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後日譚:金木犀の咲く頃に

163:金木犀の咲く庭

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 蒼穹をかざる雲が、うろこを並べたように薄くたなびいている。夏に見た積乱雲が姿を消し、いつのまにか空の様子が様変わりしていた。

 王宮で午前中の面会と執務を終え、ルカは庭園に出ていた。王宮の敷地内には大小さまざまな庭がある。休日には一般にも公開され、秋薔薇の華麗な様子や香りに賑わう広場をこえて、ルカはさらに続く石畳の道をすすんだ。

 秋薔薇の爽やかな香りが、少しずつ甘くおっとりとしたものに変化していく。

 この時期は往来でも至るところで橙の花が見られる。小さな花の集合が塊となって、樹木の緑をオーナメントのように彩っていた。

 大輪の薔薇のような華やかさはないが、オレンジの可憐な花は、辺りに甘く優しい香りをまとわせる。
 石畳の先に現れた白いアーチをくぐると、ますます香りが深くなった。

 金木犀の庭。

 ルカの母であるユリアが、秋になると足繁く通っていた場所だった。

 母を失ってから近づくことを避けていたが、思い出の風景と変わることなく金木犀がルカを迎える。道にそって植えられた木々は、あと数日で満開を迎えるという風情で咲き誇っていた。

 秋の日差しを、緑の葉がゆるく照り返す。目を閉じると、まるで一面の花畑へ放りこまれたように、甘い香りだけがルカをつつみこんだ。

(ルカ。お父様は、とても優しい方なのよ)

 過去の情景が咲き誇る木々に重なって、ついさっき耳元で語られたかのように蘇る。幸せそうな母の笑顔が浮かんだ。

(出会ったばかりのころ、お父様はお母様から金木犀の優しい香りがすると仰ってくださったの)

 無邪気な母。
 今ごろになって、なぜ幸せそうな母を思い出せたのだろう。
 思い起こせば、彼女が一心に父を慕っていた時期はあった。

 けれど、この庭に閉じ込められていた思い出は、本当にそんなに美しい情景だっただろうか。
 暗い過去をたどりそうになって、ルカはわざと意識をそらした。あらためて辺りの金木犀に目を向ける。

 ほんのりと涼やかな風が頬をなでる。
 梢がざわめき、オレンジの小さな花弁が陽射しにかがやいた。黄金の光が弾ける。
 優しく甘い香りで満ちた庭。

 母の面影が重なる。

 父であるカリグラが、かつて母に語った印象は、ルカの中にもある感想だった。
 金木犀のおっとりとした香りは、いつも母を想起させた。

「殿下」

 独りきりだと思っていたのに、いつのまにか背後にルキアが立っていた。

「おまえ、いつのまに」

「珍しい場所においでだったので、後をついて参りました」

 彼は何かを危惧する様子もなくほほ笑む。逆光の影を帯びながら、癖のない銀髪が陽光に輝いていた。メガネの奥に見える紫の瞳には、もうルカを案じるような光はない。純粋な好奇心だけが見てとれた。

「何年ぶりですか。殿下がこの庭園においでになったのは」

「前に来たのは母の生前だ」

「そうでしたね。……ずっと避けておられたのに、何か心境の変化が?」

 ルキアには見抜かれている気がしたが、ルカは素直に答えた。

「私の記憶では、母はいつも淋しそうだった。この庭と一緒に思い出すのは、悲しげな母の笑顔だ」

「はい」

 ルカは身近な金木犀に歩みよって、橙の花に触れる。

「ずっと母はここで私の不遇を嘆いていたのだと思っていたが、すこし違う想像をするようになった」

「違う想像ですか?」

「そうだ。母は父を思って嘆いていたのかもしれない」

 ルキアが返答に困っているのがわかる。いつも明確な答えをだす側近の様子に、ルカはおかしくなった。

「久しぶりにここに来て思い出せた。母が父を慕っていた頃のことを」

「殿下」

「私は母の父への想いを考えようとしていなかった。いや、もし考えていても理解することは難しかっただろうな」

「今は理解できるようになったと」

「……わからない。でも想像はできるようになった」

 一心に誰かを慕うということが、どういうことなのか。
 母の想い。

 彼女が父に心の全てを向けていた時期があった。
 思い出の中で無邪気に笑う母には、父の愛を信じる絶対の信頼があったのだろう。
 一度でもその境地を手に入れたのなら、母が父を見捨ててしまうことは難しかったはずだ。

 育まれた絆。

 いまならルカにもわかる。
 それはすぐに移ろい、形もなく消えてしまうような想いではないことを。

「殿下のその想像は……」

 ルキアが神妙な顔をして、真っ直ぐにこちらを見ている。

「殿下が内に抱えている荷を、軽くしてくれる想像なのでしょうか」

 やはりルキアは的確だった。彼は抱える荷がさらに重くなるだけだと知っているのだ。
 母の気持ちをたどることは、二人をあやめたルカの罪をより深くするだけだった。

「そうだな。私はこれからも考えてしまうだろうな。もっと他に方法があったのではないかと」

「殿下、それは――」

「でも、ルキア。私はもう独りで抱えていくつもりはない」

 はっきりと表明すると、無表情になりかけていたルキアの顔がふっとゆるむ。
 ルカは金木犀の庭の先につづく道を視線でたどってから、彼を振りかえった。

「おまえが両親の命日に、私の予定を空けていることは知っている」

「はい」

「できればその日はスーと過ごしたい」

「はい。絶対にスー様もお喜びになるでしょう」

 「絶対に」と強調してくるあたりに、ルカは含みを感じた。ルキアはまた姉のヘレナから何か情報を仕入れているのかもしれない。侮れない兄妹である。

「そこで、おまえに相談がある」

「もちろん、よろこんでお伺いします」

「いまスーを海へ連れだすのは、やはり避けるべきだろうか」

 ルキアが顎に手をあてて「たしかにそうですね」と模索する。

「スー様はあと二月もすれば出産が控えております。外出には細心の注意を払うべきとは思いますが」

「やはりそうか。今年は諦めた方が良さそうだな」

「いえ、殿下。だからと言ってどこにもおいでになれないわけではありませんし、担当医の話では邸でじっとしているのもよくないと」

「それはそうだが」

「たまには外出も必要でしょう。船を使うことはせず、海岸線をたどる程度であればよろしいのではありませんか」

「だが、べつに今年にこだわる必要もない」

「来年に万全の体調で? しかし、殿下。もし来年も御子を授かっておられたら同じことになりますが」

「………………」

 たしかに否定できない。十分あり得ることだった。ルカが黙ってしまうとルキアが小さく笑う。

「殿下、あまり負担のないように考えてみましょう」

「そうだな。ありがとう、ルキア」
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