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初恋のひと

夢はお嫁さんになることです 4

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 結論から言ってしまうと、深見くんはあれからちっとも姿を見せなかった。
 「次こそは連絡先を訊く!」と、毎朝自分に言い聞かせてから通勤していた私も、さすがに今では「私のバカ……なんであのとき訊かなかったの……」と意気消沈したまま仕事に臨んでいる。
 しかし、長きにわたったその自責モードを本日乗り越え、私はついに、ある計画をやらかす決意をしていた。


「やる……私はやる……やるったらやる……」

 小声でぶつぶつと唱えながら、勤務時間のとっくに過ぎた会社の階段を上っていく。目的地は最上階のスカイライン合同会社。例の、深見くんが関わるなと言っていた会社である。
 あれからよく考えたのだが、最初に彼がやってきたときも彼はこの会社に用事があったわけで、つまりもう私に残された彼の手掛かりはこの会社しかないのだ。彼の営業先なのかなんなのかしらないが(名刺になんとかマネジメントコンサルティングと書いてあった気はする)、ここには彼のことを知る人間がいるはず。
 私にしてはいいアイディアだと思うが、実際この会社の知り合いがいるわけではないので、とりあえず就業時間に様子見してみようと思い、今に至る。決して、泥棒しようとしているわけではない。……わけではないが、あわよくば営業に対応する人の机から彼の名刺を手に入れられたらラッキーだとは思って……いや、これはやめておこう。捕まる。

 そうこうしている間に、最上階に着いた。すでに会社の一般の出入り口は締め切られており、他の階には残業なのか数名人間がいたが、ここにはまったくといっていいほど人の気配がなかった。
 エレベーターから突然だれかが出てくる可能性もあるので、なるべく素早く廊下を進み、フロア全体を把握。そこで気づいたのだが、どうやらここは普段からそんなに人がいない空間なような……。
 手前には小さな応接室のような部屋がふたつ。その次にはおそらく会社を機能させているだろうパソコンやプリンターが数台見える本部のような部屋。しかし、人が使っているようなデスクは数台だけ。隣には資料室のような部屋。そして最奧は……おそらく社長室。でもきっと、その手前に秘書がいる前室がある、と思う。思う、というのは、最奧の部屋だけ木のドアのためまったく中の様子が分からなかったのである。

 各部屋はどれも鍵がかかっているようなので、最奧まで行ってから、再び先ほどの階段まで逆走。と、思ったが、ふと戻る途中で視界に気になるものを見つけて立ち止まった。
 廊下からのぞける範囲のデスクの上に、大量に積まれたチラシのようなもの。視力2.0の眼をフルに活用したところ、『ハートフルライフ』という企業の宣伝だった。
(スカイラインじゃないのかな)
 眼を凝らしてみるが、見える範囲にあるポスターや冊子のようなものには、すべて『ハートフルライフ』と記されている。ここの会社の仕組みはよくわからないが、他社の宣伝を代理でする会社なのだろうか。端に押し寄せられている少し雑に扱われたチラシにも、『ハートフルキャッシング』と書かれており、スカイラインのワードはひとつも見当たらない。

(あれ、ハートフルキャッシングって、なんか聞いたことあるような……?)

「——そこで、何しているの?」
「!」

 ドアのガラスに張り付いたまま驚いたせいで、額をしたたかに打ち付けた。
 あわてて振り返ると、例の美人秘書がこちらを見つめたまま驚いたように(おそらくドアに私がぶつかったせいで)眼を丸くしている。
 いつの間に。気配をまったく感じなかったよこのひと。

「あなた……受付の、」
「——すみませんっ、私じつは高いところに登るのが好きで! ちょっと最上階まで行ってみようかなぁなんて思って仕事終わりに来てしまいました! もう帰りますのでお構いなく! では、お騒がせしましたー……」

 すばやく言い訳を並べて、ぺこぺことお辞儀しながら階段に向かう。
 しかし、それで見逃してくれるほど甘くはなかったらしく、「ちょっと待って」と引き止められてしまった。
 ——どうしよう。彼の情報を何も盗んでいないというのに、警察に突き出される。せめて情報を得てからならまだしも……
 
