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Chap.13 失名の森へ

Chap.13 Sec.10

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「ぇ……ティアくんから聞いてませんか?」

 ブラウンの眼をぱちぱちとして、メルウィンは調理鍋から顔を上げた。早朝の調理室には貝特有のいその匂いが立ち昇っている。貝の匂いは海の匂い——らしい。メルウィンは本物の海で泳いだことがない。ちなみに料理で使っているのはムール貝で、ムール貝の匂いならよく知っている。これが海の匂いだというなら、本物の海水浴は貝の匂いが満ちた水に入ることになる。……信じられない。魚のスープスープ・ド・ポアソンで入浴するようなもの……というのは、言いすぎ?

 ——それは、さておくとして。
 中央の調理台で、小麦の生地にバトンショコラを巻いている手を止めることなく、彼女は目だけをこちらに向けた。

「……はい。てぃあは、ねむってた。しゃわーとふく、すきにどうぞ。じゆうにすごして。……めっせーじが、あったので、りょうりのてつだいに、きました」

 眠ったことを反省しているみたいに、考え込むような表情を見せつつ、手許ではせっせとパン・オ・ショコラの原形を生み出している。

「かーどは、てぃあが、かった?」

 首をかしげた彼女の髪は頭の後ろで結わえられ、すっきりとしている。服装は、うっすら青みのある白のブラウスに、一見するとロングスカートに見える形のグレーのパンツ……ロングキュロット?——なんと呼ぶか、メルウィンには分からない。ティアが用意した服のなかで、できるかぎり身軽に仕上げたのだと思う。最初のアンティークドールみたいなイメージは、今やすっかりぬぐわれている。

「カード……ではなく、ジャンケンで決まったんです」
「じゃんけんで……?」
「(アリスさんが眠ってたから……って言ったら、よけい気にしちゃうかな?)……えぇっと、早く決めるために……ティアくんが、ジャンケンで決める? って提案してくれて……」

 そうだ、提案したのはティアだった。しかも、1回の勝負でティアのひとり勝ち。あいこもない。ひとり勝ちは、確率でいったら27分の4。さらにティアが勝つ場合と限定すれば、27分の1。約3.7パーセントなので、かなり運がよかったことになる。……しかし、かといって奇跡というほどでもないのに、ロキの疑惑をまねいていた。

「ぜってェおかしい……」
「ロキ、いくらなんでもぉ、こんな瞬間的に相手の心なんか読めんって」
「……ハオロンがパー出した理由は?」
「うち? そんなん適当やわ……とくに考えず勘で出したつもりやけどぉ?」
「………………」
「逆に訊いていいかぁ? ロキはなんでパーなんやぁ?」
「……統計的には、パーが勝ちやすいから」
「そぉなんか? ほやったら、これはもう偶然やの」
「……メルは? なんでパー? オレの推測ではグーだったのに」
「(ぇ、僕?)……な、なんとなく、だけど……」
「………………」
「(すっごく睨んでる!) ほんとだよ! ティアくんと示し合わせたとかじゃないよっ」
「こら、ロキ。恨みっこなしやろ? 負けてからいちゃもん付けるなんてあかんわ」
難癖なんくせつけてるわけじゃねェし。オレは解明してェだけ」
「ほやで、偶然やろ? どぉ解明するんやって」
「………………」

 ——そんな感じで。
 おぼろげにセリフを再現しながら、一部始終を彼女に伝えた。眠った彼女を見送ったあとの、ロキの疑惑まで。

 朝会ってすぐに、いつ眠ったか覚えていないといった感じのことを悩んでいたので、なぜかセトの膝で眠っていて、最終的にセトがティアの私室まで運んで行った話だけは伝えてあった。……絶望してる? と思うくらい衝撃を受けていて、その世界滅亡みたいな青い顔でパン・オ・ショコラの製作を申し出てきたため、今に至っている。熱心に作っていた手のスピードをすこしだけ緩めて、

