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ある日のメール「僕のこれまでと、これからの夢」
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堀根社長
初めまして。私は二十七歳のフリーター、橋本俊(ハシモト シュン)と申します(ちなみに実家暮らしです)
今回私の夢のスポンサーを担っていただきたく、メールをさせていただきました。
私の夢、それは。
カテゴリー スポーツ、野球
「運動部経験のない一介の貧弱な(身長172センチ 体重54キロ)フリーターの私に、最新スポーツ科学に基づいたトレーニングを施し、球速一五〇キロ突破という奇跡に挑む。
そしてその挑戦の過程を、御社のネット映画配信サービスにて公開する。」
というものであります。
(中略)
堀根社長のプロ野球界新規参入に見せた野球界改革への情熱におおいに感動し、共感し、今回このお話を御社にさせていただいた次第で御座います。
不躾にこのようなメールをして大変申し訳ございませんが、なにとぞ私の夢に、投資をしてくださいますようお願い申し上げます。
橋本俊 様
弊社へのメールありがとうございます。
私はファースト・ドア関連会社 セカンドピクチャー取締役の田辺貫太郎と申します。
橋本様の企画を検討させていただいた結果、(中略)現在九三キロの橋本様の球速がトレーニングで一三〇キロを超えるようでしたらばスポンサー支援を考えようという結論に達しました。(中略)ハンディカムとスピードガンをお貸ししますので、トレーニングと球速の測定の様子を撮影し、こちらに逐次送付してください。(中略)
橋本様のご健闘をお祈り申し上げます。
二〇〇五年三月十五日 田辺貫太郎
セカンドピクチャー御中 田辺様。
リクエスト頂きました「これまでの僕の個人史」を書かせて頂きました。長くなりますが、私のこれまでの逸脱人生のルーツをご覧ください。
橋本俊個人史
小学校四年生くらいまでは、喘息の持病があったこともあり、あまりスポーツというものに積極的になれなかった。というより、二年生ぐらいまで自転車にも乗れなかった。
大体高校生くらいまでは、男子の価値基準とかヒエラルキーは運動神経の良し悪しで決まってしまうものだ。当然そんな中僕はコンプレックスの塊となり、どんどん運動から遠ざかっていく…と思いきや、ちょっとした転機が訪れた。
四年生の時、学校のレクリエーションで出会ったフットベースボール(当時はサッカー野球と呼んでいた)である。「ゲームとしての野球」の面白さに目覚めたきっかけである。
そして五年生の時にテレビで見た「トルネード投法の男」の豪快なピッチング。
フォアボールを出しても、それ以上に三振を奪ってねじ伏せる投球に、僕は目を奪われた。
「速球投手」というカテゴリーへの憧れを強くした瞬間であった。
そして中学校入学…当然野球部入部…といきたかったのだが、自分の体力、運動神経が、同学年の平均値よりかなり劣ってしまっていることに気づいてしまっていた。無理に入って頑張りまくっても、三年間球拾いで報われずに終わることは明白。まだ喘息が悪化する不安はあったし、体育会系的なノリへの根本的な拒絶反応もあった。
それなら個人で好きにやろう。帰宅部トレーニーとして…。
普通とは違う、僕だけの方法論で、腕力、その他の能力に秀でた連中を出し抜く!
これは今でも僕の基本理念となっている。
なんとしても、力をつけたい…運動部のヤツらが考え付かないような方法で…。
片足スクワットや片腕立て伏せ…。バスタオルを使ってのシャドウピッチング…。当時はまともなトレーニングの知識などなかったから、素人考えででたらめな事ばかりやっていた。腕を太くすれば速い球を投げられる、と思っていたから…。
しかし現実の進化は亀の歩み…。公園でバックネット相手に投げていたら、飛び入りで参加してきたサッカー部員の方が遥かに速い球を投げられる…これは惨めなもんである。
そうこうしているうちに高校受験の時期がやってきて…僕は見事に失敗し、滑り止めの私立高校に通うこととなる。
高校一年の時にJリーグが開幕。「野球はオッサンの娯楽」的な風潮が急激に広まりだしたのがこの頃である。僕もクラスの話題についていくべく必死こいて、サッカー雑誌を立ち読みしていた。
振り子打法を駆使する細身の青年が突如として球界の表舞台に現れた時も、正直それほどの感慨は湧かなかった。
野球に対する情熱は萎えかけていた。
でもなぜか、我流トレーニングだけは続けていた。将来に対する漠然とした不安を抱きながら…。
このままいけば、まあどこか大学には入れるだろう。何とか就職したとして、で、その後どうする?
