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Chap.6 赤と黒の饗宴

Chap.6 Sec.7

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 細い脚をした繊細なグラス。丸いボウルを傾けると、透き通りそうな緋色の液体のなかで、ゆらりと光が揺らめく。
 血のような、などとは思わない。薄いグラスに包まれたそれはもっと厳かで、どこか懐かしい色をしていた。

「ちょっとロキ君! やめて、そんなカパカパ飲まないで!」

 ソファに座ってグラスを見つめていると、ワゴンのかたわらで騒ぐティアの声が聞こえた。私からは距離があるが、グラスを持ったロキにティアが切実に訴えているのが見える。イシャンはその後ろで、ティアを止めようかどうか迷っているようだった。

「エ~? ワインは飲むための物じゃん?」
「これはそんな雑に飲む物じゃないの!」
「でもみんな飲まねェし? オレはこれならスルスル飲めるしさァ~」
「みんな遠慮してるんだって! ——ねぇサクラさんっ、ロキ君用に適当なワイン出して! お願いだから!」

 ティアが声を張りあげているのを初めて見る。ティアに呼ばれたサクラは、顎に手を当て、

「ロキが好きなワインか……今さらシャンパーニュを出すのもな……」
「そんなのじゃなくていいから、もっとどうでもいいワイン!」
「アンタさァ、ひとが飲むもんをどォでもいいとかゆ~の?」
「だってロキ君、ワイン好きじゃないって今さっき言ったよね?」
「だからァ~これはイケるって言ってンじゃん」

 ティアとロキがにぎやかに話すのを、私の右に座るハオロンも眺めていた。彼は最初に注がれたグラスで少しずつ味わっている。立ちつくしていた私を壁ぎわのソファに案内してくれたのも彼だ。

「これ一口でいくらなんやろか……?」

 遠い目をしてつぶやいた。私の視線に気づくと、「ワイン、飲まんのか?」目でグラスを示した。

 あらためて手許のグラスを見る。渡されたときからワインかとは思っていたが、記憶に結びつかない風味だった。促されたのでひとくち飲み下す。最初に口づけた時とは印象が異なり、どこか紅茶に似た余韻が残る。

 本来の私はワインを飲む人間だったのかどうか考えていると、ワゴンのそばでパクパクとつまみを食べ続けていたセトが、プレートをふたつ持ってこちらにやって来た。

「ハオロン、食わねぇのか?」
「あぁ、食べるわ。ありがとの」
「ん」

 ソファのサイドテーブルにプレートをひとつ置き、

「お前は?」

 私に向けられた飴色の眼が、睨むようにとがった。自然と息が止まる。

「………………」
「……おい、聞こえねぇのか」
「セト、ありすは共通語分からんのやけど……」
「知ってる」
「……ありす、これセトがぁ、どうぞって」

 応えられずにいると、セトの手にしていたプレートをハオロンが取って私にくれた。大きなワゴンに載っていた、小さな芸術の品々。ひとくちサイズに整えられていたその料理が、乱雑に盛られている。

「……アリガトウ」

 自分のではなく私の分だったのか。感謝を返したが、私の対応が合っているとは思えない冷淡な顔つきで見下ろされた。怒らせるようなことは……していない、はず。

「……せと?」
「あ?」

 怒ってる? なんて訊ける感じではない。機嫌が悪そうなので首を振って話を切り、膝上のプレートからピンをひとつ、つまんで口に運んだ。

 とろりとしたムースに包まれた何かが、サクリと歯切れの良い揚げパンみたいな物と合わさり、口腔こうくう内に濃厚な旨味が広がる。上に飾りのように乗せてあった茶色い粒が弾けると、トリュフらしきキノコの香味が加わった。動物性の内臓みたいな物は、ムースとの境界線が分からないくらいとろけていてとても美味しい。
 ワインを口に含むと、また違う風味がした。旨味に華やかな香りが重なり、まろやかに溶け合う。

「……オイシイ」
「ほやの。ワインも美味しいわ……」

 しみじみとした言い方でハオロンが同意してくれた。怖いセトがいなければ、私もハオロンのように多少は頬をゆるませていたと思う。余韻があるうちは自分の境遇を忘れられそうなくらい、感動的な味だった。

「よかったな」

 頭上から落ちてきた投げやりな声に、そろりとセトをうかがう。明かりを反射する金髪の下で、薄い褐色の顔が……睨んでいる。どうして。

「………………」
「………………」
「……あんたら、なんで見つめ合ってるんやって」

 ハオロンの声に、セトが目線を移した。

「は? どこが見つめ合ってんだよ」
「どこがって……なら睨んでるんかぁ?」
「ティアみてぇなこと言ってんじゃねぇ」
「……なんでティアが出てくるんか分からんのやけど……セト、ありすならうち見とくよ? 心配なんやろ?」
「はぁっ?」

