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11)向き合う二人
しおりを挟むエレノアが奥の部屋にこもって、どれくらいの時間が経っただろう。
ずいぶん時間が過ぎた気もするし、つい先ほどのことのようにも思える。
これまでエレノアからも自分の気持ちからも逃げていた。
問題を棚に上げ、横に置き、明日へ先送りにし続けてきた。
面倒なことは明日の自分がきっとどうにかしてくれる、そんなふうに思っていた。
その挙句に、何も考えることなく婚約を白紙にと伝えることが、自分がラクになるための解決方法なのだと壮大に間違った。
もうこれ以上逃げることはできない。
自分のしでかしたことと向き合わなければ、この先僕は僕でいられない。
逃げることができないのではなく、逃げたくないのだ。
ソファから立ち上がって歩いていき、扉にそっと触れる。
「エレノア、僕の話を聞いてほしいんだ。身勝手だけど、どうか聞いてくれないか」
中からは何の応えもない。
しばらくエレノアが何か言ってくれるのを、扉を開けてくれるのを静かに待った。
エレノアはベッドに突っ伏しているのだろうか。
腰を下ろしてうな垂れているのだろうか。
フィンリーは折れている足と杖を投げ出して、扉の横の壁にもたれて座り込む。
たとえエレノアが聞いてくれていなくても、エレノアのために……いや、自分のためにゆっくりと話し始めた。
どこから話したらいいものか……。
ずっと認めることができなかったが、僕は君に嫌われていると思っていた。
すれ違っても君に目を伏せられて、そのたびに僕は恥ずかしいようないたたまれないような気持ちになって、頭がかっと熱くなった。
そもそもどうして僕たちは話さなくなってしまったのか。
君から話しかけられなくなったのが先か、僕が話しかけなくなったのが先か。
入れ替わりによって、僕の身体のエレノアが話す僕の声に違和感が大きくて、そのことで思い出した。
……先に話しかけなくなったのは僕だった。
学園に入ったばかりの頃、僕は声がうまく出せなくなった。
自分の声が自分のものではないように感じた。
低いしわがれた声になってしまったのに急に調子がはずれた高い声に裏返ってしまう。
周囲の大人にはニヤニヤされ、友人たちからは笑われた。
大人になった今は、それが変声期で男なら誰にでもあることだと分かっているが、同級生の誰よりも早くやってきたからそのときは知らなかった。
家の者たちも、別にニヤニヤと面白がっていたわけではなく、ただカートフォード家の嫡子が大人になったのだと単に思っていたのだろう。
でもそのときの僕は何も分からなかった。
身体は大人になりつつあったのに、心がそれに追いついていなかったんだ。
急に気持ち悪い声になって君になんと思われてしまうのか、それが怖くて話しかけるのをやめた。
自分から話しかけることをしなくなったのに、君からも話しかけられないことで生まれた淋しさと恥ずかしさと少しの怒りを混ぜた小さな雪玉が坂道をどんどん転がって、いつしか自分を圧し潰すほどの大きさになってしまった。
しばらく経って急に声が裏返ったりすることが減り、自分の声に慣れていっても君と話さなくなったのはそのままだった。
一緒にいる友人や友人を装った者たちの手前、君が僕を気にしていないのではなく僕が君を気にしていないのだという態度に変えていった。
そんな僕の態度は、周囲の者たちがエレノアへの態度を僕に合わせてもいいと思わせてしまうことに、
浅はかな僕は気づいていなかった。
ちっぽけな自分のプライドを守ろうとして、君を守ろうとすることはなかった。
挙句に、婚約を白紙にと君に伝えたら僕はラクになれるのだと大きな勘違いをした。
そんな少しの息のしやすさを求めて、育ち過ぎた雪玉に潰されることを恐れて、あの日あの場所で婚約を白紙にしたいと言ってしまった。
互いの家のことなどまるで考えていなかった。
そのくせ自分の本当の心すら僕には見えていなかった。
人からどう見られているかということだけを恐れ、そこだけを必死で整え、僕の心が本当は何を求めているのか、それに向き合おうとしなかった。
そんな僕があの時エレノアと入れ替わって、自分を外側から見ることになった。
必要に迫られて、君とたくさん話すことができた。
幼かった頃のように、長年の友人のように、何も気取ることなく君と話すことができて僕は、本当は自分が何を求めていたのかを初めて意識することができた。
僕は君と、ただ一緒にいろいろなことを共有したかった。
自分からはできないくせに君に笑いかけてほしかった。
エレノアのことをもっと知りたい。もっと話したい。
エレノアの好きなものを知りたい。
君が何に胸を躍らせるのか、どんなことが嬉しいのか、何が君を悲しくさせるのかを知りたい。
少しでも長く一緒にいたい。いろいろなところに出かけたりしたい。
君を街に連れ出して、君のしたいことを一緒に楽しみたい。