文武どちらにも、自分に特別な才能などないことは判っている。それどころか精神と頭脳と肉体の容量が絶対的に足りない自分が社会に出ても、荒波に呑まれ流されるだけの人生しか待っていない。
人知れず思い悩んでいた所へ、アメリカに渡った「トルネードの男」が旋風を巻き起こしたのである。
球界もマスコミもファンも、皆が当初は懐疑的な中で…。
「そんな怪物揃いの大リーグで通用するわけない」
と僕も思っていた。
それが、日米野球の文化の壁に、風穴を穿つ大活躍…歴史の転換点をリアルタイムで見る思いだった。誰もが崩れないと思っていた常識を、過去の栄光をなげうってまで、ぶち壊して見せた男がいる…。
忘れかけていた想いが、ふつふつと…。馬鹿な、今更ピッチャーのトレーニングなんかやって何になる。まさか今からプロに入れると妄想してるんじゃないだろうな…。
自分の中の「常識人の声」を無視し、受験勉強の合間を縫って、僕はトレーニングに励んだ。
時折ゲームセンターのマシンで球速測定したりしていたが、当初の球速はたった七八キロ。それを受験勉強がひと段落する頃には八五キロくらいまでアップさせていた。
なんとも失笑ものな、低次元の進化だが、当時はそれでも嬉しかった。
晴れて地元の私立大学に進学した僕。しかし硬式野球部はそれなりにレベルが高く、推薦でしか選手を獲らない。まあ僕にとっては、「自分のやりたいジャンルを自分のペースでやる。」という事が重要であったから、いきなり容赦なく淘汰に遭うような体育会系野球部に、この時点で無理に入りたいとは思わなかった。
結局、軟式野球同好会サークルに入ることにした。
ここなら心置きなくピッチャーとしてのトレーニングが…。
出来なかった。
女の子もたまに顔を出すような遊び要素半分のサークルだが、野球をするときはそれなりに真剣だった。そして実力の方も…。メンバーのすべてが硬式野球経験者か、そうでなくても運動部経験あり。みな七五から八五メートル先のバックネットに悠々届かせるくらいの遠投能力を持っている。
要するに「俺ピッチャーやります」などととても言い出せる雰囲気ではなかったのだ。
結局セカンドの控えに回され、慣れないカットプレーでオタオタしたり、たまの代打出場で半分硬直したまま三振したり…ここでは二週間後の試合でもともと持ってる実力を発揮するための練習はしても、自分の身体能力の限界値を高めるためのストレングストレーニングはなされない。
僕何やってんだろうという思いばかりが日々募っていった。一年、二年と貴重な時間が過ぎていく。
これでは駄目だ、僕はどうしたいんだ。自分の意志を通すには、この身体を作り替えていかなければどうにもならない。
大学のジムでウエイトトレーニングに着手。走り込みの量も増やした。
様々なトレーニング理論を独学で吸収した。
同学年の皆がキャンパスライフを満喫している中、ひたすら汗を流した。
三年生に上がった頃、親の会社が倒産。家計を支えるためにアルバイトをフリーター並みにこなさなければならなくなってからは、サークルにも顔を出さなくなった。余った金と時間は当然自分のトレに使った。
三年生の夏を過ぎると、みな「就職」という関門突破に労力を注ぐようになる。
敬語の用法に急に気を遣い出し、テレビ欄以外見なかった新聞を時事問題を知るためと称して真面目に読むようになり自己分析だの企業訪問だのエントリーシートだのといった単語が飛び交い、ファッション誌から出てきたような服装と髪型がスーツと黒い髪と微妙な丈のスカートにとって代わられる。
そんな中、ガイダンスにもセミナーにもろくに参加せず、僕は走っていた。
一九九八年末、時速一〇〇キロの壁を突破。この時の歓喜と言ったらなかった。
よし年明け二月までに、一一〇キロ超えだ!そうすれば軟式投手としての体裁も、かなり整う。
ウエイトトレや走り込みを、僕は倍近くに増やした、
一九九九年二月末までの三カ月間、かつてないほど我武者羅に僕は肉体を追い込んだ。
そしてこの努力は、見事に報われなかった。
球速は上がるどころか下がっていたのである。
そんな馬鹿な!計算上間違いなく一一〇キロは超える筈なのに…ウエイトと走り込みと投げ込みの比率が間違っていたのか?
