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オペラ座の幻影
Chap.5 Sec.2
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話の展開は早かった。早馬が連れてきた使者によって『お祝いを致しましょう』と、実質は顔合わせに近い晩餐会の日取りが、あっというまに決められていった。
わたしの提案をルネが認めたのかは分からない。ただ、晩餐会の話が進むなかで彼が余計な口を出すことはなく、わたしとの関係を話すようすもなかった。
迎えた晩餐会は当然だが美食会と呼ばれるものと同様に華々しい料理が用意されていた。その美食会の前に顔を合わせた男性が、わたしにとって初めて言葉を交わすタレラン家の当主であったのだが……
——初めまして、お嬢さん。
言葉の端がかすれるような声。ぱっと見では何も思わなかったのだが、かけられた声に記憶で結びつくものがあった。
——黒仮面の紳士。
正体に思い当たって口に出そうとしたが、仮面舞踏会での交流や出来事を外へ持ち出すのはマナー違反になる。ハンカチで涙を拭こうとしてくれたことと、わたしに続きルネが失礼な態度をとったこと。感謝して謝るべきだろうが、結局言えずじまいで紹介を終えてしまった。そもそもあちらはわたしを覚えているだろうか。
「——今日の料理、すごいだろ?」
最初のスープを口に運びながら謝罪をするべきかどうか悩んでいた頭に、横からフィリップの声が割り込んだ。手を止めて彼を見ると、黒々としたふたつの眼が機嫌よくわたしを映していた。彼とは前日にも会っている。なんとも言えないのだが、彼は父と呑み仲間になりつつある。
「……そうね、豪華ね」
「だろ? 前回は小規模だったからな」
彼の言うとおり、今回の晩餐会——美食会は、格が違った。母のことがあり我が家の近くの屋敷を借りての開催となったのだが、料理の規模が異常だった。形式も、よく知る晩餐会の形式とフルコースが合わさり、選択式のコース料理という——各タイミングで複数の料理がワゴンで提示され、そこから欲しいものを選べるという——尋常じゃない数の料理が用意されていた。テーブルの中央に鎮座する工芸菓子も、前回より豪奢な城が建てられている。飛び回るように飾られた蝶が赤く美しい。きっと我が家のワインをイメージして作られたのだろう。
「あれも食いたいのか?」
「……いえ、いらないわ」
緋色の蝶から目を外して、食事を進めていく。食欲はないが、前回のことがあってよく食べる娘と思われているため、まったく食べないわけにもいかない。なるべく手を止めることなく運ばれてくる料理を口にしていた。フィリップがあいまに話しかけてくるのが、少々わずらわしい。
「今さらだけど——なんで急に結婚する気になったんだ?」
極上のパテの風味をぼんやりと味わう。尋ねられたことについて思考が答えを探すには時間が掛かった。
「……聞いてるか?」
「聞いてるわ。すべてあなたの言うとおりだと思ったから、決めたのよ。悩んでる時間が無駄だとも思ったの」
「そうか、そうだよな? 子を産みたいなら早いほうがいいか」
「……ええ、何事も早いほうがいいわ」
「あんたの母親も喜んでくれてたよな。よかったじゃないか」
フィリップは母にも会っている。ベッドではなく、きちんと身だしなみを整えた母と挨拶を交わしている。
「そうね……」
あまり気の入らない相づちのせいか、フィリップは眉を寄せて、
「食事に参加できないのは仕方ないだろ? 心配しなくても、この数時間でどうこうなることもない。医師もいるし、何かあったらすぐ駆けつけられるよう話はついてる」
「……ええ、ありがとう。タレラン家の皆さまが配慮してくれたおかげで、父も食事だけは参加できて……本当に、感謝してるわ」
そこだけしっかりとフィリップの目を見て伝えると、彼は意外そうな表情をしてから「それくらい当然だ」と誇らしげに笑った。
「言ったろ? 俺はあんたを幸せにしてやる」
言い方は不遜だが、彼の気持ちは正直で、聞いているとつらくなる。最初のようにきつく当たってくれたなら、罪悪感も生まれなかっただろうに。
幼い笑顔を見ていられず、ぽつりと、
「……わたしなんかに、そこまで気負わなくてもいいの」
つぶやくと、フィリップの目がきょとんと丸くなった。その瞳に向けて口早に話す。
「無理にわたしを愛さなくてもいいから。妾を何人つくっても何も言わないし、あなたの交際関係に口出しは一切しない。……だから、」
「——だから、なんだ?」
差し込まれた声は、重く鋭かった。その先をなんと言おうとしたのか、思いを掻き消すように近づいた目が、強くこちらを見据えて、
「使用人と自由にさせろ——なんて言うなよ? 不貞は認めないと言ったろ」
「……そんなことを言おうとしたんじゃないわ」
「だったら黙ってろ。それ以上は侮辱と取るぞ」