そうして笑う君を隣で見ていたい。
簡単なことだったんだ、僕は君のことが──
コトンと中から音がして、扉がゆっくり開いた。
身体が滑り込めるほどだけ開いて扉は止まった。
「……入ってもいいだろうか」
返事はなく、扉がもう少しだけ開いた。
もう少し扉を開けてくれたことを入ってもよいというエレノアの許可だと捉えて、杖を拾うことなく静かにクローゼット部屋に滑り込んだ。
エレノアは反対側の壁を向いてベッドに腰を下ろしていて顔は見えない。
「隣に行ってもいいだろうか」
やはり答えはないが、足を引きずりながらベッドの足元のほうを回ってゆっくりエレノアに近づく。
エレノアは下を向いていて、顔がよく見えなかった。
ひざまずきたいのに、足のせいでそれはできない。
「ごめん、ここに座らせてほしい」
フィンリーは身体ひとつ分離れてエレノアの隣に腰を下ろした。
こんなにたくさん自分のことを考えたのも言葉にしたのも初めてだった。
エレノアに自分のことを分かってほしいと、みっともないほど切実に思っている。
それなのに一番大事で一番言いたいことがまだ言えていない。
大きく息を吸い込んで弾んだ呼吸をなんとか鎮めようとしてもなかなかうまくいかない。
それでも言いたくてしかたがなかった。
胸の中で、言葉が外へ出たくてたまらないという感じにぴょんぴょん跳ねている。
「大事なことを言うところだったんだ。一番大事なことを。
エレノア、僕は君のことが好きだ」
エレノアが驚いたようにこちらを見る。
子鹿を思わせるフォーン色の瞳を大きく見開いて、僕をみつめている。
「……フィンリーさま……」
「僕はこんなに大事なことを君に言えず、ありえないくらい間違った。
君は呆れているだろう。それでも僕はどうしても最初からやり直したいんだ。
もう一度、君に婚約者として認めてもらえるように、できることは何でもしたい」
以前なら考えられないことを言っていると、自分で思う。
こんなふうになりふり構わず何かを求めることなど、これまでにはなかった。
でも今はどうしたってエレノアを失いたくない。
「わたくしも、話してもよいでしょうか……」
「もちろんだ、君の話を聞かせてほしい」
「ありがとうございます。……わたくしも、ずっとフィンリーさまに避けられていると感じていました」
エレノアが静かな声で話し始めた。
お互いの家同士が決めた婚約者というだけで、フィンリーさま自身はわたくしを望んでいないのではと思っていました。
すれ違っても声を掛けられるどころかこちらをご覧になることもなかったので、わたくしはフィンリーさまのご友人たちが『フィンリーさまの婚約者が』と仲間内で言われるのを聞くことで、ああ、わたくしはまだ婚約者なのだなと思っていました。
それならわたくしからフィンリーさまに話し掛ければよかったのに、勇気がありませんでした。
直接フィンリーさまから決定的なことを言われたらと思うと、何も言えなかったのです。
それなのにフィンリーさまのお母さまが臥せっていらっしゃると父から聞けば、フィンリーさまには何も言わずにお見舞いに伺うようなずるい人間でもありました。
双方の家には、わたくしたちの間について何も疑問に思われたくなかったのです。
こんな心のわたくしを察して、フィンリーさまに避けられているのだと……。
理由はひとつではなくこんなふうにいろいろあるのだと、そう思っていました。
自分の声が恥ずかしくて話しかけられない、たったそれだけのことが始まりで、こんなにも遠ざかってしまった。
「エレノアがそう思ってもしかたのない、僕の態度だった。僕が間違ったプライドなど捨てて、ただ君に朗らかに『今日はいい天気だね』とでも言えばよかった。街ですれ違う見知らぬ他人同士の挨拶すらできなかったんだよ、僕は」
「そうしたらわたくしは『そうですね今日は風が心地よいですね』とお返しをして……」
「それに対して僕が『昼は学園の庭で一緒にどうだろう?』と君を誘えたら……。
今さらこんなことを言っても取り返しがつかないが」
虚しさが胸から溢れて部屋の床に溜まり、息をするのも苦しい。
「エレノア、僕の長い言い訳を聞いてくれてありがとう。これからローレンス公に入れ替わりが戻ったことを伝えてくる」
エレノアが、俺のシャツの袖をつまんだ。
「フィンリーさま、あの……。もう一度、言ってもらえないでしょうか」
「え? これからローレンス公に入れ替わりが戻ったことを伝えてこようかと」
「いえ、それではなくて……。先ほどの、一番大事なこと、というのを……」
エレノアが真っ赤になっているのを見て、自分の顔もぶわっと熱くなる。
入れ替わっている間、エレノアが真っ赤になっても恥ずかしそうにしても、すべて俺の顔でしかなくて残念に思っていた。
エレノアの顔で見ることができたらと思っていた、それが今俺の目の前にある。
もう僕は間違わない。
「……エレノア、僕が一番言いたかった一番大事なこと、それは……。
君が好きだ。
何度だって言う、僕はエレノアのことが好きだ。