 ふたりの会話が変なところで途切れた。眉を寄せたセトに、ハオロンが不思議そうに目をパチリとする。

「……なんやの? その反応」
「何ってお前が……変なこと言うからだろ」
「ん? ……だってありすは他人やが……セトが拾ったからって、ひとりで見張ってなくてもぉ……うちも気ぃ張っとくし……って意味やったんやけどぉ……」
「………………」
「うち、変なこと言ってるかぁ?」
「いや、言ってねぇ」
「ほやろ?」

 ハオロンはセトを眺めながらワインを口に含んだ。私の名前が出たと思うが、なんの話をしているのだろう。ハオロンは聞き取り難易度が高いので、あたりまえのように流してしまっていた。
 グラスに口をつけ、聞こえていないようなそぶりで密かにふたりの会話に集中する。セトは私の前からハオロンの方に移動した。

「……お前は、反対なんだな?」
「なんの話?」
「こいつが、ここにいること」
「……ほやの。まぁそこまで心配せんでも、とは状況が違うしの。うちもいるし、護らんとあかん子も——いないんやから。みんなの息抜きにでも置いといたらいいわ」
「息抜き……かよ」
「ん? ……あぁ、セトはペットとして飼いたいんやっけ……セトのエリアで?」
「なんだそれ。お前俺とサクラさんが話してたの、聞いてたんじゃねぇの?」
「聞いてたんやけどぉ、お腹も空いてたしの……なんかそんなこと言ってたやろぉ?」
「言ってねぇよ。お前それ、全然聞けてねぇからな」
「ごめんの? ……ほやけど、最後のほうはちゃんと聞いてたよ?」
「どこだよ」
「あれやろ? サクラさんが大事で、ありすは嫌いなんやろ? ……ほやで、ありすはうちが見とくよって話につながるんやが」
「それ俺が言ったセリフじゃねぇぞ……」
「違う? 違うなら今ちゃんと聞くわ。酔ってないし、話してくれていいよ?」
「……いや、何も……違わねぇけど」
「? ……ほんとか? ……一応訊いとくけどぉ、のつもりはないんやがの? 好きやから連れて来たとか……ないかぁ?」

 グラスを傾けるために顔を上げると、セトの瞳が流れて私に刺さった。重なった視線は冷たく、怒りよりも突き放すかのような目つきで私を見ている。

「——好きじゃねぇよ、こんなやつ」

 抑えられた低い声が、奇妙なほど耳に響いた。

「……セト、そんな本人に向かって言わんでも……」
「言葉分からねぇんだろ。なんとも思わねぇよ」
「あんたは言葉なくても怖いんやって」
「は? なんでだよ」
「セトは鏡見たことないんか?」

 続く会話が、脳に届くことなく流れていく。
 重たい音の残響に、胸から込み上げるものがあったが、押さえつけると簡単に消えた。

 サクラとの約束は、セトの私への好悪こうおの情に関係しない。セトには助けてもらったのだから、それ以上を望むなんて……おかしい。

 ただ、なにか——ひどく自分勝手で都合のいい幻想を——壊されたような気がした。逃げ出して、助けてもらったあの夜に。すこしだけ、距離が近づいたような。理解しあえたような——錯覚を、否定された。それだけのことで。
 サクラと話したあのときに、セトの罰なんて構わず逃げ出してしまえばよかった——なんて、一瞬でも思った自分は…………

 ふいに、思考の闇に落ちていた昏い視界が、鮮やかに色を取り戻した。まぶしいほどの蛍光グリーン。ついで、

「なァ、このウサギ、もう貰っていい?」

 可視範囲いっぱいに現れたその顔に、動転した私は思わず手にしていたグラスを落とし——たと思ったが、すばやく伸びた手によって受け止められた。

「あっぶねェ~」

 グラスを受け止めた彼の顔が下がり、出来損ないの虹色みたいな髪で視界が埋めつくされる。ひょいっと顔を上げたかと思うと、小さく苦笑した。

「……そんな驚く?」

 ソファの肘置きに片手をつき、私の顔をのぞき込むみたいにして体を曲げたロキが、目の前にいた。

 びっくりしすぎて身体が動かない。細く息を吐きだし、吸いこむ。跳ね上がっていた肩の力を抜いて、「……アリガトウ」グラスを拾ってくれたことに関して感謝を述べ、受け取ろうとグラスに触れた。……が、離してくれる気配がない。

「空っぽじゃん、もう要らなくねェ?」
「…………?」
「まだ飲む?」
「…………いいえ」
「じゃァ、オレがウサちゃん食べてい~い?」
「………………」
「お、今のも分かったァ? アンタ、短いのは聞き取れる? ……オレの名前はなんですかァ~?」
「……ろき」
「ハイ、よくできましたァ」

 小馬鹿にしたような声で褒めると、ロキはグラスを挟んだ手で私の頭をなでた。ティアが言うとちゃんと褒め言葉なのに、ロキが口にすると悪口に聞こえる。
 ロキはソファから手を離して、曲げていた体を起こした。横に立っていたセトのうっとうしげな顔は無視して、ソファに座るハオロンを見下ろし、

