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第十一章:変化していく距離感

61:血の気のひく翌朝

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 とても甘い香りがする。誘われるように腕を動かすと、何かがルカの指先に絡んだ。しっとりとした手触りには覚えがある。

 スーの艶やかな黒髪。

 まだ夢の延長にいるのだと思い、彼は傍らに感じる柔らかな体を引き寄せる。

(こんなふうにスーを抱けたら、どんなにいいか)

 夢現をさまよいながら、腕に抱いた体温を感じていたが、少しずつ意識が現実へと戻ってくる。

(昨日は最悪な気分だったが……)

 ぼんやりと目覚めて、ルカは自嘲的な気持ちになる。

(どうやら幸せな夢を見ていた)

 夢の中でもスーは自分から逃げたりはしない。目を閉じて、恥じらいに白い肌を紅潮させながらも、身を委ねてくれる。

(いや、さすがにあれが現実なら殴られるかもしれないな)

 あまりにも率直すぎた自分の言動に可笑しくなる。ルカはふっと何げなく腕を上げて、ぎくりと固まった。

「!?」

 手に絡む長い黒髪。

 愕然となって、彼は飛び起きるように身を起こした。
 寝台の状況を察すると、ヒュッと心臓がすくみ、一気に血の気が引く。

 スーが眠っているのだ。
 同じ寝台で、何の警戒心もなく、すやすやと無防備な寝顔を見せている。
 咄嗟にあたりを見回すが、間違いなく自室である。

(まさか……)

 これまではいくら酒を嗜んでも、記憶をなくすほど泥酔した記憶はない。ひとえにルカが自分の限界をわきまえていたからでもあるが、昨日だけは話が違う。

 ユリウスに勧められるがまま、際限なくあおってしまった。逃避したい気持ちになっていたのかもしれない。

 ルカは懸命に昨夜の記憶を叩き起こす。夢だと思っていた成り行きは、全て現実だったのではないか。夢現の記憶をたどり、さぁっと背筋に冷たいものがよぎる。

 酒に飲まれて記憶が曖昧になることはなかったが、昨夜のことには自信が持てない。
 貧血を起こしそうな勢いで、血が凍るような不安に襲われる。

(やってしまったのか、私は……)

 もしサイオンの王女であるスーを孕ませるようなことになれば洒落にならない。
 自分の身を確かめてみると、幸いと言うべきなのか、脱いでいるのは上半身だけだった。スーもきちんと夜着を纏っている。

(どうやら一線は超えていないようだが)

 遡れない記憶と符合させて、おそらく大事故には至っていないはずだと考えるが、どうにも心もとない。

 過ちをおかしていないとしても、記憶からしぼり出した昨夜のいきさつは、まるで笑えない。
 夢であってほしいと願うが、状況を見る限り完全に黒だった。救いがなさすぎる。

(――最低だ……)

 自分に対して怨念のような自責がこみあげる。深淵の底へ落ち込みそうな後悔の溜息が漏れた。

 やってしまったことは取り消せない。スーが目覚めたら、とにかく詫びるしかないのだ。彼女が欲しくなったのは酔っていた影響だけではないが、今はそんなことを素直に語るわけにもいかない。

 ただでさえ新しい婚約者を迎えるという、彼女が傷つく事情を抱えているのだ。
 事情を伝えて、スーがどんな顔をするのかと考えると、気が重くなる。

 どんなふうにやり過ごそうかと考えながら、ルカは無邪気なスーの寝顔に視線を落とした。

(あれが夢でなければ、スーは抵抗しないのか……)

 黙っていれば扇情的で欲情を誘うが、中身はまだ男女の情愛には遠く、恋する少女という印象が強かった。もし手を出しても、いざとなれば怖気づいて泣き出すのではないかとまで思っていたが、ルカが思っているよりスーは女としての覚悟を持っているのかもしれない。

 ますます自制心が試されると思いながら、眠っているスーの頬にそっと触れる。
 指先から伝わる柔らかな温もりが、ルカの胸をしめつけた。

(……酔っていなくても、抱きたくなる)

 襟ぐりの深い夜着がさらす、白い肌。ルカはバサリとブランケットをひきあげてスーの肩を隠した。
 カーテンに閉ざされた窓からの気配では、夜明けまで時間がありそうだった。まだ薄明を感じない。

 長い金髪をかきあげて、ルカは寝台を出ると浴室へ向かった。





 休日の早朝から気が引けたが、ルカは執事のテオドールに寝覚めの珈琲を頼んだ。ルカが浴室から戻っても、スーはまだ寝台で眠っている。どんな夢を見ているのかと考えると、起こすのも可哀想な気がして、目覚めるまで寝かせておこうと判断した。

 珈琲はテオドールが持ってくるかと思っていたが、部屋の扉を叩いたのは侍従長のオトだった。

「おはようございます、ルカ様」

 長椅子にかけているルカに、オトはいつもどおり会釈する。寝台のスーの存在に気付いているのか、抑え気味の声音であいさつすると、食器の音が響かないように小卓に珈琲を置いた。

「おはよう、オト。こんな時間にすまない」

「いいえ。お食事の用意もできますが」

「いや、今日はスーと一緒にとるようにしたい」

「かしこまりました」

 殊勝にうなずいてから、オトがちらりと奥の寝台に目を向ける。

「本日は休日ですし、ルカ様も、もう少しお休みになってはいかがですか?」

 オトが何を考えているのか分かったが、ルカはわざわざ否定するのも変かと思い「なぜ?」とだけ問い返した。オトがにっこりとふくよかに笑う。

「昨夜はお愉しみだったようですので、ルカ様もあまり休んでおられないのではないかと」

 まさかの直球を投げられて、ルカは思わず手にしたカップを取り落としそうになる。

「何もしていない……、とは、……言えないが、残念ながらおまえたちの期待に添うような夜は過ごしていない」

「まさか」

「そのまさかだ」

 オトがふうっと、大げさにため息をつく。

「スー様を一晩ご自身の部屋に留め置いて、なぜ今さらそのような嘘をつかれるのです?」

「オト……」

 長い付き合いだけあって、館の侍従長は主であるルカに率直だった。

「テオドール様も、館の者も、祝福気分で浮足立っておりますのに」

 昨夜のことを吹聴して回ったということに罪悪感もない様子で、オトが不思議そうな顔をしている。

「そう言われても事実だから仕方がない」

 ルカは館の者たちが的外れにはしゃぐ様子を想像してげんなりする。常日頃から、私邸に勤める者は、ルカとおしどり夫婦になると豪語しているスーの味方なのだ。
 二人が一夜を過ごしたとなれば、祝福に満ちた食事でも用意しそうな気配がある。

「……スーに可笑しなもてなしをしないように、おまえから館の者に伝えてほしい」

「それは、がっかりいたしますね」

「――オト」

 これ以上は煩わしいと睨んで見せると、彼女はすぐに引き際を察した。

「かしこまりました」

 彼女が踵を返して退出するのを見送っていると、奥の寝台から「ルカ様!」と聞きなれた声がした。
 悲鳴のような甲高い声だった。

 オトがピタリと立ち止まって寝台を振り返ったのを感じながら、ルカもそちらの方へ目を向ける。
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