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Chap.14 純白は手折りましょう

Chap.14 Sec.5

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 くすんだアイスグリーンのベッドに身を横たえて、寝起きのイシャンは天井を見つめていた。
 とっさに助けたことについて、延々と思考している。昨日、彼女が階段から落下したときの話ではない。扼殺やくさつしようとした夜のことを、後悔に似た思いで反芻はんすうしている。

 ——どうして。
 明瞭な意識を取り戻した彼女の目が、非難を帯びて問うていた。それはイシャンによる偏見かも知れないが、彼女には確かに責める権利があった。一瞬でつもりだったが、彼女が苦痛を覚えた蓋然性がいぜんせいは高い。それなのに蘇生そせいさせられたのだから、訳が分からないだろう。だが……イシャンもまた、あのときの焦燥感を理解できていない。初めての恐慌きょうこうの詳細を、説明できない。

 重い息を吐き出して、ベッドから立ち上がった。トレーニングウェアに着替え、私室を後にする。ハウスの外は早朝ながら頭上に闇が広がっていた。冷たい外気に吐き出される息は先ほどと変わらないものであるが、重さを感じさせることなく大気へと溶けていく。乾燥した空気と星の見えない空に、(今日はくもりだろうか)灰色がかった空を思いえがいていた。
 走り出しをためらうように空を見上げていたイシャンの背後で、ハウスの扉が開いた。気配から頭を回すと、エントランスの照明で光る金の髪があった。

「……セト、おはよう」
「……おう」
「………………」
「——違う! 追いかけて来たわけじゃねぇぞ。偶然だからな。偶然見かけたから、一緒に走ろうと思っただけだ」

 それは“追いかけて来た”と言わないのだろうか。念を押すような言いぶりに、疑問をぶつけはしなかった。セトの白いトレーニングウェアは薄闇によく映える。並んで走り始めると、その白は視界のへりでちらちらと集中をいだ。
 森に差し掛かるころになって、セトは会話のために口を動かした。

「なあ、俺のレポート見たよな?」
「先月の……閉じめ案件か」
「あのトラップについて、どう思った? 俺は、不特定の誰かを感染させるため——っつぅよりは、感染者に襲わせるのが目的だったんじゃねぇかって……思った」
「……目的は、分からない。推測してみたが、無作為な悪意にしても……あれほどの時間と労力をかけておきながら……結果が見合っていないように思う」
「だよな。普通、そこまで暇じゃねぇよな。アリアは——感染しちまったやつらを隔離してたんじゃねぇか?——って。俺らが閉じ籠められたんじゃなくて、感染がひろがらねぇための処置か、誤作動か……とにかく悪意じゃなかった、と。まあ、なくはねぇよな。……俺は、襲うためのトラップに感じたけど……他人を閉じ籠めて感染者に襲わせても、何にもなんねぇしな」
「……快楽殺人、では?」
「……は?」
「人が死ぬのを、たのしんでいる者が……いるのではないだろうか」
「………………」
「記録の映像から見ても……あの状況は、非常に困難だ。……セトのように装備がなければ、生存率は低い。絶望的な状況に陥った人間を見るのが、心地い——そんな人間ならば、手間暇をかけて、あのトラップを作りあげることも……あるのかも知れない」

 口を閉ざしたセトの目は鋭く、嫌悪感に満ちた瞳で前方を睨んでいた。緘黙かんもくの時をしばしおいて、

「……そうだな。そんなやつもいるよな」
「ああ。……皆が皆、倫理的な生き方をしているとは思えない。私も……自分の理念が倫理的だとは思わない」
「何言ってんだよ? お前はじゅうぶん倫理的だろ」
「……何をもってしてそう判断するのか、全く分からないが……」
「……ウサギ」
「……?」
「あいつのこと——助けたんだろ?」

 一刹那いっせつなの動揺が、イシャンの足をからめ捕った。山あいのみちに転がった何かにつまずき、わずかに体勢を崩す。セトも思わず足を止めていた。

「大丈夫か?」
「……ああ、支障ない」
「ドングリだな。この辺はロボの回収が間に合ってねぇな……」
「森で稼働させているロボは少ない……仕方のないことだと思う」
「………………」
「……どうかしたか?」
「いや……ドングリ拾いって、労働としてどうなんだろな……」
「? ……人がする場合の話だろうか?」
「ああ。……時間は食うけど、簡単だよな? そのまま動物に餌やりさせても……」
「……人がするには、かがむ動作が負担になりそうだが……」
「……そうか。やっぱロボのがいいか……」

