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【6】初恋と発熱(アリシア視点)

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お妃教育はいったん中断ということになったけれどシャーリド王国の件で呼ばれており、やはり今日も王宮に行かなければならない。
会議は午後からということだったので、久しぶりにゆっくりと何もしない午前を過ごした。

出かける前に、料理長によるできたての桃のパイを堪能することができた。
侍女のメリッサが『お嬢様の分として二つ持ってきました!』と、飼い主に獲ってきた鳥を自慢する猫のように出してくれた。
でもあまりゆっくり食べてもいられないので、メリッサにひとつ分けて同じテーブルで食べた。
メリッサはそんなつもりではありませんでしたと小さくなりながらも、料理長自慢のカスタードクリームたっぷりのパイをとても喜んでいた。

子供の頃からずっと付いてくれているメリッサは私より七つ上の姉のような存在だ。
私が何かを学ぶ前と後に、脳に直接甘い物を叩きこむようにお菓子を食べずにはいられないことを、ずいぶんと助けてくれている。
メリッサのおかげでいつも部屋にクッキーを切らしたことがない。
私はそれを食べ続けながら、覚えなければならない本を読むのだった。


***


王宮に着くと、いつも案内してくれる執事がどことなく慌てているように見えた。

「どうかなさいましたか?」

「アルフレッド殿下が少々熱を……。たいしたことはないようですが」

「まあ……。早く回復なさることをお祈りいたします」

執事は私のことを会議が行われる部屋に案内してくれようと歩き出して、途中で急に止まった。

「アリシア様、アルフレッド殿下を見舞っていただくわけにはいかないでしょうか。本日の会議は、殿下が参加できなければ中止となるかもしれません」

「お邪魔しても殿下がご迷惑でなく、お身体に障りがないようでしたら、少しだけ……」

「ありがとうございます、ではこちらに」

熱が出て休んでいるところに私などが邪魔をしたら、アルフレッド殿下は余計に気分を悪くするのでは……と思いながら、つい早足になる。

「こちらがアルフレッド殿下の私室でございます。私は扉の無い続きの部屋におりますのでいつでもお声がけください」

相手が伏せている病人でも、部屋の中に男女を二人きりにしないというマナーを守ってくれることがありがたかった。
この王宮には毎日のように来ているけれど、殿下の私室に入るのはもちろん初めてだ。
いくら殿下が眠っているとはいえ、あまり部屋の中をきょろきょろ見るのは失礼だと思いつつも、ついあちこちに目がいってしまう。
ヴェルーデの第一王子の部屋ならもっと煌びやかでありそうなのに、調度品は飾りの無い落ち着いたものばかりで、カーテンや壁紙も濃い青色がシックでこのセンスは好きだなと思った。

よく考えてみれば部屋の主がキラキラしているのに部屋まで煌びやかだったら眩しくて落ち着かないわ。
このシックな部屋こそが殿下の美しさに似合うのだと思い直してうんうんと小さくうなずく。



壁際にベッドがあり、そこにアルフレッド殿下が横になっていた。
音を立てないように近づくと、静かな寝息を立てている。

眠っているお顔も……綺麗だわ。
ほんの少しだけ眉間にしわを寄せているけれど、それすら美しい。
まるで苦悩を抱えた彫刻みたい。
彫刻だったら私の部屋に置きたいけれど、こんな美しい彫刻があったら胸がいっぱいになってお菓子も食べられないわね……。
前髪が少し乱れていて、いつもと雰囲気が違うところにドキドキしてしまう。

このところ、何かとお忙しいご様子だった。
学業と公務の両立に加えシャーリドの件もあって、熱が出てしまうのも無理もない。
婚約破棄を告げて関係を断ち切りたかった私を引き留めないとならないくらいに、手が足りなくて大変なのだ。
もうこの顔には騙されないと思っているけれど、私なんかの手さえ借りたいくらいに大変なのなら、少しくらい助けて差し上げてもいいと思っている。
この王国を支える公爵家の娘としてあたりまえのことだ。

アルフレッド殿下が担うシャーリドの王太子の饗応役と簡単そうに言うけれど、実際とても荷が重い任務だ。
百人からなる一行に何事も起こらないように、すでに周ってきた他の王国に遜色のないおもてなしをしなければならない。
一行を最初に迎える国であれば物珍しさに何でも喜ばれるかもしれないが、最終訪問地とあってはもう疲れて帰りたい気持ちのほうが強いだろう。
こってりとした歓迎をすればいいわけでもない。

陛下は今回の饗応で、南方国シャーリドだけではなく皇女殿下を差し出す帝国に対しても、ヴェルーデの名を上げると意気込まれている。
そんな重責を第一王子の肩書で支えなければならない殿下なのだ……。

「アルフレッドさま……」

ついその名を口にしてしまう。
婚約破棄と言われてから、お慕いしている気持ちをなんとかちぎって捨てようとしている。
それなのにこうして無防備で弱った殿下を見ていると、ただ傍にいたいと浅ましく思ってしまうのをどうしても止められない。
殿下の額の粟粒のような汗を、静かにそっとハンカチで押さえていく。
冷たい水に浸したほうが気持ちいいのかもと、執事に水を張ったボウルを頼もうと立ち上がりかけたら、手首を掴まれた。

