上 下
38 / 228
Chap.4 うさぎを追いかけて

Chap.4 Sec.4

しおりを挟む
 波ひとつない海のような、あらゆる物を呑み込んでしまいそうな粛々とした声。昨夜、ベッドではほとんど聞いていない。それでも、イシャンのその静かで重く響く声を耳にした瞬間、全身が稲妻に貫かれたのように、思考も感情もすべてが止まってしまった。

 セトはすでにいない。どこかへ出かけてしまった。引き止めたかったが、叶わなかった。イシャンとふたりきりにしないでほしいと、どう伝えればよかったのか。

 静寂につつまれたリビングで、座ったまま身動きもとれずにじっと息を殺している。セトと違い、イシャンは外からすぐに帰ってきた。外出の用意をしていないのだから、出かける気はないのだろう。無言のままテーブルの前で私を見下ろしている。顔を上げられない。何を考えているのか、分からない。永遠とも思えるほどの沈黙のなか、独り言のようにイシャンが口を開いた。

「貴方は……私の言葉を、どこまで理解している……?」

 一歩、私の方へとイシャンの足が踏み出された。距離はない。うつむく視界には、私の足とイシャンの足が向き合っている。

「……皆目わからないか?」

 反応できずにいると、バンッ、と。イシャンの左手がテーブルをたたいた。固くなっていた身体が飛びあがり、麻痺まひしていた恐怖が締めつけるように襲いかかる。
 なにか言わなくては。なにか、なにを、なんて。目の前でたたずむ大きな影の圧迫に、手脚が震えて何ひとつ頭に浮かばない。涙すらも浮かばない、凍りつくような戦慄せんりつが脳を支配している。
 かたかたと鳴っているのは、私の歯なのか。確かめるまでもなく、私の後頭部に大きな手が回されたかと思うと、髪を掴んだイシャンによって顔を上げられ、暗い闇色の眼と向き合わされた。

「……ここに、貴方の居場所は無い」

 深い底まで落とされそうな、黒い双眸そうぼう。額に垂れた前髪の狭間で、水銀のように、無機的で有機的でもある不思議な光を放っている。

「昨夜のあれでは、足りなかったか? ……もっと酷い目に合わさなければ、分からないだろうか……」

 髪にかかる力が、強まる。頭皮が引きつる痛みに顔をゆがめるが、彼の表情は変わらない。

「……分かるまで、ここで犯しても、一向に構わないが」

 耳から滑り込んできたすごみのある低音に、背筋がぞっとした。私はこの人たちに殺されることはないと。そう思い込んでいたが、そんな甘い考えは一瞬で吹き飛んだ。足元から得体の知れない寒気がい上がり、肌があわだつ。脅されていることだけは分かるが、どうしろと言われているのかが分からない。ただ、恐怖が。抑えようのない恐怖だけが、全身を縛りつける。

「…………本当に、全く分からないのか」

 私の顔を観察していたイシャンの手が、髪を放した。不穏な空気が、わずかに揺れる。私を見つめる瞳は冷ややかで、何か考えるように黙したかと思うと、小さな吐息をこぼした。イシャンはそのまま、無言でキッチンへと消えていった。

 姿が見えなくなった途端、思い出したようにぼろぼろと涙が落ちていく。黒い服にはすでにいくつも染みができていて、セトに怒られるんじゃないかと、ばかみたいな不安が生まれた。
 ぎゅっと胸の前で抱きしめる腕に残った、醜い痕を思い出す。ともすれば、また縛られるのだろうか。何かを取りにいっただけで、すぐに戻ってくるのだろうか。暴力をふるわれる可能性は。刃物や銃器だってありえる。イシャンは普段、武器のようなそれらを必ず身に着けているのを知っている。ただ、今は何も着けていなかった。それはつまり——。

 がたりと大きな音を立ててイスから立ち上がった。キッチンを見るが、イシャンはいない。ほんとうに何かを取りにいったのなら、どうしたらいいのか。——戦う? 私が? 勝てるはずもないのにどうやって。私の手には何も戦える物などない。

 何かを探して、周囲を見る。いや、本当は何も探してなどいない。最初から、目はドアへと向いていた。逃げることしか私の身体でできることがないのを、分かっているのだから。駆け寄るようにドアへと縋りついて、その平らな壁に手を当てた。すると、錠前のマークが赤く点灯しているのが目につき、(アンロックされてる……?)疑問が浮かぶのと同時に、思いのほかすんなりとドアが開いた。

「あ……」

 想像していたよりも簡単に開いたドアに、口の中だけで声があがった。なんの警告音も鳴らない。久しぶりに見る日の光がまぶしく、目を細めた。
 ざわ、と。一陣の風が吹き、戸惑っていた身体を呼ぶ。

 ——逃げるなら、今しかない。

 踏み出そうとした足が、裸足であることに気づく。急いで棚の中から靴を取り出し、足を突っ込んで駆けおりた。
 どこへ向かえばいいのかも分からない。建ち並ぶビルのかげへと、とにかくここから遠ざかり見えなくなるまで。決して後ろを振り返ってはいけない。そう強く自分に言い聞かせて、走りだした。

 軽く柔らかな靴は地面の衝撃を吸って、うまく走ることのできない脚を支えてくれている。靴があってよかったと、頭のすみで思った。

 この靴をくれたのが誰か。
 そこまでは、思い浮かばなかったけれど。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

お兄ちゃんが私にぐいぐいエッチな事を迫って来て困るんですけど!?

さいとう みさき
恋愛
私は琴吹(ことぶき)、高校生一年生。 私には再婚して血の繋がらない 二つ年上の兄がいる。 見た目は、まあ正直、好みなんだけど…… 「好きな人が出来た! すまんが琴吹、練習台になってくれ!!」 そう言ってお兄ちゃんは私に協力を要請するのだけど、何処で仕入れた知識だかエッチな事ばかりしてこようとする。 「お兄ちゃんのばかぁっ! 女の子にいきなりそんな事しちゃダメだってばッ!!」 はぁ、見た目は好みなのにこのバカ兄は目的の為に偏った知識で女の子に接して来ようとする。 こんなんじゃ絶対にフラれる! 仕方ない、この私がお兄ちゃんを教育してやろーじゃないの! 実はお兄ちゃん好きな義妹が奮闘する物語です。 

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

処理中です...