威圧的な声に押し黙った。料理を消費することだけに集中する。今日はこの部屋にルネはいない。父がいるのもあってか別室で待機している。ざわざわと賑やかなのに孤独を感じる。
「……食事のあとで、」
黙していると、フィリップがまた言葉を発した。その顔には気まずさがあった。
「……オペラを、聞きたいか?」
「……オペラ?」
「ラウルが……ああ、あっちの席に座ってるあいつが……お祝いに歌ってくれるらしい」
示された方を見ると、フィリップとよく似たダークブロンドの長めの髪をした青年が談笑していた。緑がかった青い眼。穏やかな表情からはしばらく気づけなかったが、オペラの単語で繋がった。
——ラウル・マキァヴェリ。オペラ座のテノール歌手。軽やかなのに、聞く者の心を震わせるような歌声の持ち主。
「あんな有名な方がお祝いのためだけに歌ってくださるの?」
「ラウルはもともとうちの使用人だ。父の推薦でイタリア座のほうに——今はオペラ座に移ったけどな……まあ、そんな感じで身内みたいなもんなんだよ」
「それはすごい出世ね……?」
イタリア座は特権階級が通う会場。現在は火災によって休業している。オペラ座が新しくできたばかりなのもあって、客も一時的にオペラ座へと流れている。
使用人からオペラ歌手。実力主義の世界と言っても、音楽家の血が圧倒的に強いと聞くのに……タレラン家の後ろ盾もあるのかもしれない。
眺めていたせいか、こちらに顔を向けた彼と目が合った。穏和な微笑みに応えて笑い返す。穏やかなその微笑は、すこしだけ以前のルネに似ていた。
——ルネは今、何をしているのだろう。
そんなことを考えてしまって、振り払うようにフィリップへと顔を戻す。
「そういえば……訊きたいことがあるの」
「なんだ?」
「この前の仮面舞踏会で……あなたのお父様とお会いしてるのだけど……」
——わたしのことを覚えているか、さりげなく訊いてもらえないかしら。
続く言葉の前に、フィリップが変な顔をした。
「——いや? この前は来てないぞ」
「え……?」
「うちで招待を受けて参加したのは俺だけだ。俺の父は参加してない」
予想外な事実に、数秒ほど考えが回らなかった。来ていない。ということは、黒仮面の紳士は赤の他人となる。
(声が……似てるのに)
近くの席で、父と話すタレラン氏に目を送る。ワインについて話す顔は社交的な笑顔にあふれていて、仮面の印象とは結びつかない。目つきだけは、フィリップと違って鋭い印象だが、笑ってしまうと鋭さも紛れる。
——とてもいい子だね?
ささやき声のようでいて、縛り付けるような迫力がある、不思議な声音。
耳に残る音を反芻しながら、親しげな笑みを浮かべる横顔をひっそりと見ていた。
わたしの提案をルネが認めたのかは分からない。ただ、晩餐会の話が進むなかで彼が余計な口を出すことはなく、わたしとの関係を話すようすもなかった。
迎えた晩餐会は当然だが美食会と呼ばれるものと同様に華々しい料理が用意されていた。その美食会の前に顔を合わせた男性が、わたしにとって初めて言葉を交わすタレラン家の当主であったのだが……
——初めまして、お嬢さん。
言葉の端がかすれるような声。ぱっと見では何も思わなかったのだが、かけられた声に記憶で結びつくものがあった。
——黒仮面の紳士。
正体に思い当たって口に出そうとしたが、仮面舞踏会での交流や出来事を外へ持ち出すのはマナー違反になる。ハンカチで涙を拭こうとしてくれたことと、わたしに続きルネが失礼な態度をとったこと。感謝して謝るべきだろうが、結局言えずじまいで紹介を終えてしまった。そもそもあちらはわたしを覚えているだろうか。
「——今日の料理、すごいだろ?」
最初のスープを口に運びながら謝罪をするべきかどうか悩んでいた頭に、横からフィリップの声が割り込んだ。手を止めて彼を見ると、黒々としたふたつの眼が機嫌よくわたしを映していた。彼とは前日にも会っている。なんとも言えないのだが、彼は父と呑み仲間になりつつある。
「……そうね、豪華ね」
「だろ? 前回は小規模だったからな」
彼の言うとおり、今回の晩餐会——美食会は、格が違った。母のことがあり我が家の近くの屋敷を借りての開催となったのだが、料理の規模が異常だった。形式も、よく知る晩餐会の形式とフルコースが合わさり、選択式のコース料理という——各タイミングで複数の料理がワゴンで提示され、そこから欲しいものを選べるという——尋常じゃない数の料理が用意されていた。テーブルの中央に鎮座する工芸菓子も、前回より豪奢な城が建てられている。飛び回るように飾られた蝶が赤く美しい。きっと我が家のワインをイメージして作られたのだろう。
「あれも食いたいのか?」
「……いえ、いらないわ」
緋色の蝶から目を外して、食事を進めていく。食欲はないが、前回のことがあってよく食べる娘と思われているため、まったく食べないわけにもいかない。なるべく手を止めることなく運ばれてくる料理を口にしていた。フィリップがあいまに話しかけてくるのが、少々わずらわしい。