「私もちょうど帰るところだから、エレベーターに乗って一緒に行きましょう」

 にこりと微笑んだ彼女。疑われているのかどうかわからない私としては、「はい」と答える以外、道はなかった。



 §



「受付ってこんなに遅くまでいるものなの?」
「……更衣室の掃除で、今日は特別遅くなりまして……」
「大変ね」

 なぜか、共に道を歩きながら雑談を交わすという、この現状。
 どうしてこうなったのかというと、ビルを出てすぐに離れる予定だったのに、私も同じ方向だからとニコニコした彼女がくっついてきたのである。
 これはどうなのか、疑われているのか、それともただ無邪気なだけなのか。

 無駄な会話をくり広げながら、ちらりと横目で彼女を見た。髪をトップでまとめているだけなのに、華やかな印象を受ける。上質なスーツに細いヒールで歩くその姿は、美人秘書という肩書き(私達が作った肩書きだが)に異論ない、素晴らしいものだ。こんなひとが隣にいたら、それだけで女子を放棄したくなる。
 (絶対に一緒に合コン行きたくない女の一人だな)なんて結論づけて、小さくため息をついたところ、「……あっ」彼女が声をあげたので、つま先を眺めていた目線をあげた。

「深見さんっ」

 視線の先で、ひとりの男性が振り返った。毎日捜していた、細いシルエットの、黒髪の青年。
 ——そんな、まさか。
 彼の目が、彼女を捉えてふっと笑う。他人に向ける顔ではない。すこし緩んだと思った表情は、しかし、私の存在に気づいて硬くなった。

「……皆月」
「あら、知り合い?」

 彼女が私を振り返って首をかしげる。
 けれども、私はただ小さく「帰ります」とつぶやいて、小走りでその場から逃げるように——いや、文字どおり逃げたのだ。

 どうして考えなかったのだろう。
 ……本当は、多かれ少なかれ不安に思っていたから、あえて考えないようにしていただけなのかもしれない。
 彼は最初、に用事があったのだ。彼女と顔見知りの可能性は、当然あった。

——深見さんっ。

 脳裏で響く、彼女の声。あそこでは『浅山』って名乗っていたはずなのに。彼女は彼の本当の名前を知っていた。それだけで、もう答えは出たも同然だった。
 二人は、仕事だけの間柄なんかじゃない。

——あの美人秘書と私だったら、やっぱりあっちがいい?

 訊くまでもない。あれほどの美人と出会っていたら、その彼女がいる会社の、さえない受付嬢になんて目もいかない。
 勝負にすら、ならないよ。

「……うわぁ、私、みじめだなぁ」

 やみくもに進んでいた足を止めて、自嘲じちょうぎみに呟いた。
 泣くのも馬鹿らしい。泣いていいほどの立場じゃないのだ。最初から足もとにも及ばない相手なんだから。
 ……なのに。

 ぽたり、ぽたりと。
 瞳から勝手にあふれる涙は、ものすごく図々しくて、まったくもって無駄で、どうしようもないくらい抑えきれない。

 ——失恋、したんだ。
 その事実だけが、重たいナイフのように胸に突き刺さっていた。



 §



「受付の人間を巻き込むなと話しただろ」
「ああ、彼女のことだったの。なにか探っていたみたいだったから……念のため連れてきたのだけど……」
「彼女は関係ない。遺族でもない」
「……そう」
「巻き込まないでくれ」
「それは分かったけど……彼女、追いかけなくていいの?」
「……問題ない」

 薄闇に染まり始めた世界で、走り去る彼女の背から目を外し、深見は空を仰いだ。

 さいはもう、投げられたのだ。
 後戻りなど出来はしないし、ありもしない。

——女の子がね、チョコをポストにいれているの、お母さん見ちゃった。彰人はモテるのねぇ……あの子、名前なんていうの? 三つ編みの、赤色のセーターの子。

 遠い過去が、思い出の中だけで笑っていた。
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