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第十一章:変化していく距離感

59:約束の大人のキス

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 オトがルカの部屋の扉を叩く。中からは返事がなかったが、オトは意に介することもなく中へと踏みこんだ。スーは水差しとグラスの乗ったトレイを両手に掲げたまま、慌てて後につづく。

 整然とした室内は、スーの部屋よりも圧倒的に重厚で、奥には天蓋のついた寝台があった。
 ルカは手前の長椅子にぐったりとした様子で横たわっている。

 室内の照明は暖色で、緩く灯されている。長椅子から流れるように零れ落ちる長い金髪が、鈍く輝いていた。
 スーは久しぶりにルカの姿を見られて、胸が躍る。

「ルカ様、お水をお持ちいたしました」

 しんと静謐な部屋に、オトの声が良く響く。ルカがゆっくりと身動きをしてこちらを見た。

「ありがとう、もらうよ」

 どうやら彼はまだスーには気づいていない。オトがルカに見とれているスーを振り返って、水をお持ちくださいと目で語る。スーはグラスに水を注いで、ルカの近くへと歩み寄った。

 音を立ててはいけないような気がして、知らずに忍び足になってしまう。

「ルカ様、どうぞ」

 声をかけると、ルカが緩慢な仕草で長椅子から身を起こした。一つにまとめている金髪が緩く乱れているが、ルカは煩わしそうに束ねていた髪を解く。ふわりと長く癖のある金髪が、ルカの肩や胸に落ちかかった。

「……ありがとう」

 ぼんやりとした様子で、ルカがスーの手からグラスをとりあげる。オトが言っていたように、相当飲んでいるらしい。いつものきちんとした印象が幻のように、目の前のルカは気だるげで妖しい魅力に満ちている。

 シャツのボタンが首元から幾つか開かれ、首筋から鎖骨、かすかに胸板がのぞいていた。
 視界の端に、脱ぎ捨てられたのだろう上着が、床に無造作に広がっているのが見える。

 全くスーの存在に気付かない様子で、彼がグラスに口をつけた。ごくりと喉が動くと同時に、受け止めきれなかった水がグラスの端から溢れでた。形のよい唇から顎を伝って、ぱたぱたと滴り落ちる。濡れたシャツがかすかに透けて、ルカの肌にはりつくと、見たことのない身体からだの輪郭があらわになった。

(ひ、卑猥ひわいだわ!)

 スーは匂い立つような、強烈なルカの色気にうちのめされてしまい、呼吸すら忘れそうな勢いで固まってしまう。

(なんだか、すごく、見てはいけないものを見ているような気がする)

 中身の半分近くを零しながら飲み終えたグラスを、彼はスーが抱え持っているトレイに戻す。コトリと小さく音が響くと、ようやく彼がこちらに目を向けた。

 ルカの端正な顔がアルコールによる酔いで、さらに魅惑的に映る。緩い暖色の照明でも、血色の良い肌がなまめかしく見えて、酩酊しているのがわかった。

 下ろし髪のルカはまさに色気の塊であり、スーは目が合うだけでびくりと緊張が高まってしまう。

「スー?」

 見つめあうと、ルカのアイスブルーの瞳に艶美な熱が滲んだ。見たこともない苛烈な色香が、一瞬でスーを捕らえてしまう。彼の仕草を見ているだけで顔が火照り、どくどくと急激に血が巡りはじめていた。

「あ、あの、おかえりなさいませ、ルカ様」

「なぜ、あなたがここに?」

「申し訳ありません。ルカ様のお顔を拝見したくて――」

 いい終わらないうちに、ルカの手がスーの細い腕をつかむ。

「あ!」

 掲げ持っていたトレイが手から床に落ちる。グラスが割れることはなかったが、水差しが倒れて、残っていた水がぱしゃりと床の絨毯を濡らした。

 強い力に囚われ、ルカの腕がスーの細い体を引き寄せる。抗うこともできず、抱きすくめられていた。

「スーはいつも可愛いことを言う」

 髪に頬を埋めるようにして、ルカが甘い声で囁いた。
 完全に酔いの延長にある台詞だったが、スーは驚きのあまり声も出ない。

「夢なら抱いていたい」

 ルカの体温が熱い。自分の破裂しそうな心臓の音に重なるように、彼の鼓動が伝わってくる。酒気を帯びた吐息がスーの首筋や耳をくすぐって、肌を撫でる。きゅっと胸が切ない悲鳴をあげた。

「スー」

 柔らかに響く、低い囁き。声と一緒に零れる吐息が、まるで猛毒のようにスーの心を鷲掴みにした。

「るるる、るかさま」

 厚みのある逞しい身体を意識してしまい、スーが目を白黒させていると、背後で「失礼いたしました」とオトの声がした。

(え!?)

 体を引き寄せるルカの腕が緩む気配はない。スーが何とか声のした方を見ると、オトと目があった。彼女はにっこりとほほ笑むと会釈して、そのまま部屋を出て行ってしまう。

(ええ? オト!? 嘘でしょ!?)

 パタリと閉じられた扉を呆然と見つめていると、ようやくルカの力が緩んだ。

「柔らかくて、……甘い、スーの香りがする」

 長い指がスーの顎に触れた。彼を仰ぐように込められた力に従うと、ルカの美しい顔が迫っている。はらりとお互いの髪が触れ合った。

 艶やかな黒髪に、彼の緩やかな金髪がいり乱れて絡み合っている。目の前のうっとりとした微笑みが妖艶すぎて、スーは息を呑んだ。

「スーの赤い唇、誘われる」

 青い眼が潤んで濡れている。酩酊していても、ルカの瞳は湖底を映すように、どこまでも澄明だった。スーは魂を奪われたように動けなくなる。彼の長いまつ毛がゆっくりと影を落とし、目が伏せられていくのを夢の出来事のように見ていた。

 そっと、唇に柔らかな熱が触れる。白馬の王子様とのキスを思い出したが、それは一瞬だった。
 触れるだけではなく、しっかりと情熱を伝えるような口づけ。

 重ね合わせたところから、熱を帯びて侵されていく。
 与えられる大きな波に溺れそうな錯覚がして、スーは思わずルカの体にしがみつくように腕を伸ばした。

(こ、これが大人のキス!)

 初めての経験に、スーの脳内は弾けきっていた。唇を奪われているのに、不思議と息苦しくはない。
 激しくて深い波が、寄せては返すようにスーを翻弄する。

(やっぱりルカ様は大人のキスも完璧なんだわ!)

 心の中では喜びが叫びのようにこだましている。脳内で祝福の鐘の音が響き渡っていた。
「祝!大人のキス達成」という横断幕がたなびいている。

 魂を奪われそうなキスから解放されると、スーは余韻にひたる間もなく次の問題にぶち当たる。

 目の前に迫るルカの強烈な色気に、さらに拍車がかかっていた。獲物を狩るような、狡猾さを秘めた欲望を隠すこともなく、彼はスーを見下ろしたまま微笑む。

「約束の、大人のキスです……」
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