。というか、図書館でも、そんな事件は見つけられなかった」
一郎さんは場違いにも見える、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、おまえは思い出した」
口調は軽いのに、とてつもなく威力のある言葉だった。
「――っそんな!」
今にも口から飛び出しそうな心臓の訴えに耐え切れず、わたしは思わず立ち上がって叫んでいた。聞きたくない。認めたくない。
三人が驚いたようにわたしを見ている。
「あやめ?」
次郎君が気遣うように眉根を寄せている。発作のように高ぶった気持ちが、すっと血の気の引くようにおさまった。
「あ、カバさん……、カバさんが」
我に返っても、何を伝えれば良いのかわからない。じっとこちらを見ていた一郎さんが、もう一度ため息をついた。すぐに場を仕切り直すように明るい声を出す。
「はいはい! 次郎もあやめちゃんも、そんな悲壮な想像を繰り広げなくても大丈夫!」
「どういうこと? みんな何の話をしているの?」
瞳子さんは一郎さんとわたし達を交互に見て、不思議そうに目を丸くしている。立ち尽くしたままのわたしを仰いで、一郎さんが慰めるようにほほ笑む。
「大丈夫だから、あやめちゃん。ほら、座って」
「……はい」
ゆっくりとソファに座り直す。瞳子さんの労わるような視線を感じたけれど、わたしは俯いていた。大丈夫だと言われても、簡単に「はいそうですか」とは思えない。
「兄貴の言う大丈夫って、何がどう大丈夫なわけ?」
責めるような次郎君の声にも、一郎さんがうろたえている気配はない。わたしはそっと顔をあげる。隣で困惑した顔をしている瞳子さんに気付いたのか、一郎さんが沈み込んでいたソファから、のんびりと上体を起こして姿勢を正した。
「とりあえず瞳子にもわかるように言うと、あやめちゃんがずっと見てきた悪夢は、本当に起きた出来事だった。俺がその出来事をなかったことにした。そうだろう? 次郎」
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