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Chap.9 盤上の赤と白

Chap.9 Sec.11

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 この館は深夜でも明かりが灯っている。ただそれは、すべてではなく、もしかすると人の通りが多い所のみなのかも知れない。
 私はまだ、全貌を知らない。

 出て行けばいいよ、と。言われたと思う。
 仮にひどいことを言っていたとしても、分からない。ハオロンの部屋から追い出された私は、行き場もなくたたずんでいた。ここは3階で、この部屋以外は未知だった。

 床は淡い光を反射している。明るい方を進んだすぐ隣にはエレベータがあり、試しに手をかざしてみると開いた。
 身体は重く、どこかで休みたいけれど、どこへ行けばいいのか分からない。ティアの部屋に行ったら、入れてくれるだろうか。何時なのか分からないが、訪れていい時間帯ではない気がする。優しいが、どこか読めない彼を頼れるほどの勇気は、今の私にない。

 漫然としてエレベータに乗り込み、1階へと向かう。降りた場所は食堂のすぐそばで、中を見ようかと思ったけれど、調理室側のドアは入れなかった。食堂は誰もいなかったが、私が入ると天井の蝋燭ろうそくを模した照明に光がついた。広い空間は静まりかえっていて、誰もいないだけなのに異質な空間に見えた。ここと、ひとつ上のカードゲームをした部屋くらいしか、詳細を知らない。ほんとうに行き場所がない。

——なんかあったら、こうやって連絡取れよ?

 ふと、セトの声が浮かび、手首に着いたブレスレットを目の高さに持ち上げた。迷惑にならないよう、頼らないでおこうと決めていたけれど、ほかに当てがない。セトなら、身体を提供すれば、部屋に置いてくれる気がする。……昨夜、部屋に来るかと訊かれて頷けなかったのに、自分勝手だとは、思う。

 見つめていたブレスレットのすぐ横に、手錠の跡を見つけた。前に縛られたときと比べたら、ただのり傷で、それほどのことではない。ない、けれど、見ていると目に涙が浮かんでしまった。

(私は、どうしてこんな所にいるんだろう……?)

 にじむ世界は、現実感がないのに、確かな実体をもって孤独を知らしめてくる。さびしい。帰りたい。どこへ帰りたいのかも分からない。でも、ここじゃない。ここではないどこか。

——お前、どっか行きたいとこねぇの?

 セトが、どこかへ行く話をしてくれたけれど、彼の助けは得られない。同じあやまちはしない。分かっている。分かっているのに、逃げ出したくなる。わかってなんて、いない。

 ゆがんでいく視界で、自然と足がエントランスホールへと向いた。固く閉ざされた扉が見える。ふらふらとした足どりでそのドアまでたどり着くと、無意識のうちにそこへと手をかざしていた。期待は、どちらにも半分ずつ。開いてほしい、開かないでほしい。開いたらきっと逃げ出してしまう。

 予感めいた覚悟が、胸に灯った。
 扉は、誘うように開いた。

 こまやかな夜雨が、さあさあと降っている。踏み出せば濡れてしまう。濡れてしまえば、言い訳はできない気がする。
 自分の呼吸と、心臓の音が、耳の中で反響していた。一歩ずつ踏み出していくと、靴底が舗装された道をとらえた。進んだ先では、この館の四方を囲むような壁と、その中央に門がある。雨が顔にかかったけれど、気にならなかった。まとわり付く服の冷たさも、乱れた髪をつたう雫も、何もかも。

 ——どこまで行けるのだろう?
 その問いだけが、頭と身体を満たしていた。



 §



 その扉が開いたとき、急に目が覚めたみたいにして、意識がはっきりとした。

(……どうしよう)

 驚くことにその門は、なんの障害もなく通ることができた。——正確には、門の横にあしらわれた、人が通るためのドア。開いた先に進みながらも、今さらのように湧いてきた後悔の念に覚悟を揺らされていた。肌の熱は奪われ、靴はぐっしょりと水を吸っている。