原因が分ったとしても無駄な事であった。
かなりバイトの時間数を削ってトレーニングしていたので、資金が付きかけていた。そして四年生進級を間近に控え、さすがに進路の件を考えねばならなくなっていた。
時間切れであった。
結局、僕も「自分でしかない自分」になるしかないのか…。平凡すれすれな人生を維持するために、必死こいて好きでもないことをやり続けるのか…。
そんな苦い思いを抱きながら、周囲に遅れること半年。僕はリクルートを開始した。そしていざ始めてみると…自分にできる仕事というものがあまりにも少ないことに気づかされた。
何しろ僕はこの3年間、僕は運転免許以外の資格を、取ろうという姿勢すら見せることは無かったのだ。
周囲がバイトと通常授業とコンパの合間を縫って、様々な資格講座に通っている頃、僕は世界で最も努力効率の悪いスポーツのトレーニングをあてどもなく続けていたのだ。
もっと有意義な三年間の使い方がいくらでもあったよなあ…。何やってたんだほんとに。
実家の家計が苦しく、バイトが忙しかったとは言え、自分への投資的な事はやろうと思えばいくらでも出来た。あれだけトレーニングできてたんだから…。思いっきり痛いじゃないか僕…。
案の定、ただでさえ氷河期と言われていた就活は大苦戦した。
夏が過ぎ、秋になっても、僕のもとに合格通知は来なかった。
一九九九年が暮れる頃…僕はリクルートスーツに袖を通さなくなった。
バイト先のファーストフード店、マイケルバーガーが、契約社員にならできるぞと声をかけてくれたのである。
要するに諦めたわけだが、当時家計を支える為必死にアルバイトに明け暮れていた事情を知る両親は何も言わなかった。
もう一つ…剛速球投手への憧れを捨てきれなかったことも、要因として大きい。就活の失敗を口実に、モラトリアム期間を延ばし、その間にトレーニングに精を出し夢を叶える…。そういうひそやかな野望に、僕は人生を託した。
こうして「夢追いフリーター」としての長いトンネルに、僕は入っていったのである。
以上
二〇〇五年三月二十九日 橋本俊
初めまして。私は二十七歳のフリーター、橋本俊(ハシモト シュン)と申します(ちなみに実家暮らしです)
今回私の夢のスポンサーを担っていただきたく、メールをさせていただきました。
私の夢、それは。
カテゴリー スポーツ、野球
「運動部経験のない一介の貧弱な(身長172センチ 体重54キロ)フリーターの私に、最新スポーツ科学に基づいたトレーニングを施し、球速一五〇キロ突破という奇跡に挑む。
そしてその挑戦の過程を、御社のネット映画配信サービスにて公開する。」
というものであります。
(中略)
堀根社長のプロ野球界新規参入に見せた野球界改革への情熱におおいに感動し、共感し、今回このお話を御社にさせていただいた次第で御座います。
不躾にこのようなメールをして大変申し訳ございませんが、なにとぞ私の夢に、投資をしてくださいますようお願い申し上げます。
橋本俊 様
弊社へのメールありがとうございます。
私はファースト・ドア関連会社 セカンドピクチャー取締役の田辺貫太郎と申します。
橋本様の企画を検討させていただいた結果、(中略)現在九三キロの橋本様の球速がトレーニングで一三〇キロを超えるようでしたらばスポンサー支援を考えようという結論に達しました。(中略)ハンディカムとスピードガンをお貸ししますので、トレーニングと球速の測定の様子を撮影し、こちらに逐次送付してください。(中略)
橋本様のご健闘をお祈り申し上げます。
二〇〇五年三月十五日 田辺貫太郎
セカンドピクチャー御中 田辺様。
リクエスト頂きました「これまでの僕の個人史」を書かせて頂きました。長くなりますが、私のこれまでの逸脱人生のルーツをご覧ください。
橋本俊個人史
小学校四年生くらいまでは、喘息の持病があったこともあり、あまりスポーツというものに積極的になれなかった。というより、二年生ぐらいまで自転車にも乗れなかった。
大体高校生くらいまでは、男子の価値基準とかヒエラルキーは運動神経の良し悪しで決まってしまうものだ。当然そんな中僕はコンプレックスの塊となり、どんどん運動から遠ざかっていく…と思いきや、ちょっとした転機が訪れた。
四年生の時、学校のレクリエーションで出会ったフットベースボール(当時はサッカー野球と呼んでいた)である。「ゲームとしての野球」の面白さに目覚めたきっかけである。
そして五年生の時にテレビで見た「トルネード投法の男」の豪快なピッチング。
フォアボールを出しても、それ以上に三振を奪ってねじ伏せる投球に、僕は目を奪われた。
「速球投手」というカテゴリーへの憧れを強くした瞬間であった。
そして中学校入学…当然野球部入部…といきたかったのだが、自分の体力、運動神経が、同学年の平均値よりかなり劣ってしまっていることに気づいてしまっていた。無理に入って頑張りまくっても、三年間球拾いで報われずに終わることは明白。まだ喘息が悪化する不安はあったし、体育会系的なノリへの根本的な拒絶反応もあった。
それなら個人で好きにやろう。帰宅部トレーニーとして…。
普通とは違う、僕だけの方法論で、腕力、その他の能力に秀でた連中を出し抜く!