 誰の話をしているのか、遅ればせながら把握した。話題の中心が戻ったことで、気が引き締まる。

「……助けた話は、あの人間から聞いたのだろうか?」

 セトの目線が、地面の木の実から上がった。「ん?」不思議そうな顔をしたのは一瞬で、思い出したように、

「ああ……俺もウサギが落ちるの見てたしな。あいつ、ちょっと危なっかしいとこあるよな」
「…………昨日の階段の件だろうか?」
「? ……おう」
「………………」
「どうかしたか?」
「いいや……」
「正直、お前が助けたのは意外だった。……けど、そんなことねぇよな。お前は昔から優しい」
「………………」

 優しい——とは、イシャンの不得手えてな形容詞のひとつだ。主観性が強すぎて、理解できないことが多い。今回もまた同意も否定もできず黙るしかなかった。

 止まっていた足を動かし、ランニングと呼べる速さまで戻していく。整えられた小径は森の奥に行くほど細く、並んで走るせいか、隅に咲く野生の花がときおり踏み潰されていく。そこに情けをかけることはない。この行為は優しいのかどうか——思考してみたが、答えを出せなかった。深く考える必要が無い——と、判断した。
 白い野花から連想されたのは、彼女の青白い顔。血の気が引いた肌の色み。
 ——あのまま救命しなければ、このような思考に縛られることはなかったのだろうか。

 走りながら、ぽつぽつと話題を振ってくるセトに受け答えしていると、脳裏のうりを占めようとする彼女の顔を一時的に意識から外すことができる。

「……セト」
「ん?」
「朝食をとった後、射撃のトレーニングを……共に、しないか?」
「おう。……お前が誘うなんて珍しいな?」
「……そうだろうか」
「俺を誘うのは初めてだろ?」

 気安いセトの気質に寄りかかるようにして、今日の予定を調整した。

 走り終え、互いに自室で軽くシャワーを浴び、食堂へ。窓の外は依然いぜんとして薄暗い。廊下側の奥に先に座っていたセトに並び、イシャンも着席する。朝食を頼み終えると、調理室からメルウィンがゆっくりと姿を見せた。

「おはよう、セトくん、イシャンくん」
「おう」
「おはよう、メルウィン」

 メルウィンはセトの前の席に着いた。運ばれてきた珈琲コーヒーのカップを手に、気落ちしたように吐息する。そんな様子のメルウィンに、セトが配膳の合間で声をかけた。

「どうかしたか?」
「……アリスさんから、今日は手伝いに来られそうにないって……連絡がきたんだ」
「……ああ、ロキか」
「うん……昨日のうちから、来られないかもしれないって、話してたんだけど……」
「仕方ねぇだろ。本人の意思なんだから」
「えぇっと……?」
「……あいつが、ロキと居てぇんだろ」
「? ……アリスさんの意思じゃなくて、ロキくんがじゃましてるんだと思うよ……?」
「——それでも。ほんとに嫌だったら出てくるだろ。好きで居るんだから、ほっとけよ」
「………………」

 パンっと手を合わせて「いただきます」食事を開始したセトは、もうこの話題はしまいだと言わんばかりで、メルウィンの目が様子を見るようにイシャンへと流れた。意見か何かを求められたのかも知れないが、それがに関するものなのか判然としない。イシャンがかすかに首を振ると、メルウィンはうつむいて珈琲の水面に目線を固定した。

 会話の無い、粛々とした食卓。
 以前の朝食は、これが日常だった。以前とは、1年前から20日ほど前までの間を指している。

——俺ら、いろいろあったけど、また昔みたいに戻れるかも知んねぇなって。思ったりもする。

 セトの言葉が、イシャンの頭に思い浮かんだ。
 過去の騒がしい食卓を、恋しいなどとは思っていない。昔からイシャンは会話に加わることなく、聞き流していることが多かったからかも知れない。だが、それでも——

 ハオロンの、抑揚よくようが無い独特のなまり。
 それに応えるセトの短い言葉や、ロキの揶揄やゆ
 アリアの穏やかな問い掛けと、メルウィンの控えめな返答。
 それから——小さなベルを鳴らすような、ひとり幼なげな笑い声が、食卓に一際ひときわ響いていた。

 ——あのざわめきを、懐かしいとは、思う。

 黙々と食べる料理は今や慣れた味で、加工食よりも風味は豊かなのに、何かが足りていないように感じる。それが何かは、知り得ない。しかし、掌に残る彼女の首の感触を忘れようと、舌から脳に送られる味覚に集中した。不足するものが何か。広大な森に咲く一輪きりの花を探すかのような——無謀で、無意な行為に執着した。

——おねがい、いしゃん。

 執拗しつように頭に残る声は、ピアノのソステヌートペダルを踏んだ音に類似する。その音の響きだけが、残り続ける。

——やさしく、ころして。

 柔らかなパンを千切る感触に、白々とした彼女の首が重なる。

 イシャンは、ピアノを弾きたいと思った。
 真白く硬い鍵盤けんばんを、指に返る確固たる感触を——今、どうしても、触れたいような錯覚に囚われていた。
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