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Chap.12 薔薇色に塗り潰すなら

Chap.12 Sec.7

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 鏡のなかの女性を見つめる。黒い長髪、黒い眼。どこにでもいそうな容姿ではあるが、自分自身だと言われてもしっくりこない、ちぐはぐ感。そんな違和感からは目をそらして、肌の上に残る赤い痕を確かめた。

(全然消えない……)

 鏡の女性が眉をひそめた。はだけたシャツから見える首には、指の跡なのか赤い筋が走っている。なぜか顔にもうっすらと赤い斑点が浮かんでいて、どちらも白い光の下では目につく。以前の腕の痕はいつ消えたのだったか……翌々日くらいまでは気にしていたのに、その後は意識にない。ティアと入浴したときに塗ってくれた薬の効能だったのだろうか。拘束時間がまったく違うので、こっちはすぐ消えるかと思ったが、半日たった今でもそんなに変化が見られない。ティアに頼むわけにはいかないが、イシャンも同じ薬を持っているかも……。
 バスルームの鏡と対峙たいじして考えていると、右手にあったドアが開いた。私が鏡を見ていたことに気づいて、イシャンが、

「……医務室で診てもらうべきだ……」
「だいじょうぶ」
「……脳へのダメージがあるかも知れない」
「……だいじょうぶ」
「………………」
「でも、これは……なくしたい」
「皮下出血は、すぐには消えない」
「……いつ、なくなるの?」
「その程度なら……1週間は残ると思う」
「………………」
「医務室なら、治療が可能だ」
「……それは、こまる」
「昨夜も言ったが、私のことは気にしないでもらいたい。貴方に気を遣われるのは……に落ちない」
「……いしゃんは、モメゴトがこまる。わたしも、こまる」
「貴方が困る理由が分からない。殺した人間が隠蔽いんぺいしたがるなら、理解できるが……殺された人間が隠そうとするのは……」
「わたし、ころされてない」
蘇生そせいしただけで、一度は死にかけている」
「……ソセイ? は、いしゃんがした。……ころされてない」
「………………」

 イシャンは口を閉ざした。じっと見つめてくる黒い眼は何を思っているのか。感情が見えない淡泊たんぱくな表情で私を眺めていたが、目を伏せて息をつくように口を開いた。

「……朝から食事をとっていないように思うが……空腹にならないのだろうか」
「……たべ、たい」
「貴方のブレス端末でも、オーダーできるようになっていると思う。……メルウィンがそのようなことを話していた」
「……これは、できない」

 いつのまにか動かなくなっていたブレスレットを示すと、イシャンが寄って来て腕に触れた。一瞬だけ、背筋に恐怖のようなものが走ったが、表に出ることはなかった。

「……電源が、切れたままだ」
「(電池切れ?)……どうしたら……?」
「……ここを長く押せば、く」

 ブレスレットに備わっている、とても小さなライトが光った。電池切れではなかったらしい。(これって充電は……?)新しい疑問が生まれたが、訊ける雰囲気も語彙ごいもない。

「……ありがとう」
「私が切ったのだから……感謝するべきでは無いと思う」
「いしゃんが、きったの……?」
「昨夜、貴方が入室したときに、私が切った」

 言われると、ドアを開けて招かれたときに手首を掴まれている。

「……どうして?」
「それは、バイタルサインを測定している。……貴方に何かあれば、サクラさんとアリアに通知がいくはずだ」

 消した理由に納得していると、ブレスレットが振動した。通話のしらせ。音声のみ。

《——なんで電源落としてンの?》
「……ろき、おはよう」
《オレの質問に答えて》
「……きえてた。いま、わたしもきづいた」
《そんなワケないじゃん。……まァ、い~や。そんなとこ早く出て来てよ》
「……もうすこし、ねむるから……できない」
《はァ? ……じゃァ、オレの部屋で眠ったらい~じゃん?》
「…………こまる」
《なにが?》
「もうすこし、まって」
《いやだから、なんで?》
「……まってて。またあとで」

 通話を切ったが、すぐにまた振動が。ブレスレットを見つめて困惑していると、イシャンが手を伸ばしてきて……再び、電源を切った。
(え……)顔を上げると、イシャンは無表情で見下ろしたまま、

