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Chap.10 DRINK ME, EAT ME

Chap.10 Sec.9

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 ステンドグラスの映像が揺らぐと、白い扉の画像が重々しい見た目とは異なり、スムーズにスライドしていった。
 着物をまとった長躯ちょうく足早あしばやに進むわけではないのに、脚の長さのせいか追いかけるこちらは早足はやあしにならざるをえない。短い通路の先にある広間は、シャンデリアのささやかな明かりと暖炉の赤い炎によって照らされていた。ブレスレットを貰ったときのイメージとは違い、赤みのある室内はおどろおどろしいかげを生み出し、どこか不安をあおる様相をしていた。

 部屋の中央に位置する、透明の筒のような細いエレベータ。そこへ向かうサクラから言葉はなく、黙ってその後をたどる。着物の裾が動くたび、金木犀きんもくせいらしきほの甘い花の匂いがする。木のぬくもりを含んだ、和の香り。懐かしいようでいて、身に覚えのない香り。

 エレベータのドアが開き、乗り込んで振り返ったサクラと目が合った。青いはずの眼は炎の色を帯び、暗い闇色をしている。底知れない青よりも、この色のほうが怖くはない。けれども、視線の先で細くなるそれは冷たく、この先に待つものを暗示しているようにも見えた。

『何か?』
『……いいえ』

 ひそやかな響きに否定を返し、動けずにいた足を踏み出した。エレベータの狭い空間で並ぶと、背の高さに圧迫感を覚える。
 今からこのひとに抱かれるなんて想像できない。絵画にえがかれた、生命を感じさせない偶像のようなひと。温度すらも感じない。

 階層を上がったエレベータのドアが開いた。
 ふ——と、香の匂いがまとわる。城館にそぐわない香りと室内に、すこしだけ戸惑う。サクラに続いて降りながら、そろりと見回した。
 明かりの乏しいこの部屋は、和室とまではいかないが和風といえた。和紙で作られた行燈あんどんの照明と、壁に飾られた毛筆の書が目をひく。達筆な文字は流れるような筆致でやわらかい。水墨画のように淡い色が入っていて、文字としては読みづらいが、よく見ると私に読める漢字だった。
【雪月風花】
【花鳥風月】
【月白風清】
 3つの書はそれぞれ、そう読み取ることができた。

 書を眺めていると、飾り窓みたいな丸い窓の(これは映像だと思うけれど……)満月に満たない月が浮かぶ夜空を背景にして、サクラが『ここへ』テーブルの前にあった黒いイスを引いた。慎重な足取りで向かい、指示されたイスに腰を下ろす。テーブルはうるしが塗られているかのようなつややかな黒だった。右手の丸い窓からす青白い光が、その漆黒を美しく輝かせている。
 テーブルにはもうひとつ、向かい合うようにイスがあったが、サクラは座らなかった。

『……セトの罰を、代わりに受けるという話を……忘れたわけではないな?』

 静謐せいひつな声は、薄暗い室内によくなじんでいる。その声の方を見上げると、闇色に近い青の眼がこちらを見下ろしていた。

『……はい』

 答えると、サクラはその顔に優しげな微笑を浮かべた。引き結ばれた唇は婉美えんびをえがき、私を捉える眼には親しみさえ見えた。胸が震えた気がするのは、恐怖からではないと思う。この端整な顔は、こんなふうにも笑えるのかと。驚きのような、衝撃のような。美しい芸術を見たときに受ける感銘にも似ていた。

 ほどかれた唇は、静かに言葉を奏でていく。

『追放に等しい罰を考えるのは難しくてな……価値観は人それぞれ異なるだろう? セトにとっての追放がどれほどのものか……私の憶測でしかないが、想像したうえで、相応の罰をひとつ……見つけておいた』

 サクラの指先が動く。離れた所にあったワゴンを呼び寄せたのだろう。無音のまま黒のテーブル横まで動いたワゴンのカバーが開き、中に収まっていた物が目に入った。透明のワイングラスと、小さな瓶。それから飲み物の入ったボトル。

 サクラは小瓶を指先で取り上げ、ふたを外した。ふたにスポイトが付いていて、丸みのあるワイングラスにその中身を一雫ひとしずくたらし、ふたを閉じる。次に飲み物の入ったボトルを開けると、こちらは流れるようにワイングラスへ、とくとくと中身を注いだ。無色の液体。水にしか見えない。
 月光に染まったような白い手が、ワイングラスの脚をつまんでテーブルから持ち上げた。追いかける私の視線の先で、グラスがくるりくるりと回される。中身を混ぜているらしき動作だった。

 水面を見つめる青の眼が、私に落ちる。
 絡まる視線の奥の、微笑みは甘い。恐ろしいほどに。

『これが何か、見当はついているか?』

 絹の肌触りに似た、心地のよい声が耳をでる。その声があまりにも優しくて——これは、恐怖だ——身体が震えた。
 推測がサクラの微笑に重なると、もうその微笑みに優しさは感じられなくなった。私の表情の変化を見た彼の唇から、ふっと吐息がもれる。わらったように、思えた。

 闇をガラスに閉じめたかのような、漆黒のテーブル。
 ことり、と。ワイングラスが置かれた。
 色の無いそれから、目を離せない——

 視界の端で、サクラの白い指先が、ワゴンに置かれていた小瓶に触れた。

『これには、致死性の高い毒物が入っている。……致死性といっても、グラスに入れた分は致死量に満たない。ただ、実際に人間で試したわけではないからな、致死量のデータが精確かは保証しない』

 長い指は、小瓶の形を確かめるようになぞって、つまみ上げた。てのひらに隠された小瓶に意識をひかれたが、目の前のグラスから目をそらせず、顔も動かせない。
 テーブルにグラスを置かれた瞬間から、世界の焦点が、ここに固定されてしまったとでもいうように——月明かりの溶ける水溶液に、支配されていた。

 恐怖におののく脳を、その声が震わせる。

『人間で反応を試したくてね。——飲んでみてくれないか?』

 弦楽器の音色めいた声。
 夜闇に甘く響くそれは、狂気の調べを奏でていた。
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