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オペラ座の幻影

Chap.5 Sec.13

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 帰宅まで警戒が取れなかったが、本当にタレランは邪魔をしてくることなく、ルネは無事に屋敷まで彼女を連れ帰ることができていた。
 真実を語ることを避け、疲れて眠ってしまったということにしたが……ルネの先日の体調不良もあって、彼女の父はひどく心配し、

——熱は出ていないか? ひとりにはしておけない。誰か付き添いの者を。

 男である自分がつくのはさすがにもう認めてもらえないだろうと悩んだルネが希望者を尋ねると、迷いなく手を上げたのが例のコレット・メルシエで、これ幸いとばかりに主人へと二人揃っての付き添いを申し出た。
 ルネがいるなら心強いと言われ、コレットは要らなかったのかとも思ったが……周りの目も考えて置くことにした。コレットは口が軽いわけではない。目覚めた彼女が何か不都合なことを言ったとしても、めったな口外はしないはず。

「……オペラの途中で眠ってしまうなんて……お嬢さま、お疲れだったんですね」

 ベッドで眠る彼女をそろりとのぞきこんだコレットが、心配そうに呟いた。赤毛の髪を後ろでお団子にし、コットンのキャップを被っている。ぱちりと開かれた眼はエレアノール嬢によく似ていて、初めて顔を合わせたとき「ココとお呼びくださいませっ」と言った彼女を、絶対に問題を巻き起こす気がすると、不覚にもルネは不採用にしようとした。

「ルネさまのご看病もなさってましたもんね……あたしが代わればよかったのですが……」
「ココのせいではありません。お嬢様が、自分でわがままを突き通したのですから……」

 そのあたりで、コレットは小さくにらんだ。

「倒れたルネさまを、お嬢さまは大変心配されたのです。元はと言えばルネさまが悪いのですよ。看病していただいておいて、なんてことを言うんですか」
「……そうですね、失礼いたしました」

 お喋りではない。
 エレアノール嬢のようにお喋りではないが、コレットは主人である彼女に対して憧れのようなものを抱いていて、すこし言動がおかしい。

「ルネさまを想うお嬢さま……あの健気で涙の浮かびそうな顔を、ルネさまにもお見せしたかった……」

 悲愴感をただよわせて胸に両手を合わせる彼女から(どうでもいいので)目を離し、ベッドに眠る彼女へと手を伸ばした。額や首筋に触れてみるが熱はない。
 横から見ていたコレットが、

「ルネさま! 眠ってるお嬢さまにお触りになるなんて!」
「……熱はないようですね」

 いつになったら目覚めるのだろう。
 タレランの言葉が真実なら、そろそろ目を開けても……

「あっ、お嬢さま!」

 コレットの声が目覚ましになったのか、彼女の目がゆっくりと開いた。
 はっとしたルネが彼女の顔をのぞきこむと、目の合った彼女は寝起きにしては妙にしっかりとした瞳でルネを捉え、じっと……無言のまま見つめる。

「お嬢様、ご気分はいかがでございますか? どこか……痛いところなどはございませんか?」
「……いいえ、ないわ」

 静かな声で、はっきりと。
 ルネが困惑するほど確かな意識をもって話す彼女に、横からコレットが声を掛けた。

「お嬢さま、おはようございます。お召し替えを手伝いましょうか? それとも何かお飲み物を運びましょうか?」
「……今は、もう朝なの?」
「いえいえ、夜でございます。混乱を招いて申し訳ありません。あの……お嬢さまが、ベッドに入るとき……コルセットの後ろを外したのですが……眠るならば、お着替えしたほうがよろしいかと思いまして……」
「ああ……だったら今、自分で脱いでしまうわ」
「えっ」

 驚くコレットの前でほどけていたドレスを適当に脱ぎ去ると、彼女はコレットへと手渡した。
 緩んだコルセット一枚の彼女に、コレットは慌ててルネの顔の前で腕を振り、

「ル、ルネさま! なに普通に見てるんですか! あっち向いててくださいませ!」

 彼女の様子を案じていたルネは、仕方なく背を向けた。
 当人たちよりもわたわたと動揺しているコレットは、ドレスを抱えて彼女に他の用はないかと尋ねる。末端のコレットがここまで彼女と近くなれる機会はそうそうない。ここぞとばかりに役立とうとしていた。

「いいのよ、もうこのまま休むから……気にしないで」
「そうでございますか……あの、ご主人さまから、一晩のあいだ付き添うように言われているのでございますが……」
「そうなの?」
「はい。ルネさまと一緒に」
「……ひとりで眠りたいの。できるなら、父に今、報告してきてもらえる? 目が覚めて元気にしている、ひとりでゆっくり眠りたいと話している、と」
「もちろんでございます。お任せください!」
「寝室で眠っていたら、無理に言わなくてもいいからね?」
「承知しました!」

 ドレスを大事そうに抱えて出ていくコレットがドアを閉めたのを確認してから、ルネはやっと振り返った。

「……大丈夫か? 痛いところや気になるところはないか?」

 ランプに照らされた彼女の顔は、表情の読めない無に近い色をしていた。
 不安に駆られるルネに反して、彼女はコルセットを気にしているのか背に手を回し、声だけで返事をする。

「さっきも無いと言ったでしょ? わたしは平気よ」
「……本当か?」
「ええ、どこも痛くないし……変なところもないわ」

 淡々と答える彼女に、違和感を強めたルネはその顎に手をかけて顔を持ち上げていた。

「——なら、俺の目を見て言ってくれ」
「……平気よ。どこも痛くないわ」

 まっすぐ見返す瞳に、嘘はない。
 そもそも偽る必要などないはず。
 ——なのに、この激しい違和感はなんなのか。

「……オペラ座で何があったか、覚えてるか?」
「——あまり。でも、ぼんやりとなら覚えてるわ。オペラの途中で、疲れて眠ってしまったのよね?」
「それは——」

 俺が、屋敷の者に話した建前だ。
 ルネが訴える前に、彼女は自分の顔に掛けられていたルネの手をそっと外した。

「疲れたから、ゆっくり眠りたいのよ。……ひとりで」
「……今夜は、念のため……付き添う」
「あなたは男のひとでしょう? 認められないわ」
「君が黙っていれば誰にも知れない」
「それなら……ココにお願いしましょうか?」
「それは俺に出ていけと言ってるのか?」
「……ひとりにしてと、頼んでいるだけよ」

 揺れる明かりのなか、沈黙が落ちる。
 見つめ合う瞳はゆらゆらとして、互いの感情を読み取ることを妨げた。

 先にそらしたのは、ルネのほうだった。

「……分かった。ゆっくり休んでくれ」
「……ありがとう」

 彼女が応えると、戻ってきたコレットがドアを叩く音がした。
 コレットと入れ違いに、ルネは彼女の寝室を後にした。
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