 道はゆるやかに下っていると思う。進むごとに、靴の先で道がぼんやりと光っていく。速度を落としてはいるが、前には進んでいた。今ならまだ、戻って何事もなかったように……は、できない、か。濡れそぼった姿の言い訳が浮かばない。

 足を止める。ここから左手に進むと、メルウィンに案内された緑のガーデンがある。足許には目印のように赤い花が咲いていた。メルウィンは〈スパイダーリリー〉と呼んでいたと思う。私の記憶——あるいは、この身体の記憶——では、彼岸花ひがんばなと呼ぶ花に似ている。赤い花びらから、おしべとめしべが触手のように伸び、雨を受けて水滴を身につけている。夜闇のなかでほのかな光を浴びたそれは、もの恐ろしい。小さな狂気をはらんでいた。

 ——戻ろう。
 赤い花によって駆りたてられた恐怖が、全身を冷たく襲った。戻ろう。やっぱり戻ろう。その思いが生まれた途端に、もう足は進めなくなった。これが昼間だったら違ったかも知れない。今はただ、深夜の雨音と深い闇によって怖気おじけづいていた。身体も凍えそうに冷たい。

 恐れるまま、外の世界に背を向けようとしたときだった。

『——ねぇ、キミ、だれ?』

 透明感のある声が、私に問いかけた。
 びくりとして半歩さがりながら、足許の花に目を向ける。声はそこから聞こえた。花が喋った。しかも——私の知る、言語で。

 一瞬、雨がやんだかと思った。心臓が凍りつくような静けさに、クスクスと笑う声が広がっていく。

『——驚いてる? ボクはここだよ』

 距離をとった花では、ない。声は私の身体に絡み付いている。いったいどこから……身体を見下ろして、気づいた。声はブレスレットから生まれている。

『……見つけられた?』

 月の光を浴びたガラス玉を、そっと転がしたみたいな音色。神秘的な響きは、幻のようだった。

『……かわいそう。こんな冷たい雨のなか、ひとりでいるなんて……』

 持ち上げた腕に着いたブレスレットが、光を映して、しろがね色に薄く輝いている。

『……誰かにいじめられたの? ……それとも、なにか悲しいことがあった?』

 耳になじむ言語で、いたわるように、優しげな声がかけられる。
 答えられない。何も返せないのに、涙だけがあふれた。濡れた肌の上で、雨と混ざって流れるそれは、誰にも気づいてもらえないはずだった。

『……泣いてるの? ……だいじょうぶ?』

 幻聴だろうか。
 私の知っている言語で、優しく尋ねるこの声は、なんなのか。私は、ついにおかしくなってしまったのかも知れない。
 この、不可思議の、知らない世界は。私の頭のなかの妄想で、私は最初から狂っていて、ぜんぶ夢だと——何度目か分からない思いが浮かんだ。

『——ボクが、助けてあげようか?』

 優しいだけの幻の声は、冷たい身体の奥までみ入って、弱りきっていた心をしっとりと抱きしめた。
 狂っていても、いいと思えた。正常な精神なんて、この身体を差し出した時点で失っている。望んでいた救いの手が、ここにあるなら。夢でも幻でも、それに縋ってしまいたい。

 ——助けて。
 そう口にするために開いた唇は、何も発することができなかった。

「……お姫様?」

 穏やかな声とともに、雨がやんだ。
 茫然ぼうぜんとして振り向くと、ふわりとした光に包まれた青年が、私を心配そうに見下ろしていた。幻聴に応えようとしていた唇から、その名が、

「……ありあ……?」

 発光する、傘のような形の不思議なドローンが、頭上から照らしている。
 雨から隔離された小さな世界で、鮮やかなブルーの眼が、心配そうに私を見つめていた。

 夜空に、月は見えない。
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