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Chap.3 鏡の国の

Chap.3 Sec.5

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 夕食はミートボールにマッシュポテト、それに昨日の野菜スープとパンだった。サクラは食べないらしく、ディスプレイの前に座ってキーボード——よく知るものとは違う。ディスプレイの手前の台に立体映像のようなキーが現れている——を使用していた。音声でも操作できるはずだが、声に出すのが面倒なのか無言のままだった。

 私は昼に食べたスパイスのせいか食欲がなく、夕食はほんの少し口にしただけだ。ミートボールに掛かっていた2種類のソースのうち、ひとつが甘酸っぱくて印象的だった。セトは食が進まない私の皿から、「食わねぇならもらう」口をつけていない物をすべてさらっていった。昼も私の3倍量くらいのカレーを食べていたのに。

 ひとあし早く食事を終えた私は、ティアに勧められてシャワーを浴びることになり、彼に背後の編みひもを解いてもらって、現在シャワールームにいる。今日知ったのだが、このシャワールームは内部に密閉された棚のような物置スペースがあり、着替えを持って入ることができた。ワンピースは自分で着られないので、ひとまずティアが大きめのトップスを貸してくれた。セトのだと言っていたと思う。セトに無断で借りたのではないと信じたい。

 今日知ったことは、もうひとつ。この世界には歯ブラシがない。それらしい器具はあるらしいが、私の分はここに用意がない。ティアに尋ねたのだが、普通はコーティング(?)しているから虫歯になることはない、というような話だった。気になるならこれを、と。ティアが愛用しているらしい錠剤が入ったケースをくれた。試しにひとつんでみたところ、口の中で弾けてクシュクシュと細かな泡が立ち、消毒されたような不思議な爽快感が生まれた。この泡は飲み込んでもいいのだろうかと、不安になるくらい科学的な味がした。

 頭上から流れてくる温い湯を浴びながら、ひとり目を閉じる。ピンと張りつめていた体がほぐれていき、ほうっと息をついた。ひとりで入るシャワーは、なんとも言えないくらい心休まる。
 目が覚めた日をふくめて3日間。常に知らない男性といることが、こんなに息苦しいとは思わなかった。彼らにとって私の存在は大したものではないのに。いや、大したものではないからこそ、常に恐怖がまとわりついていて苦しいのか。

(……今夜は、誰だろう)

 シャワーを止めて、髪を洗う。考えないようにしていた問いが浮かぶ。セト、ティアときたのだから、イシャンかサクラになるのか。毎晩誰かの相手をさせられるのだろうか。正確に言えばティアは挿入しなかったから、セトの相手しかしていないと言えなくもない。そして、日中は自由にしてもらえるだけ(セトに襲われそうになったけれど)ありがたいのか。

 胸にひろがる吐き気を抑えこむ。自分の境遇は悪くないと思おうとしたのに、うまくいかない。この世界で目覚めてからずっと、夢の中にいるかのように感覚がどこか麻痺まひしている。夢からめたときみたいに、全部なかったことになるのではないかと。そんな期待と、これは現実なのだという冷静な自分がぐるぐると混濁している。

 私は、誰なのか。何者なのか。もっと不安になるべきなのに、だんだんと気にならなくなってきていることも怖い。この身体も思考も、残っている記憶でさえも、自分のものではない気がする。借りものの身体に魂だけ入り込んだみたいな違和感。わたしは、私じゃない。それだけが、時間とともにはっきりしてくる。
 本物の私はどこにいるのだろう。こんなあやふやな状態がいつまで続くのだろう。この世界になじむごとに、それらの疑問を追求する気持ちが消えていく。私が誰であるか、興味がなくなっていく。それよりも、ここでこうして生きていくしかないのだろうか——という危機感のほうが強い。自分の中身よりも、外側の問題だ。自分自身のことを何も知らないのに、その身体を誰かに触られるのが怖いなんて、おかしいだろうか。けれども、本当に、“私が誰であるか”よりも、“今夜は誰の相手をしなければいけないのか”のほうが、今の私には、はるかに重要だった。

