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Chap.3 鏡の国の

Chap.3 Sec.4

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「ただいま」

 記憶にある言葉が耳に届いた。ティアとの学習を中断して振り返ると、外から帰ってきたイシャンがいた。

「おかえり~」

 ティアが返す言葉もまた、同じように記憶にある響き。ディスプレイの前にいるセトも、イシャンの気配に気づいて「おかえり」頭に装着していたヘッドフォンのような物をとって振り向いた。
 私だけ黙っているのも変な気がして、「……おかえり」なるべく目立たないよう、ひかえめに返す。しかし、思いに反してイシャンと目が合い、じっと見つめられた。……なんだろう。不安な気持ちで見返していると、イシャンは背負っていたリュックのような物から厚みのある袋を取り出した。

「……靴を、見つけた。合うか分からないが……使えるかも知れない」

 袋を開けて、落ち着いたトーンで話しながら出したのは、小ぶりなシューズだった。つるつるとした撥水はっすいの良さそうな素材で縫い目がなく、スニーカーと革靴の間のような見た目だった。ひょっとして、いやひょっとしなくとも私のための靴だろうか。彼らはこの車に乗るとき脱いでいるので気にしていなかったが、私だけ靴を所持していない。車に乗るのに靴を脱ぐのは変わっていると思っていたが、中は家のような空間だったのでそういうものかと納得していた。しかし、考えてみると靴を脱ぐ習慣は異国ではめずらしいのかも……。

「……要らないだろうか?」

 靴を見つめたまま考え込んでいると、イシャンに問われた。靴を引っ込めようとするので、あわてて両手を出し受け取る。見た目よりもずっと軽い。

「アリガトウ」
「……ああ」

 ふと視線を感じて、表情にまったく変化のないイシャンから、ディスプレイの前に座るセトへと目線をずらした。しかし彼は私たちを見てはいない。彼が見ているのは、私の背後だ。眉間にしわを寄せて唇を小さく動かしていた。視線の先をたどってティアの方に向き直ると、苦笑している彼が肩をすくめている。その表情は、私の視線に気づいてすぐに消えた。

「——イシャン君、靴なんてどこにあったの?」
「子供の感染者と……遭遇した」
「えっ、感染者からとったの?」
「……何か、問題あるだろうか?……消毒は済ませてあるが」
「まぁ……うん、いいんじゃない? そもそも履けるのかな。サイズ合う?」

 ティアの言葉を聞いたイシャンが、座っていた私をイスごとぐるりと彼自身の方へ向けた。何事かと硬直する私の手から靴を取ると、目の前にひざまずいて私の足を手に取り、

「……少し、大きいか」

 そっと靴に差し込んだ。イシャンの行動に理解が及ぶまで、完全に固まったままだったが——物語のなか、サイズを確認するためにガラスの靴を履く女性たちのシーンが、ぽんっと脳裏に浮かび、

『じっ、自分で履けます』

 うろたえながらも残りの靴を取り返して、自分の足を差し入れた。隙間があるが、履けないことはない。サイズよりも素足であることが気になるのだけれど、靴下も欲しいなんて言えない。

「うん、履けちゃうね。ゆるそうだけど」
「……ひもで締めれば、問題なく使える」
「そうだね。……うん、よかったね、アリスちゃん」

 席を立って近くに来ていたティアが、私の肩をトンっと優しくたたいた。

「——でも、今はとりあえず、こっちに置いておこうね?」

 ティアが指さした棚の中に、両靴ともそろえて片付けていたところ、ティアに寄ったセトが背後でボソボソとしゃべっているのが聞こえた。

「靴はやめろって話じゃなかったか」
「ね、イシャン君が持ってきちゃったね~?」
「なんでイシャンにも言っておかねぇんだよ」
「まさか彼が持ってくるとは思わなくて」
「この場合、最悪あいつが逃げたとしても誰も悪くねぇよな? 勝手に逃げるんだしな?」
「どうだろう? サクラさんの機嫌しだいでは連帯責任もありえるんじゃない?」
「はぁ? ふざけんな。捨てろ、今すぐ」
「僕は無理。イシャン君の優しさを踏みにじれない。セト君が言ってよ」
「……嫌だ」
「……ま、そこまで心配しなくても、あの子は逃げないと思うよ?」
「ほんとだな? お前が言うんだから間違いな」

 私の存在を忘れたように内緒話をしているふたりだったが、キッチンへと消えていたイシャンが戻ってきた途端、会話をぶち切って沈黙した。
 変な間があってから、ティアがニコッと不自然に笑って、