僕はここまで身体も心も傷つけた君のことを諦めなければと思っていた。
自分から婚約を白紙にしてほしいと言ってしまったのだから。
でも本音を言わせてもらえるなら、最初からやり直したい。
幼かった日からもう一度やり直したいんだ」
エレノアはますます顔が真っ赤になっている。
そしてぎゅっと目をつぶり、エレノア自身のほほを軽く両手で叩いた。
「……あの、最初からではなく……あの日の大階段ですれ違う少し前くらいから、やり直していただけたら……。諦めたくないのは、わたくしも……その……同じなのです……」
エレノアの声が最後のほうは小さくなっていったがしっかり聞き取った。
「……僕を、許すと、そう言ってくれているのだろうか……」
「婚約を白紙にと言った罰で、ビスケットをたくさん食べてもらえたら……」
「エレノア……」
「わたくしもずっと、フィンリーさまをお慕いしておりました。その気持ちは階段から落ちる前も、入れ替わっても、そして戻った今も変わりません……」
我慢できずにエレノアを抱きしめた。
入れ替わっている間に、抱きとめたり肩を貸したりと触れたことは何度かあった。
でも今はそのどの時とも違う、心から愛しいと思いながら、その思いが指先まで満ちたその手でエレノアを抱きしめる。
「店にあるビスケットを全部買い上げてくる。そしてエレノアがいいと言うまで食べて罰を受けたい」
「少しなら、お手伝いいたします……」
肩のあたりに冷たい感触があった。
エレノアの涙が僕の肩に染みているのか。
こぼれる前に掬いとりたいと思ったが、今そんなふうにエレノアの瞳をみつめたら抱きしめるだけでは済まなくなりそうだった。
「御父上に、入れ替わりが元に戻ったと伝えにいかなくてはならないな」
「……父には心配をかけました」
エレノアの体温が離れるのが名残惜しかったがゆっくりと立ち上がる。
杖がないので一瞬ぐらついて、壁に手をついた。
そこに一枚の大きな布が掛けられていた。
真ん中にある、木の実を咥えた鳥の刺繍が目に留まる。
我がカートフォード家の紋章に似ている?
思わずシャツの左胸の、シャツより少しだけ濃い色の糸で刺繍されている紋章に触れる。
目の前の布には『F』の文字が色とりどりに形も大小さまざまに刺繍で描かれていた。
この部屋にずっと居たのに、まったくこれに気づかなかった。
『F』のイニシャルはまさか……。
顔が熱くなるのが自分でも分かって、思わず空いているほうの手で口元を覆う。
エレノアを振り返ると、クッションを抱いてそこに顔をうずめていた。
「これは、もしかしたら……エレノア」
「……今はあいにく……お答えできる者がおりません……」
クッションに顔を押し当てたエレノアのくぐもった声がそう答える。
「それは、残念だな。これはいつ頃の作品なのか製作者に尋ねたかったのだが」
「……たしか……四年ほど前だったと……聞いております……」
「い、意外と古いものなのだな……。この意匠としてFの文字を選ばれた理由などは……」
「……ですから、お答えできる者が……」
「では答えられる人物によろしく伝えてくれないか。あと大好きだと」
エレノアはクッションに顔を伏せたまま何も答えない。耳が真っ赤になっている。
フィンリーはもう一度大きな布の前に立った。
このような大きな布に一針一針、文字や絵柄を描いていくのはどれだけの時間がかかるのだろう。
『F』の文字をこんなにたくさん、葉を絡ませたり文字の先に緑色の花が咲いていたり、ずいぶんと細かく刺繍されている。
もしもエレノアがこのたくさんの『F』を刺繍している間、自分のことを思ってくれていたのだとしたら……。
フィンリーは学園ですれ違うエレノアというほんの一部しか見ていなかった。
何故もっと早く、こんなにも可愛らしい婚約者のことを知ろうとしなかったのか。
戻れるなら過去に戻って自分を張り飛ばしたい。大階段から突き落としたっていい。
「エレノア、ずっとそんなふうにしていたら息苦しいだろう」
そっと髪をなでると、エレノアがゆっくりと顔を上げる。
取り戻した自分の声が、こんなに優しくエレノアの名を呼ぶとは知らなかった。
エレノアのことを何も知らないと思っていたが、自分のことさえよく分かっていなかったと知った。
「何もしていなくても、息苦しいです……」
「それは僕も同じだ。入れ替わりが戻ってからずっと、心臓が壊れそうに速く打っている。
これからもっと互いのことを知っていこう。
でもその前に御父上のところに出向かなくては。少々ローレンス公と二人だけで話したいこともあるんだ」
エレノアはうなずいて立ち上がり、シンプルなドレスの裾と髪を直した。
僕はゆっくり部屋を出て、そこに投げ出した杖を拾う。
エレノアの部屋にもっと居たかったがそういうわけにもいかなかった。
自分には、これからやらなければならないことがあった。
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