 しかし、思う。人は自分をなくしたまま生きていくなんて、できるのだろうか。それは、もう——

 ——コンコンコンコン。

 思考をさえぎるように鋭い音が聞こえた。跳ねた心臓をなだめるように、胸に手を当てる。誰かがドアをノックしたのか。

「おい、大丈夫か」

 ドア越しにセトのくぐもった声が届いた。硬直したまま返事もできずにいると、ドア横の知らないボタンが点灯する。小さく機械音が鳴り、

「大丈夫か? 随分と静かだけどよ……生きてるよな?」

 かすかなノイズに重なって、セトの声が空間に響いた。点灯したボタンの上部に小さな穴が複数空いている。外と会話できるマイクのようだ。
 まさか彼も入ってくるのだろうか。初日のことを思い出して怖くなったが、落ち着いて考えると声の雰囲気が違う。

「おい、ウサギ!」
『はいっ』

 私の名前(だと思う。ティアとセトで呼び名が違う)が聞こえて、条件反射で返事をした。思わず私のほうの言語で。セトは黙ってしまい、怒らせたかと心配になる。「無事ならいい」何か短く言い切られたかと思うと、プツリとノイズが途絶えた。

 入って来ない、とは思うのだけれど。なんの保証もないのでなるべく急いで泡を洗い落とし、ティアに教わった乾燥モードで水分を吹き飛ばす。長い髪は直接風向にさらしつつ、乾き終えた肌に服をまとった。黒のシンプルな長袖のトップス。ぎりぎり下半身も隠れる。ショーツは相変わらず本来の役目を成していない布きれでしかないが、人として穿かないわけにもいかないので、身に着けておく。トップスがずり上がらないように裾を引っ張りたいが、他人の服だと思うと乱暴はできない。なるべくそっと押さえておく。
 乾燥のための風向をひとつ外し、ホースのように伸びるそれをドライヤーのように髪の地肌にあてて、ある程度髪が乾いたのを確認し、ドアを開けた。すると、そばの棚に腕を組んで寄りかかっていたセトが、あわてて飛び出てきた私の顔を見て「そんな急ぐ必要ねぇよ」ばつが悪いような声で呟いた。怒ってはいないようだった。次に入るからとかされていた感じでもない。

「ティアが戻って来たから、服のうしろ結べねぇんじゃねぇかって、思っただけで……」

 棚にあずけていた背を起こしながら、私の姿を見てセトが言葉を切った。片眉が上がる。その表情だけで分かってしまった。

「お前それ、俺の服じゃねぇか?」

——これ、セト君の服だけど使ってね。

 ほがらかな声の持ち主が頭に浮かぶ。セトに内緒で貸し出したのは、表情と目線を見るかぎりもう間違いない。なぜ、そんな火種になることを。

『…………あの、』
「…………」
『…………あの、これは、』
「いや、いい。どうせティアが出したんだろ」

 説明しようとしたが自分のほうの言語しか出てこない。はあ、と大きく息を吐くセトは怒っているというよりも、あきれているように見える。申し訳なくなって、ティアに教わった謝罪を口にした。

「ゴメン、ナサイ」
「……お前は謝る必要ねぇよ」

 目を伏せた私の頭にセトの手が伸びてきたので、たたかれるのかも、と身構えたが、衝撃はこなかった。代わりに、くしゃりと髪を触られ、

「髪、乾いてるな。……一昨日は悪かったな。れたままにしちまって」

 なぜか、セトの口からも謝罪に似たワードが聞こえた。昼間ティアから教わったのは否定形や謝罪の言葉。それから感情をあらわす形容詞と体のパーツ。食べ物の単語もいくつか。セトの言葉で聞き取れたのは〈髪〉と〈悪い〉だ。けれど、洋服を借りているのは私なのに、髪について悪いと言っているのがよく分からない。聞き違いだろうか。

「……せと」
「ん?」
「せと、は、おこって、ナイ?」
「は? ……まぁ、怒ってねぇけど」

 髪から離れないセトの手は気になるが、内心だけでほっとした。服を無断で使ったことを怒っていないのなら何よりだし、そしてそれなら、謝罪よりも適切な言葉を知っている。

「アリガトウ」

 ——ありがとう。ただの音の羅列なのに、口にするにしても聞くにしても、こんなに大事な言葉はない気がする。言葉は意思疎通のために大切だが、こうして気持ちをやりとりできることが、不安定な精神をなぐさめて安らぎをくれる。

 できることならずっと、怖いことや、嫌なことには目をふさいでおきたい。外の世界についてや化け物のような生物のこと。考えてしまえば、私は逃げ道をなくしてしまう。小さな感謝だけをいくつも拾いあげて心に残しておけば、この生活にだって耐えられるはず。
 殺されるわけではないし、食事だって提供してもらえる。彼らは決してひどいひとたちではない。
 ——そう、思い込まなくては。
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