これは今でも僕の基本理念となっている。
なんとしても、力をつけたい…運動部のヤツらが考え付かないような方法で…。
片足スクワットや片腕立て伏せ…。バスタオルを使ってのシャドウピッチング…。当時はまともなトレーニングの知識などなかったから、素人考えででたらめな事ばかりやっていた。腕を太くすれば速い球を投げられる、と思っていたから…。
しかし現実の進化は亀の歩み…。公園でバックネット相手に投げていたら、飛び入りで参加してきたサッカー部員の方が遥かに速い球を投げられる…これは惨めなもんである。
そうこうしているうちに高校受験の時期がやってきて…僕は見事に失敗し、滑り止めの私立高校に通うこととなる。
高校一年の時にJリーグが開幕。「野球はオッサンの娯楽」的な風潮が急激に広まりだしたのがこの頃である。僕もクラスの話題についていくべく必死こいて、サッカー雑誌を立ち読みしていた。
振り子打法を駆使する細身の青年が突如として球界の表舞台に現れた時も、正直それほどの感慨は湧かなかった。
野球に対する情熱は萎えかけていた。
でもなぜか、我流トレーニングだけは続けていた。将来に対する漠然とした不安を抱きながら…。
このままいけば、まあどこか大学には入れるだろう。何とか就職したとして、で、その後どうする?
文武どちらにも、自分に特別な才能などないことは判っている。それどころか精神と頭脳と肉体の容量が絶対的に足りない自分が社会に出ても、荒波に呑まれ流されるだけの人生しか待っていない。
人知れず思い悩んでいた所へ、アメリカに渡った「トルネードの男」が旋風を巻き起こしたのである。
球界もマスコミもファンも、皆が当初は懐疑的な中で…。
「そんな怪物揃いの大リーグで通用するわけない」
と僕も思っていた。
それが、日米野球の文化の壁に、風穴を穿つ大活躍…歴史の転換点をリアルタイムで見る思いだった。誰もが崩れないと思っていた常識を、過去の栄光をなげうってまで、ぶち壊して見せた男がいる…。
忘れかけていた想いが、ふつふつと…。馬鹿な、今更ピッチャーのトレーニングなんかやって何になる。まさか今からプロに入れると妄想してるんじゃないだろうな…。
自分の中の「常識人の声」を無視し、受験勉強の合間を縫って、僕はトレーニングに励んだ。
時折ゲームセンターのマシンで球速測定したりしていたが、当初の球速はたった七八キロ。それを受験勉強がひと段落する頃には八五キロくらいまでアップさせていた。
なんとも失笑ものな、低次元の進化だが、当時はそれでも嬉しかった。
晴れて地元の私立大学に進学した僕。しかし硬式野球部はそれなりにレベルが高く、推薦でしか選手を獲らない。まあ僕にとっては、「自分のやりたいジャンルを自分のペースでやる。」という事が重要であったから、いきなり容赦なく淘汰に遭うような体育会系野球部に、この時点で無理に入りたいとは思わなかった。
結局、軟式野球同好会サークルに入ることにした。
ここなら心置きなくピッチャーとしてのトレーニングが…。
出来なかった。
女の子もたまに顔を出すような遊び要素半分のサークルだが、野球をするときはそれなりに真剣だった。そして実力の方も…。メンバーのすべてが硬式野球経験者か、そうでなくても運動部経験あり。みな七五から八五メートル先のバックネットに悠々届かせるくらいの遠投能力を持っている。
要するに「俺ピッチャーやります」などととても言い出せる雰囲気ではなかったのだ。
結局セカンドの控えに回され、慣れないカットプレーでオタオタしたり、たまの代打出場で半分硬直したまま三振したり…ここでは二週間後の試合でもともと持ってる実力を発揮するための練習はしても、自分の身体能力の限界値を高めるためのストレングストレーニングはなされない。
僕何やってんだろうという思いばかりが日々募っていった。一年、二年と貴重な時間が過ぎていく。
