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Chap.12 薔薇色に塗り潰すなら

Chap.12 Sec.10

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 今の生活を失いたくない。誰にも頼られず、誰にも期待されない日々のなか、ゆっくりと死に向かってちていく。ちっぽけな世界を美しいものや美味しいもので彩り、この手の届く幸福だけで満足する。自分の頭には、もう誰も入れたくない。誰の頭ものぞきたくない。僕は、妖精でも神童でも、まして神様でもない。ただの人間。魔法や奇跡を唱えておきながら——演出しておきながら、誰よりもそれらを信じていない。僕自身には、なんの力もない。

 ひとあし先に着いたディナーの席で、ティアはメルウィンの席を空けて座っていた。窓側の列。廊下側に座るであろうイシャンを観察しやすいから、と、無意識にそこを選んでいた。ディナーには、さすがに彼女も現れると思うが……確信はもてない。とやらが順当に回るなら、今夜はアリアとなる。彼に引き継ぐためにも、イシャンは彼女を連れて来なくてはいけない。彼女が、無事ならば。

 最初に食堂のドアから入って来たのは、セトだった。彼とは朝食からトレーニング、更にはアフタヌーンティーまで共にしていたので、心のうちを把握している。廊下側の最奥、ティアの斜め右前に着席した。とくに変化はない。彼女に会ったようすもない。次に入って来たのはイシャンで……ひとりだ。セトの目も横に流れ、その事実に気づいたらしく眉根に力が入った。

「……ウサギは?」

 素直に口に出してしまうほど余裕がない。イシャンを信用しつつも、セトの胸中に不安は残っている。セトの横に座るため歩いて来たイシャンは、見下ろす顔に感情を浮かべず、「……私は、知らない」静かな声音で返答した。

「? ……お前の部屋にいるんじゃねぇの?」
「私が居ない間に出て行ったらしい」
「……は?」

 両眉をぐっと寄せたセトは、「またかよ」口のなかで悪態のような音を鳴らした。彼女が行方不明になるのはセトにとってごくごくありふれた事であるらしく、彼は慣れたようなそぶりでミヅキに問い合わせようとし——たが、新たにドアから現れた人影に意識をさらわれた。ティアも同時に知覚した。デニム生地のシャツが爽やかなアリアと——その後ろから、ベージュとブラウンの落ち着いた色合いの彼女が、ひょこりと姿を現した。

 彼女の姿を確認してから、セトを見る。拍子ひょうしぬけした顔は、(なんでアリアといるんだ?)くらいは思ったかも知れないが、その理由にたどり着いていないようだった。アリアが医療をになっている事実を思えば、たやすく答えが出そうなものだが……そこは、イシャンへの信用がまさったのか。
 ついで、セトからイシャンへと対象を移す。無感動な暗い瞳は、彼女を見ていない。意識にすら入っていないように振るまうイシャンの思いに反して、席に着こうとしていた彼の許へ彼女が駆け寄った。いしゃん、と。つたないながらも名を呼び、その呼び声にイシャンよりもセトのほうが反応を見せたが、それにはティアしか気づいていない。

 わずかに首を回したイシャンを見上げて、彼女は何か言いたげだった。イシャンの双眸そうぼうは伏せるように彼女に向けられている。互いに何も言わない。言いたくても、言えない。ティアには、そんなふうに見える。

 口を開けずにいる彼女の代わりに、遅れて足を進めて来たアリアが、「もしや、お姫様を捜していられましたか?」イシャンとセト、どちらへともなく尋ねた。イシャンは「いいや」即座に否定し、セトは「……いや、べつに」ワンテンポ遅れながらも否定めいた返しをした。どちらも肯定していないが、にこやかに微笑んだアリアは、

「前回の検査のことで、結果をお伝えしていまして。ロキさんが、翻訳機を作ってくれたそうですね? おかげで、ようやく説明できました」
「ああ、そういや健康診断とか言ってたな……健康なんだよな? ウサギは」

 彼女と共にいた理由を告げたアリアに、セトが問いかけた。

「ええ、健康ですよ」

 訊いておきながら「ふぅん」と気のない返事をしたセトだったが、アリアは笑って話題を変えた。

「翻訳機とは、じつに便利ですね。どこまで翻訳できるのでしょう? 歌声から歌詞も訳せるでしょうか?」
「知らねぇ……ロキに訊いてみろよ」
「そうですね、訊いてみましょう」

 アリアとセトが話すあいだ、彼女とイシャンの目が言葉にならない何かを交感した気がするが、はっきりとは掴めなかった。彼女のほうにおびえは見えず、ティアの予想にない関係性が生まれている。いま思いついたが、ふたりはという点でよく似ていた。おそろいのような黒い眼を互いに外して、それぞれ席に着いた。彼らが並んだことに、セトは少し困惑している。彼女の横にアリアが座ると、食堂のドアが開いてハオロンとロキが、

「……あっほら、ありす居るわ」
「………………」

 小柄なハオロンが彼女を指し、背後にいたロキの不機嫌そうな目がそれを追った。名前に反応した彼女は目を返したが、ロキは黙ったまま、ふいっと視線をそらした。まるでねた子供みたいに。ロキを横目に、ハオロンがあきれたように吐息しながら歩を進め、ティアの横に座った。むっつりとしたロキは、ハオロンの左隣に並んだ。彼女の目は困ったようにロキをうかがっている。ロキは連絡がつかないと言っていたはず。どうやら彼女が故意に連絡をっていたらしい。そうなると、イシャンの言うとおり本人の意思で閉じこもっていたことになる。

(よく分からないな……)
 ティアの頭はすすけたキャンバスのようで、灰色のそこには何も浮かんでこない。アリアが一枚んでいるなら、イシャンが彼女に何かした可能性があるのだが……それにしては、彼女とイシャンの距離感が変だ。暗黙のままに思いを交わし、秘密を共有するかのような親密さ。たとえるなら——共犯者。

 ティアが悩んでいるうちに、食卓の用意が進んでいく。遅れてやって来たサクラがアリアの横に腰を下ろし、メルウィンもティアの右隣に座りながら「ティアくん、それだけなの?」丸い目を向けてくるので、「うん……昼間の疲れかな?食欲ないんだ」手許のサラダとスープに目線を落とし、苦笑してみせた。
 すると、前方右から、期待どおりの鋭い突っこみが、

「スコーンやらケーキやら、ダラダラ食ってたからだろ」
「セト君こそ、あんなに食べたのに……ふつーにディナーも食べるんだ?」
「当たり前だ」
「君のあたりまえって分かんない……」

 表面的な軽口に、メルウィンがくすっと笑った。彼女からは意識を外し、軽薄で明るい調和を演出することに集中する。視界のすみに見えるサクラのことも、気にしてはいけない。

——邪魔をするなら、容赦しない。

 剣の切っ先を喉に突きつけられたかのような、低く恐ろしい声。冷たくて鋭い、脅迫の音色。過去にサクラから発せられたなかで、それは最たる敵意をみせた。ティアの、セトを案じる心をくじくには、充分だった。

 〈いただきます〉のために、手を合わせる。まるで祈りのようなそれは懺悔ざんげにも似て、今は不愉快だ。
 罪の告白も、悔い改めることも、できない。ティアができるのは、すべてを胸に秘めて、日々を過ごすのみ。
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