「今さらだけど——なんで急に結婚する気になったんだ?」
極上のパテの風味をぼんやりと味わう。尋ねられたことについて思考が答えを探すには時間が掛かった。
「……聞いてるか?」
「聞いてるわ。すべてあなたの言うとおりだと思ったから、決めたのよ。悩んでる時間が無駄だとも思ったの」
「そうか、そうだよな? 子を産みたいなら早いほうがいいか」
「……ええ、何事も早いほうがいいわ」
「あんたの母親も喜んでくれてたよな。よかったじゃないか」
フィリップは母にも会っている。ベッドではなく、きちんと身だしなみを整えた母と挨拶を交わしている。
「そうね……」
あまり気の入らない相づちのせいか、フィリップは眉を寄せて、
「食事に参加できないのは仕方ないだろ? 心配しなくても、この数時間でどうこうなることもない。医師もいるし、何かあったらすぐ駆けつけられるよう話はついてる」
「……ええ、ありがとう。タレラン家の皆さまが配慮してくれたおかげで、父も食事だけは参加できて……本当に、感謝してるわ」
そこだけしっかりとフィリップの目を見て伝えると、彼は意外そうな表情をしてから「それくらい当然だ」と誇らしげに笑った。
「言ったろ? 俺はあんたを幸せにしてやる」
言い方は不遜だが、彼の気持ちは正直で、聞いているとつらくなる。最初のようにきつく当たってくれたなら、罪悪感も生まれなかっただろうに。
幼い笑顔を見ていられず、ぽつりと、
「……わたしなんかに、そこまで気負わなくてもいいの」
つぶやくと、フィリップの目がきょとんと丸くなった。その瞳に向けて口早に話す。
「無理にわたしを愛さなくてもいいから。妾を何人つくっても何も言わないし、あなたの交際関係に口出しは一切しない。……だから、」
「——だから、なんだ?」
差し込まれた声は、重く鋭かった。その先をなんと言おうとしたのか、思いを掻き消すように近づいた目が、強くこちらを見据えて、
「使用人と自由にさせろ——なんて言うなよ? 不貞は認めないと言ったろ」
「……そんなことを言おうとしたんじゃないわ」
「だったら黙ってろ。それ以上は侮辱と取るぞ」
威圧的な声に押し黙った。料理を消費することだけに集中する。今日はこの部屋にルネはいない。父がいるのもあってか別室で待機している。ざわざわと賑やかなのに孤独を感じる。
「……食事のあとで、」
黙していると、フィリップがまた言葉を発した。その顔には気まずさがあった。
「……オペラを、聞きたいか?」
「……オペラ?」
「ラウルが……ああ、あっちの席に座ってるあいつが……お祝いに歌ってくれるらしい」
示された方を見ると、フィリップとよく似たダークブロンドの長めの髪をした青年が談笑していた。緑がかった青い眼。穏やかな表情からはしばらく気づけなかったが、オペラの単語で繋がった。
——ラウル・マキァヴェリ。オペラ座のテノール歌手。軽やかなのに、聞く者の心を震わせるような歌声の持ち主。
「あんな有名な方がお祝いのためだけに歌ってくださるの?」
「ラウルはもともとうちの使用人だ。父の推薦でイタリア座のほうに——今はオペラ座に移ったけどな……まあ、そんな感じで身内みたいなもんなんだよ」
「それはすごい出世ね……?」
イタリア座は特権階級が通う会場。現在は火災によって休業している。オペラ座が新しくできたばかりなのもあって、客も一時的にオペラ座へと流れている。
使用人からオペラ歌手。実力主義の世界と言っても、音楽家の血が圧倒的に強いと聞くのに……タレラン家の後ろ盾もあるのかもしれない。
眺めていたせいか、こちらに顔を向けた彼と目が合った。穏和な微笑みに応えて笑い返す。穏やかなその微笑は、すこしだけ以前のルネに似ていた。
——ルネは今、何をしているのだろう。
そんなことを考えてしまって、振り払うようにフィリップへと顔を戻す。
「そういえば……訊きたいことがあるの」
「なんだ?」
「この前の仮面舞踏会で……あなたのお父様とお会いしてるのだけど……」
——わたしのことを覚えているか、さりげなく訊いてもらえないかしら。
続く言葉の前に、フィリップが変な顔をした。
「——いや? この前は来てないぞ」
「え……?」
「うちで招待を受けて参加したのは俺だけだ。俺の父は参加してない」
予想外な事実に、数秒ほど考えが回らなかった。来ていない。ということは、黒仮面の紳士は赤の他人となる。
(声が……似てるのに)
近くの席で、父と話すタレラン氏に目を送る。ワインについて話す顔は社交的な笑顔にあふれていて、仮面の印象とは結びつかない。目つきだけは、フィリップと違って鋭い印象だが、笑ってしまうと鋭さも紛れる。
——とてもいい子だね?
ささやき声のようでいて、縛り付けるような迫力がある、不思議な声音。
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