「ロキには……あまり知られたくない」
「……わたしも」
「貴方がそう思う理由は、皆目かいもく分からないが……希望は一致している。食事は、私の端末から頼めばいい」
「ありがとう」
「……その感謝は不適切だと思う」
「……わかった。……よろしく?」
「………………」

 背を向けてバスルームを後にするイシャンについて行くと、ひとり掛けのソファに備え付いたサイドテーブルから、両手に収まるくらいの薄い端末を渡された。プラスチックの板みたいで、軽い。受け取ったそれの画面を見て、自分がこの世界の文字をまだ読めないことを思い出した。

「…………いしゃん、」
「なんだろうか?」
「わたしは、よめない。……ごはんは、どれ?」
「……そこに、座ってくれ」
「?」

 言われてターコイズブルーのソファに腰を下ろした。サテンのようにツルツルとした素材——と思っていると、目の前に映像が浮かび上がった。食事のメニューが、それぞれのイメージ付きで。

「どれだ?」
「……これ」
「ほかには?」
「…………これ?」
「ほかには?」
「……おわり」
「これだけで足りるのか?」
「…………これも」
「飲み物は要らないのか?」
「……ほしい」
「どれだ?」
「……これ」

 端的な言葉から勝手に急かされて、目につくものを適当に選んでいった。頼んでくれたのか、イシャンは映像を消した。

「……10分ほどで届くと思う」
「……まってるあいだ、わたしは、ようふくを……ここに、してもいい?」
「洋服をするとは、どういう意味だ?」
「……ここが、なくなるふくが、ほしい」

 シャツの首を示すと、意味が伝わったのかうなずいてもらえた。

「首が隠れる服なら、私が用意しよう」
「ありがとう」
「………………」
「…………よろしく?」
「首を隠しても、顔は隠れない……。最終的には、明るみに出ると思うが……」
「よるは、これが、すこしあかい。かおは、わからないと……おもう」

 照明を指さすと、「……そうだろうか」半信半疑なつぶやきがあったが、とくに否定はされなかった。手首のブレスレットで洋服を用意してくれたのか、しばらく操作をしてから、ふと顔を上げ、

「食事が届いた。私は……用事があるので、しばらくの間、出てくる。……3時間ほどしたら、戻るかと思う」
「はい」
「……ここに居ることを、強制はしていない」
「はい」
「分かっているなら……いい」

 すっと横を向いた顔は、変化なく無表情。ただ、そこに……わずかに記憶から重なるものがあった。

 イシャンの居なくなった彼の部屋で、ひとり朝食(? ……にしては遅い?)を頂く。不思議な時間。彼に対して恐怖心が無くなったのかと訊かれると、答えはよく分からない。
 昨夜、殺されると思った。殺される——はずだった。でも、失った意識はそこで終わらず、たぶん時間にして数分も経たずにこの世界に引き戻された。(……どうして戻したの?)非難するような問いは、イシャンにぶつけられていない。その理由は、目を開けて最初に見えた顔が、

(…………泣きそうだった)

 あのときまで、知らなかった。
 セトのり上がった目と違って、イシャンの目じりは少しばかり下がっていて、よく見ると困った顔をしているように見える。普段は眉がしっかりと上がっているので、冷たい無感動な顔に見えるが……眉が下がると、極端に印象が違った。前髪が下がったときも似たような感想をいだいた気がする。ギャップが激しくて、すこし戸惑う。泣きそうだった——というのは、あくまでも個人的な印象であって、事実としては泣いておらず、涙も浮かんでいなかった。……それなのに。

 意識をはっきりと取り戻し、彼から「話せるか?」と問われて、言葉を返したとき。泣きそうな顔から……ほっとしたように、ゆるんだ目尻が。
 生きていて、よかった——そんなふうに、見えた。私の生を、私でさえ見失っている命の価値を、初めて慈しんでくれるひとを見つけたように——思えた。

 錯覚だと分かっている。きっと自分に都合よく捉えている。……それでも、あの瞬間、何か——冷たい固定概念のようなものが——自分のなかで弾けた気がした。その正体はまだ、はっきりとしていない。つかめそうで、つかめない。

(そういえば……イシャンに薬のこと訊くの、忘れてた……)

 どんな言葉を並べれば、うまく伝わるだろう。脳裏に浮かぶ言葉をひとつひとつ検討しながら、食事を進めていく。頭の中は言葉に埋め尽くされ、胸は温かな食べ物で満たされる。
 不安や恐怖は、今のところ押しのけられている。
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