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囚われの蝶々

Chap.2 sec.5

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 その日、フィリップは機嫌が悪かった。
 昼時分、友人たちと行った狩猟で、賭けに負けたのもある。知り合いを集めた屋敷での美食会に、強制的に付き合わされたのもある。しかし、やはり盛大な舞踏会に参加させられたことが最も鬱陶うっとうしい。
 主催者と父親が密接な関係だけに、不参加というわけにはいかない。友人もいるからと、普段のノリで参加していたが……踊る相手が多すぎる。規模がでかいだけあって、希望者だけでも、さばくのに相当な時間が取られた。そのうえで、強く勧められた者とは重複して3回も踊り、しまいには見知らぬ女まで絡んでくる始末。
 家柄と財力にかれて集まってくる数多あまたの女性が、フィリップにとっては苦痛でしかなかった。彼はまだ女性に興味が浅く、剣術や狩猟のようなものに心気しんきが湧くという——子供めいたところがあったから。

 いら立つ気持ちで出てきた舞踏の場から、城の端にある温室へと足を入れていた。整えられていた短いダークブロンドの髪をぐしゃぐしゃとき乱し、首とスカーフ・タイクラヴァットのあいだに指を差し込んで隙間を得る。緑あふれるガラス張りの室内で、ようやく息をつけた気がする。
 数々の人の匂いで満たされたボールルームは、長くいると眩暈めまいがする。子供の頃からたびたび訪れているこの場所は、夜でも心地がよかった。

 ——闖入ちんにゅうする女がいなければ。

「……おい、ここは今日、入室禁止だぞ」

 薄いブルーのドレス。入室に対する忠告に、その女は目を返した。

「それを言うなら、あなたも、では?」

 他の女よりもシンプルな装いのその女は、よく見るびた瞳とは違い、とがった目つきでこちらを見ていた。今宵のダンス希望者ではない。過去までは分からないが、記憶にはない。
 入り口から迷わずこちらに向けて歩いてきた姿に、目的が自分であると知る。

「こんな所まで追いかけてくるのか。うざったい女だな……」
「何を誤解されていらっしゃるのでしょう? 無礼なあなたに対して、好意など微塵みじんもないわ」
「あぁ?」
「……がさつなひとね。あなたみたいな無作法な人間が、どうしてこの舞踏会に招かれているのか……理解に苦しむわ」

 怒りめいた感情を見せていた瞳は、気勢きぜいを削がれたようにあわれむ目つきへと変わった。見下したような態度が、かんに障る。

「あんた、俺が誰か分かってないな?」
「——無作法者。それ以外の何者であるというの?」

 淡々とした返しに、イラっと。まりきっていたストレスが、発散の矛先を求めた。
 女の肩口を掴み、強く押していた。背後のガラスに背をぶつけた女は、眉をひそめたが——おびえることも涙を浮かべることもなく、こちらを見上げてくる。

「……手を、どかしてくださる?」
「フィリップ・ド・タレラン=ペリゴール。この名前を知ってるだろ?」
「いいえ? 家名ならば存じていますけれど」
「なら、俺が今ここで、あんたに何をしてもゆるされるのは——分かってるか?」

 ——ドンッ。
 肩を押さえるのとは反対の手で、ガラスを挟む柱を強くたたいた。顔の横をなぐられ、さすがに音が体に響いたのか、女はびくりと身を揺らす。

「女のくせに、俺に生意気な口をきくな。痛めつけられたいのか」
「……ここで暴力を振るえば、家名に傷が付くことになる。あなたが、そこまで愚かなら——タレラン=ペリゴール家は、おしまいね」

 めあげる女の目は、りんとして気高く光っていた。強い瞳。女では初めて見る——いや、この眼を知っている。昔、屋敷の奥で見つけた、父の秘蔵の絵画。オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクの瞳。
 その絵を、過去にフィリップは飾り剣で傷付けていた。あのときは決闘ごっこのせいで、故意ではなかったが……

「……口の減らない女だな」

 胸に湧いた、不思議な感情。
 ひらりと舞うちょうを、とっさに捕まえたくなるような本能。あるいは好奇心——負けず嫌いか。

 目前の瞳に灯る強い意志を、折りたくなった。

 肩を押さえたまま、差し出がましい唇を、自身のそれで塞いでいた。くちづけにしては甘さのない、ぶしつけな衝突。ただ、無遠慮に重ねた唇は、柔らかかった。もっと触れたいと思うほどに——

「——失礼いたします」

 硬質なノック音が聞こえた。
 それから、男の声も。

 唇を離して横に目をやると、開かれたままだったドアの所に、地味な服装をした男が立っていた。明らかに歳上。20代なかばか、後半。髪は黒く、後ろに流されている。姿勢のよい立ち姿だが、軍人のような威圧感はなく、踊り子のようなしなやかさを感じる。穏やかな微笑を浮かべてはいるが……いま響いたノック音は、えらく鋭かった。ドアの枠でも叩いたのか、男の手は拳のまま上げられている。声を掛けてきたわりには目が合わないと思っていたが、男はどうやら女のほうに目を投げていた。

「お嬢様、馬車の用意が調ととのいましたので、お迎えに参りました」

 女の付き添い人か。

「……ルネ」

 ぽつりと、吐息に乗せて、女は何かを囁いた。聞き取れはしなかったが、呼び名らしい。
 視線を戻すと、手の下に閉じめられていた女は、そこで初めて——瞳を揺らした。あれほど強く光っていた眼が、急速に力を失う。すでにこちらのことは眼中にない。
 女が動けずにいるのを見かねて、男はこちらへと、

「……タレラン=ペリゴール様、お嬢様をお連れしてもよろしいでしょうか?」
「断る、と言ったら?」
「ダンジュー様に、お願いいたしましょうか」
「あんたにそんな権限があるか?」
「ええ、ございます。貴方の前にりますのは、由緒正しき貴族の令嬢でございますので——心してお接しいただきますよう、お願い申し上げます」

 言葉だけは、慇懃に。
 微笑みを崩すことのない男の声は、不思議な圧があった。薄い色の眼は、どこを見ているのか分からない違和感を与える。フィリップの黒い眼とは対照的だった。

 小さな舌打ちとともに、女から離れた。解放された体は、ひらりとドレスの裾を揺らして男の許へと。

「どうしてここが……?」
「お嬢様が温室へ向かったと、他の目付けの方から連絡をいただきました」
「……違うのよ、これは別に——」
「——お嬢様、お話は馬車でいたしましょうか」

 付き添い人ということは、女の家の使用人のはず。未婚の女(と思われる)に男を遣わすのは珍しい。年齢から見て、上の立場ではないと推測される。しかし、それにしては不相応な迫力があった。主人の言葉を遮ってまで、連れ去ろうとしているのだから。

 残されるフィリップを、彼女のほうは一度だけ、振り返った。

 ちらりと流された瞳に、フィリップへの懸想けそうなどはなく。
 軽蔑けいべつの冷ややかな色だけが映っていた。
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