「ろきは……べすたをやめて、める?」

 ——そこ?
 この話のなかで、一番気になったのはそこなんだ……と思わせる第一声だった。

「ぁ……はい。そう……みたいですね?」
「めるは、いやじゃない?」
「呼び方は、もうなんでもいいかな、と……でも、ちょっと、ほんとの家族みたいで……気恥ずかしいかも……?」
「……ほんとの、カゾク?」
「僕には、父と母と、それから姉が3人いる……いた、んです。家族のみんなからも、メルって呼ばれていたので……懐かしくて」
「? ……が、さんにん?」
「はい、3人いました」
「……ろきは?」
「……ぇっと?」
「ろきも、きょうだい。……ここは、みんな、きょうだい。……ちがう?」
「ぁ……そっか、アリスさんは、僕らのことなんて知らない……の、かな?」
「……はんぶん、きょうだい。てぃあから、ききました」
「ぁ、そうです、異母兄弟になります。……えっと、でも、戸籍上はそれぞれ他人で、みんな本当の家族がいる……じゃなくて、いた、んです。……ぇえっと、どう言えばいいのかな……人工授精で……ヴァシリエフ博士の精子を、提供されて、います。……でも、幼少期はそれぞれ自分の家庭で育っていて、たまに来るだけで……ここでの生活がメインになってからも、年末年始あたりは帰省してたので……ぁ、昔の寄宿学校……みたいなもの……?」
「………………」
「……僕の説明、分かります?」
「……たぶん、すこし」
「ですよね……」
「………………」
「ぁ、生地ぜんぶ巻けました……?」
「はい」
「マシンに入れますね」

 成形された生地が、マシンのなかでゆっくりと膨らんでいく。焼いているわけではなく、二次発酵。醗酵具合は十分。このあいだにオリーブオイルに漬け込まれていたムール貝の確認。低音でじっくり火入れされた身は、しっとりぷっくりと美味しそうに仕上がっている。こちらのムール貝のコンフィは、ランチとディナー用。朝食用のスープや卵料理を用意して、仕上げにパンを焼いていく。

 残りはロボに任せ、食卓につくことにした。窓側のラインで、端っこにふたり並んで着席。そうこうしているところへ、セトが。そろそろかな? と思っていた。雨は降っていないので、外を走って帰ってきて、シャワーを浴びたりなんなりすると、この時間。イシャンもきっとすぐにやって来るはず。

「セトくん、おはよう」
「おう」
「……せと、おはよう」
「……おう」

 軽い挨拶を交わして、メルウィンの向かいに座った。セトはいつもメニューの片っぱしから全部をオーダーする勢いなのだけど、今朝はメニューを見て、ぴたっと止まった。蜂蜜色の目をこちらに向けて、

「……パン・オ・ショコラ?」
「ぇ? ……ぁ、そう! アリスさんが作ったんだよ。セトくんのために……ね、アリスさんっ」

 自然と跳ねる語尾で、左の彼女に声をかける。メルウィンとは反対に彼女は沈んだ表情で、「……はい」そろりとセトの顔をうかがい、

「きのう……せとが、わたしを……はこんでくれた?」
「あぁ……別に大したことじゃねぇよ。運べって言ったのはティアだ」
「……でも……」
「なんだよ?」
「……わたしは、せとの、うえで……ねむってた……ので、……めいわくをかけて、ごめんな……」

(……あれ?)
 謝罪の後半が、すーっと細く消えていった。正面を見ると、セトの目がとがめる目つきをしている。なにが気にさわったのだろう? 考えていると、彼女は小さく息を吸って、

「……ありがとう」
「ん」

 謝罪と同じ響きをした、感謝の言葉。彼女がまとっている、申し訳ない雰囲気は変わっていない。メルウィンにはまったく分からないけれど、しかし、セトのほうはそれで何かが解決したらしく、オーダーへと意識を移した。

「メルウィン、普通のパンもあるんだよな?」
「……ぇ? もちろん、あるけど……セトくん、パン・オ・ショコラ、食べないの?」

 メルウィンの問いかけに、隣の彼女が身を硬くした気がした。不穏な予感に、メルウィンもどきりとして表情を曇らせたが、セトから「いや、食う」あっさりと喜ばしい答えが。
 ぱぁっと、メルウィンの表情が明るくなった。