「サクラさん、まだベッドかな? ハウスに戻る話をしたいから、呼んでくるね」

 どうやらサクラに用があるらしく、寝室へと行ってしまった。残されたセトにイシャンが声をかける。

「……今日は、すまなかった。……明日は、私が残る」
「いや、別にいいんだよ。ティアが悪いんだからな。サクラさんもベッド行っちまったし」
「……サクラさんが、こんなに長く眠っているのは……珍しいな」
「そういえばな」

 ふたりの会話を聞いていると、もて余したように立っている私が気になったのか、セトに「そんなとこ突っ立ってねぇで座ったらどうだ」私が着席していたイスを指さされた。イスに座ったところでやることはない。残っていたお茶をすすっておく。

 セトはソファに腰掛けようとしたが、何か考えたように私の隣に座った。まさか隣に来ると思わなかったので、気おくれしてほんの少しだけ身を固くしてしまった。イシャンもセトと向かい合うように着席したので、話し合いでもするのだろうか。

「サクラさん連れてきたよ~」

 かろやかな声を伴ってキッチンから現れたティアの後ろには、サクラがいた。全員の視線を受け止めながらソファに腰を下ろし、

「私を起こすとは、いい度胸だな」

 気だるげな青白い顔を縁取る、長めの黒髪を無造作に払い、サクラは静かな怒りをたずさえた声で囁いた。セトとイシャンが、それを聞いて心なしか青ざめた気がする。ふたりとも濃さは違えど褐色の肌のせいか、顔色が読みにくい。
 ティアだけが気にせず呑気のんきにサクラと会話し始めた。

「ごめんね? ほんとに眠ってると思わなくて……」
「カプセルに入っていたら、大概の人間は眠っているんだがな」
「そうだよね~……うん。僕が悪かったからさ、そんな怖い顔しないで。サクラさんキレるとみんな困る……じゃなくて、ほんと悪かったね?」

 ティアがてのひらを胸に当てて、申し訳なさそうにしょんぼりしている。サクラはどうやら寝起きで機嫌が悪いらしい。なにを言っているか分からないが、話し方がぞんざいだった。余計な火種にならないよう、気をつけなければ……。

「——それで、用件は?」

 口角を上げて微笑を作りあげたサクラが、頭を傾けて全員をぐるりと見上げた。目が笑っていない。その顔は整いすぎているがゆえに恐ろしい。

「ん? えっとね、なんかほら……そろそろハウスに戻ってもいいんじゃないかなって。ね、セト君」

 ティアに名を呼ばれたセトが「俺に振るな」音にならない声でつぶやいたが、サクラの目がセトに向いたことで、逡巡しゅんじゅんするような間があったあと、会話に加わった。

「この辺は感染者も少ねぇし、もう調べる必要はないんじゃねぇか……? 俺は別に、予定どおりまだいても構わねぇけど」
「え! 僕帰りたいんだけど。セト君も帰りたいって言ってたでしょ?」
「いや言ってねぇ」
「え~……セト君に裏切られた」
「いや裏切ってねぇ」

 淡々と返すセトに、ティアが衝撃を受けたように天を仰いでみせる。セトはそんな姿をうっとうしそうに見ていた。サクラはティアの方を見ずに、イシャンへと視線を投げ、

「お前の意見は?」
「……私は、帰りたいわけではないが……感染者が少なすぎるのは、気になる。……生活している人間がいるのかと思ったが……」

 セトがハッとした。

「あぁ、こいつの前の仲間がいるんじゃねぇか?」

 なぜか私を示した。せっかく気配を消して大人しくしていたのに、サクラと目が合ってしまう。深く青い眼が、私を映したまま細められる。
 サクラが何か話すよりも先に、イシャンがセトに声をかけた。

「……しかし、それらしい痕跡は無かった。古いものならあったが……ここ数日ではない」
「そういや足跡そくせきも見てねぇよな。……たしかに他の人間がいる気配はねぇな」

 会話の内容はまったく聞き取れていない。いたたまれず、視線を下げて手許のカップを見つめる。

 意識を外してしまえば、知らない言語を話す彼らのやりとりはただの音でしかない。真夜中、窓の外を小さくたたく時雨しぐれのように、意識の外側で鳴っている。寄せては返す波に似た、さざめきの音色。そのなかでも、一番高いバイオリンのような声がティアで、サクラの艶やかな声は少し低いビオラの音色。セトとイシャンは更に低い。チェロかあるいはコントラバスか。四重奏カルテットにはならない。それらはみな、代わるがわる単独ソロで、滔々とうとうとメロディーを奏でている。

 私はその音色を、誰のものかも分からない記憶の音楽に重ねて、ただ聞き流すことしかできない。
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