「……まだ飲んでンの? 早くカードしてェんだけど」
「だってこれもう一生飲めんやつやが……誰に何言われても、うちは大事に飲む。邪魔せんといて」
「サクラさんが、ロマネ・コンティならもう一本あるってさァ~。そんな飲みてェなら開けてもらえばイイじゃん?」
「は? そんな雑に開けたらあかんって言ってるやろ。いい加減にして」
「…………なんで怒んの?」
「あんたがぁ、アンポンタンなこと言ってるでやわ」
「ン? なんてェ? ……いま知らねェ言語入ったよな?」
「………………」

 むすっとしたハオロンは、ロキを無視して残りわずかのワインを口に入れた。
 ロキは気にしていないのか、手にしたグラスの脚をつまみながら中身もないのにクルクルと回している。まるでそこに、まだ何か残っているかのように見つめ、吐息だけで笑った。

「……すぐ拾うクセに、容赦なく捨てるよなァ?」

 誰へともなしに、ささやく。
 セトがロキの方を横目で見た気がしたが、何も応えない。代わりにハオロンが「なんてぇ?」ロキを見上げて聞き返した。

「……早く飲めば? って言ってンの」
「うち待ちかぁ? あっちも飲んでるし食べてるけどぉ……」

 セトとロキの隙間から、ハオロンはティアたちを見やった。サクラと話してはいるが、ティアもイシャンもグラスを傾けては適度につまんでいる。

「食べてる人間が多いとカード始めづれェじゃん? いっそ飲みながらでいいってオレは言ったンだけどねェ……ティアが待てとさァ」
「うちはティアの気持ちわかるわ」
「あっそォ~、じゃァ、オレはウサちゃんと遊ぼっかなァ?」

 光の加減で茶色がかったロキの眼が、私を見下ろした。直感で警戒したものの、見上げたその瞳には欲望の色がない。ロキは私の膝上にあったプレートを取り、グラスと共に床へと置いた。そんな所に置いていいのだろうかと懸念したが、気づいたロボットがするりと現れて拾い上げていった。

「アンタ、カード分かる?」
「……かーど?」
「ポーカーは?」
「…………わからない」
「ン~? 言葉を知らねェのかポーカー自体を知らねェのか、どっち?」
「…………?」
「判断つかねェな? ……ま、いっかァ」

 ロキはひとり勝手に納得して、私の前に掌を出した。

「こっち来な。カード、オレが教えてあげるから」

 この、差し出された掌は。
 強い既視感があるこの差し伸べ方は、もちろん握手ではなくて。

「………………」
「カード、したくねェ?」
「…………オソウ、ない?」
「ン? 襲ってほし~の?」
「…………いいえ」

 ロキの顔を注視してみたが、悪意は見えない。ゆっくりと話される言葉も、試されている感じではないが……。
 目前の掌は長い指を軽く曲げ、グラスを包み持つかのようにして私の自発を待っている。いや、こんなふうに包むような持ち方、見ている限りでは誰もしていなかったが。

 本当のところ、私に選択肢などない。なのに、あまりにも大人しく待ち続けるその掌が、何かを訴えている。
 ためらいながらも、手を伸ばした。

 指先が重なった瞬間、ロキは目の端をほんの少しゆるめた。それは喜びや慈しみではなく、かといって憎しみや怒りでもなく——まるであわれむみたいに。

「ウサちゃん、も~らいっ!」

 私を引き上げながらふざけた声を出したその顔はもう、うすっぺらな笑顔で塗りかえられ、私の錯覚だったのかも知れない。

「せっかくだし、チューくらいしとく?」
「…………?」
「あっれ? 分かんねェ? ……キスは?」
「…………きす?」
「こ~ゆうヤツ」

 お辞儀するように身を屈めたロキの顔とぶつかりそうになって、反射的に目を閉じた。柔らかいものがちゅっと軽く唇に触れて、(え?)怪訝けげんに思い目を開けたときには、その顔は離れていた。

「…………きす?」
「そ、今のヤツ。覚えといて」

 目をつむった一瞬の出来事で、確信がもてない。でも今のはどう考えても……。

 緩慢な思考回路で答えを出す前に、ロキによって手を引かれ部屋の中央に連れていかれる。
 掴まれた手は痛みを感じず、意外にも優しく包まれていた。力を入れれば容易たやすく割れてしまう、薄いワイングラスを扱うみたいに。

 目がくらむようなキラキラとしたジャケットを見つめていると、このひとはそんなに怖いひとではないのかも知れないと、甘い考えが浮かぶ。けれど、その思考を、記憶にあるサクラの声が塗り潰していく。

——皆が優しくしてくれるのは、お前が、身体で代償を払うからだろう?

 緩みかけていた警戒心を改める。セトで学んでいたのに、同じ勘違いをするところだった。
 優しくしてくれるからといって、私のことを少しでも好いている、というわけではない。仮に私を必要としているとしたら、それは“女である”というその一点につきるだけで、それはつまり、私でなくても。

 考えるのをやめ、金のフレームに飾られた窓へと目を向ける。
 外はもう、蒼黒そうこくに染まっていた。
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