「うん! ぜひ食べて」
「いくつ焼いたんだ?」
「ぇっ……と? いくつだったかな……?」

 横から彼女が、「……じゅうに。たぶん」ぽつりと数字を唱えた。12個。たしかにバトンショコラは12本用意した気がする。

「お前らは食うのか?」
「うん。今もう焼けるから、僕とアリスさんもひとつずつ頼んだよ」
「ふぅん……なら、あとは俺がもらう」
「……えっ?」

 勢いよく「うん!」と言ってしまいそうだった。でも、よくよく考えると……(ぇ、ぜんぶ? 残りの10個、ぜんぶ? ほかのみんなにも残してあげてほしいな……) 全部セトの胃袋に入ってしまうのは、ちょっと。(ティアくんも食べたいと思うし……) 躊躇ちゅうちょが生まれた。

「俺の為に作ったって言ったろ。——なら、俺が食っても問題ねぇよな?」

 金の眼が、まっすぐに向けられる。肯定しないメルウィンに——ではなく、彼女の方へ。
 隣を見ると、(私に訊くの?)みたいな、ちょっとびっくりした顔をしていた。
 許可を出してもいいのかどうか、戸惑っている彼女に、セトが「他に食わせたいやつがいるなら、食わねぇけど」譲歩しているような案も示した。
(ティアくんも……なんならアリアくんもハオロンくんも食べたいと思う……)言いたいけど、なんとなく口を挟めない圧を感じる。
 困ったようすの横顔を見守っていると、

「……せとは、ぜんぶ、たべられる……?」
「食える」
「……たくさん、ある……よ?」
「10個だろ。普通に食える」
「……それなら、ぜんぶ……どうぞ」

(あげちゃった……!)
 メルウィンが止める隙はなかった。セトは即座にオーダーを済ませ、何食わぬ顔で横を向き、「イシャン、はよ」入り口から現れたイシャンに短く挨拶をかけている。

「ぁ、イシャンくん、おはよう……」
「おはよう」

 メルウィンも声をかけた。ロボによる配膳を受けていた彼女は、ためらいがちに目を上げて、

「……おはよう、いしゃん」
「……おはよう」

 互いに距離を測っているようなやり取りだった。
(……イシャンくんは、アリスさんにひどいことしたって聞いたけど……)複雑な気持ちでふたりの様子を見ていたメルウィンの前で、眉間にしわを作っているセトが。

「……セトくん?」
「あ?」
「(ぇっ、怒って……る?)どうか、したの?」
「何がだよ?」
「……ぁ、えっと……なんでもない……」
「は?」

 怒っている顔のセトは、たいてい怒っていないのだけど、今日はなんだかほんとに怒っているみたいで……そっと退くことにした。……だいじょうぶ。チョコレートが口に入れば、機嫌を取り戻すはず。

 いただきます、と。
 ディナーとは違い、各自が自由なタイミングで口にして、食事が開始される。
 メルウィンは手許に置かれた珈琲を手に取り、温かな湯気のなか口をつけた。すこし、熱い。珈琲のフレーバーを舌の上に残したまま、パン・オ・ショコラを口に含む。バターあふれる香ばしさと、ほのかに溶けたチョコレートのハーモニー。焼きたてならではのサクサク感は、心がおどる。珈琲との相性も抜群で、テーブルの上で重なり合うアロマだけでもワクワクする。

 そんな甘やかなフレーバーのおかげか、セトの表情も落ち着いたように見えた。山盛りのパン・オ・ショコラが載ったプレートから、パクパクと食べ続ける口の上、眉間のしわは緩んでいる。
 メルウィンの期待を含んだ瞳と——それに並んだ、もう一対の黒い眼。正面から見つめられていることに気づいたセトは、ほんのしばらく気まずそうな間を作ったけれど、

「……美味うまい。……作ってくれて、ありがとな」

 メルウィンは、喜びに顔をほころばせた。セトの言葉は彼女に——というより、ふたりに向けられていた。彼女が作ったと主張したが、生地はメルウィンが事前に作っておいたものなので、メルウィンへの感謝も間違いではない。セトはそこまで知らないだろうが、メルウィンは素直に自分も含まれていることを喜んだ。作り方を教えたのは、自分だから——教え子が褒められるのを誇らしげに思う、師範しはんのような気持ちで。

 彼女の笑顔が見たくて、メルウィンは横を向く。期待していた表情は……残念ながら、なかった。喜びというよりは、安堵あんど。「どういたしまして」と応える顔は、ほっとしていた。——それでも、食卓に流れる空気は温かで、充分だと思えた。

 今日は、いい日になりそう——。
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