「……アリシア、ここに……」

「殿下、起こしてしまって申し訳ありません」

小声で謝罪をすると、アルフレッド殿下の口元が緩んで笑ったようにみえた。
こんな静かで穏やかなほほえみを至近距離で見てしまっては心臓がうるさい。他のことなら自制できるのに、美しい顔にこんなに弱い自分が忌々しいわ。

「殿下……ではなく、フレディと呼んでくれないか」

急に! 急にそう言われてうるさい心臓がさらに暴れて大変なことになった。
王太子殿下を愛称で呼ぶなど、そんなのまるで婚約者みたいでは?
いや、婚約者のような気はするけれど、でも……。

「親しい方々からそう呼ばれているのですか? それなら私も……」

「いや、誰もそうは呼ばない。許していない」

「え?」

「はは……君のその『え?』という驚き、この前からなかなか気に入っているんだ。いつも何も見せないようにしているのに、一瞬だけ本当のアリシアが見えるようで」

「殿下……?」

「殿下、ではない、フレディだ……」

小声とはいえ、たくさん喋ったからかアルフレッド殿下の声が途切れがちになる。
少し眠ったほうがいいような気がする。
さっきから妄想めいたことを言うほど意識が低下しているようだった。
妄想ならば少し付き合ってあげてもいいかしら……。

「では、その……フレディさま。少しお疲れのようなので、お休みになってください」

「いいね……もっと呼んで欲しい」

「そっ、そういうのは誤解される言葉ですので、本当にもうお休みになってください」

そんな綺麗な顔でまつ毛を伏せて優しそうに微笑みながら言っていいセリフではないと、夢の中で全世界の人から説教されるといいわ……。
具合が悪いせいで混濁している殿下の言葉だとしても、こちらにもいろいろ都合があるの。
夜着姿で乱れた前髪で、少し弱った美しい人の至近距離にいるというのは、私の歴史上初めてのことなのだから!

「なんか久しぶりに、モヤモヤしたものがここに無くて、気分がいい」

「ご気分がいいと伺って安心いたしました。どうぞごゆっくりお休みください、お目覚めの頃にはさらに良くなっていらっしゃると思います……そろそろ失礼いたしますわ」

「そうか……今日はすまなかった」

いいえ、なんて言うとまるで恋人同士が帰り際に別れを惜しんでいるみたいなやりとりが続いてしまいそうなので、綺麗な顔に背を向ける。

なんかこう、ぎゅっと胸を掴まれているような苦しみを感じる。
もしかして調子に乗って近寄り過ぎて私にも殿下のお熱が移ってしまったのかしら……。
いつもは頭の中がすっきり片付けられているのに、なんだかぼんやりしている。

目を伏せているアルフレッド殿下から離れがたい。
もう少しこの美しい顔を見ていたいような……。
もう一度フレディ様とお呼びしてみたいような……。

でもそういうわけにもいかない、殿下にはゆっくり眠っていただきたい。お熱があるとはいえ、せっかく身体を休められる機会を邪魔してはいけない。
何かを断ち切るようにゆっくりとお傍を辞し、すぐ近くに居るという執事に小さく声を掛けた。

「あの、私はこれで失礼いたします」

「かしこまりました。アリシア様、やはり本日の会議は取りやめとなりました。馬車までお見送りいたします」

「はい、ありがとうございます」

「会議の日程につきましては、また追ってのご連絡になると存じます」

ということは、アルフレッド殿下が寝込んでいらっしゃる間は何もしなくていいということかしら。
やっ……た、と言いそうになって慌てて口元を押さえる。
殿下のご体調が悪いことを喜んでいるみたいで、それは最低だった。


「こちらは今日の会議の後にお出しするはずだったお菓子です。よろしければお持ち帰りください」

「ありがとうございます、嬉しいです。いただきます」

丁寧に包まれた菓子を執事から受け取ると、バターの甘い匂いが鼻先をくすぐった。
今日の王宮への用事は私にとって、束の間の休日の延長のようだったわ。


***


馬車に揺られながら、またいろいろと考える。
どうして執事は私をアルフレッド殿下のお部屋に連れていったのか、そこのところが実はよく分からない。
第一王子の私室というのは機密事項なのではないだろうか。

いくら婚約者といえども、そこに伏している第一王子というのは弱っているところを晒しているようなもので、私が刺客だったら大変なことになったかもしれないのに。
もちろんお部屋の中には、終始無言の護衛騎士が控えていた。
それにどちらかというと、無防備な殿下こそが無意識に私をザクザク刺しにきていたけれど。
美しいお方が弱っているというのは大変よくないということがよくわかった。
見舞っているはずの私なのに、胸が苦しかった……。

そしてまたひとつ、考えなければならないことが増えた。

頭のノートに『執事の思惑は?』という文字を書き込んだ。
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