これでは駄目だ、僕はどうしたいんだ。自分の意志を通すには、この身体を作り替えていかなければどうにもならない。
大学のジムでウエイトトレーニングに着手。走り込みの量も増やした。
様々なトレーニング理論を独学で吸収した。
同学年の皆がキャンパスライフを満喫している中、ひたすら汗を流した。
三年生に上がった頃、親の会社が倒産。家計を支えるためにアルバイトをフリーター並みにこなさなければならなくなってからは、サークルにも顔を出さなくなった。余った金と時間は当然自分のトレに使った。
三年生の夏を過ぎると、みな「就職」という関門突破に労力を注ぐようになる。
敬語の用法に急に気を遣い出し、テレビ欄以外見なかった新聞を時事問題を知るためと称して真面目に読むようになり自己分析だの企業訪問だのエントリーシートだのといった単語が飛び交い、ファッション誌から出てきたような服装と髪型がスーツと黒い髪と微妙な丈のスカートにとって代わられる。
そんな中、ガイダンスにもセミナーにもろくに参加せず、僕は走っていた。
一九九八年末、時速一〇〇キロの壁を突破。この時の歓喜と言ったらなかった。
よし年明け二月までに、一一〇キロ超えだ!そうすれば軟式投手としての体裁も、かなり整う。
ウエイトトレや走り込みを、僕は倍近くに増やした、
一九九九年二月末までの三カ月間、かつてないほど我武者羅に僕は肉体を追い込んだ。
そしてこの努力は、見事に報われなかった。
球速は上がるどころか下がっていたのである。
そんな馬鹿な!計算上間違いなく一一〇キロは超える筈なのに…ウエイトと走り込みと投げ込みの比率が間違っていたのか?
原因が分ったとしても無駄な事であった。
かなりバイトの時間数を削ってトレーニングしていたので、資金が付きかけていた。そして四年生進級を間近に控え、さすがに進路の件を考えねばならなくなっていた。
時間切れであった。
結局、僕も「自分でしかない自分」になるしかないのか…。平凡すれすれな人生を維持するために、必死こいて好きでもないことをやり続けるのか…。
そんな苦い思いを抱きながら、周囲に遅れること半年。僕はリクルートを開始した。そしていざ始めてみると…自分にできる仕事というものがあまりにも少ないことに気づかされた。
何しろ僕はこの3年間、僕は運転免許以外の資格を、取ろうという姿勢すら見せることは無かったのだ。
周囲がバイトと通常授業とコンパの合間を縫って、様々な資格講座に通っている頃、僕は世界で最も努力効率の悪いスポーツのトレーニングをあてどもなく続けていたのだ。
もっと有意義な三年間の使い方がいくらでもあったよなあ…。何やってたんだほんとに。
実家の家計が苦しく、バイトが忙しかったとは言え、自分への投資的な事はやろうと思えばいくらでも出来た。あれだけトレーニングできてたんだから…。思いっきり痛いじゃないか僕…。
案の定、ただでさえ氷河期と言われていた就活は大苦戦した。
夏が過ぎ、秋になっても、僕のもとに合格通知は来なかった。
一九九九年が暮れる頃…僕はリクルートスーツに袖を通さなくなった。
バイト先のファーストフード店、マイケルバーガーが、契約社員にならできるぞと声をかけてくれたのである。
要するに諦めたわけだが、当時家計を支える為必死にアルバイトに明け暮れていた事情を知る両親は何も言わなかった。
もう一つ…剛速球投手への憧れを捨てきれなかったことも、要因として大きい。就活の失敗を口実に、モラトリアム期間を延ばし、その間にトレーニングに精を出し夢を叶える…。そういうひそやかな野望に、僕は人生を託した。
こうして「夢追いフリーター」としての長いトンネルに、僕は入っていったのである。
以上
二〇〇五年三月二十九日 橋本俊
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