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Chap.4 うさぎを追いかけて
Chap.4 Sec.11
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背中から熱が伝わる。じんわりと全身にひろがって身体をほぐしていくこの感覚を、今朝も味わったような、と。漠然とした記憶の片隅で照らし合わせていた。
うつろな頭はさほど考えることなく、ゆるやかに機能を停止しようとしている。だんだんと四肢への意識が届かなくなっていたせいで、セトが後ろから私の腕を取り、袖をめくったことすら気にならなかった。
「……あれから考えたんだけどよ……お前これ、普通の怪我じゃねぇよな?」
おぼつかない視界のなかで、腕に張り付く赤い蛇が、ライトに照らされぼんやりと浮かんでいる。耳許で低い声が何かを尋ねているが、頭まで入ってこない。
セトの身体が、湯たんぽのように温かい。
「俺が昨日、出て行けとか言ったから……俺のせいで泣いたのかと思ったけど……俺じゃなくて、他のやつと……つぅか、イシャンと……なんかあったか?」
落ち着いた音色が、さざなみのように鼓膜をゆらしている。
日が沈む前に仮眠したはずなのに、どうしてこんなにも身体が重いのか。走りすぎたのか、化け物との遭遇で消耗したのか、その両方か——それとも。
思考が止まる。生ぬるい眠気がまたしても脳を侵食し、まぶたにまで忍び寄ってきている。
「なんつぅか……縛られた痕みてぇに、見えるけど…………あいつ、まさかそこまで……」
赤い痕を、指先がそっと確かめるようになぞった。その感触が快くて、かろうじて残る意識が崩れていく。セトは何を話しているのだろう。そんな疑問も、一瞬のうちに溶けていった。
「……聞いてんのか?」
腕に触れていた手が離れ、顎を持ち上げられた。半分閉じかかっていたまぶたの隙間で、茶色に近い蜂蜜色の眼がぼやけている。何か言葉を返さなくては、と。思ったけれど、『うん』意味をなさない日本語だけがぽつりとこぼれ落ちた。ちがう、これはつたわらない。
「は? まさか眠ろうとしてんのか?」
唖然とされている気がするが、もう睡魔にあらがう力がない。とろけ落ちた意識の残骸を奮い、なんとか唇を動かして謝罪を伝えようとしたが、(だめだ、セトは謝罪がすきじゃない)浮かんだ記憶に、取りやめて、
「……せと……アリガトウ」
つぶやいてから、(なんか違う、ような……眠ってしまうことを謝らなくてはと、思ったのに……)成立していない会話に気づいたが、もう訂正する意気はなかった。
ほのかなライトの明かりが、まぶたによって閉ざされ、世界は闇におちる。
暗闇の奥深くで、底の見えない黒々とした海が、私を呑み込もうと待ちかまえているのが分かった。
けれどもそれは、遠くでゆらめくだけで、近づく気配はない。温かく包まれた私の身体を、ただ静かに見つめている。
脅威にさらされているのに、胸にはわずかも恐れがなく——まるで、母親に護られる獣のような心地だった。
「…………遅いだろ」
眠りにつく、まぎわ。
溶けた頭に、最後にとどいたその低い音が、どんな意味をもっていたのか。
あまりに短いそれには、いらだちも不快感も混ざっておらず、きっと〈おやすみ〉なのではないか——と。
そんな夢想をしてしまうほど、あたたかで、おだやかな夜だった。
うつろな頭はさほど考えることなく、ゆるやかに機能を停止しようとしている。だんだんと四肢への意識が届かなくなっていたせいで、セトが後ろから私の腕を取り、袖をめくったことすら気にならなかった。
「……あれから考えたんだけどよ……お前これ、普通の怪我じゃねぇよな?」
おぼつかない視界のなかで、腕に張り付く赤い蛇が、ライトに照らされぼんやりと浮かんでいる。耳許で低い声が何かを尋ねているが、頭まで入ってこない。
セトの身体が、湯たんぽのように温かい。
「俺が昨日、出て行けとか言ったから……俺のせいで泣いたのかと思ったけど……俺じゃなくて、他のやつと……つぅか、イシャンと……なんかあったか?」
落ち着いた音色が、さざなみのように鼓膜をゆらしている。
日が沈む前に仮眠したはずなのに、どうしてこんなにも身体が重いのか。走りすぎたのか、化け物との遭遇で消耗したのか、その両方か——それとも。
思考が止まる。生ぬるい眠気がまたしても脳を侵食し、まぶたにまで忍び寄ってきている。
「なんつぅか……縛られた痕みてぇに、見えるけど…………あいつ、まさかそこまで……」
赤い痕を、指先がそっと確かめるようになぞった。その感触が快くて、かろうじて残る意識が崩れていく。セトは何を話しているのだろう。そんな疑問も、一瞬のうちに溶けていった。
「……聞いてんのか?」
腕に触れていた手が離れ、顎を持ち上げられた。半分閉じかかっていたまぶたの隙間で、茶色に近い蜂蜜色の眼がぼやけている。何か言葉を返さなくては、と。思ったけれど、『うん』意味をなさない日本語だけがぽつりとこぼれ落ちた。ちがう、これはつたわらない。
「は? まさか眠ろうとしてんのか?」
唖然とされている気がするが、もう睡魔にあらがう力がない。とろけ落ちた意識の残骸を奮い、なんとか唇を動かして謝罪を伝えようとしたが、(だめだ、セトは謝罪がすきじゃない)浮かんだ記憶に、取りやめて、
「……せと……アリガトウ」
つぶやいてから、(なんか違う、ような……眠ってしまうことを謝らなくてはと、思ったのに……)成立していない会話に気づいたが、もう訂正する意気はなかった。
ほのかなライトの明かりが、まぶたによって閉ざされ、世界は闇におちる。
暗闇の奥深くで、底の見えない黒々とした海が、私を呑み込もうと待ちかまえているのが分かった。
けれどもそれは、遠くでゆらめくだけで、近づく気配はない。温かく包まれた私の身体を、ただ静かに見つめている。
脅威にさらされているのに、胸にはわずかも恐れがなく——まるで、母親に護られる獣のような心地だった。
「…………遅いだろ」
眠りにつく、まぎわ。
溶けた頭に、最後にとどいたその低い音が、どんな意味をもっていたのか。
あまりに短いそれには、いらだちも不快感も混ざっておらず、きっと〈おやすみ〉なのではないか——と。
そんな夢想をしてしまうほど、あたたかで、おだやかな夜だった。
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