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1巻
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第一章
やっぱりなぁ。
俺の座っているテーブルの周りだけ、見事にガランと空いている。みんな遠巻きに見てはいるのだが、誰も側にはやってこない。昼時のゴールデンタイムだというのに、実にいたたまれない。
混雑しているんだから、みんな遠慮せずに座ってほしい。あんな騒ぎを起こした俺はまさに腫れ物なのかもしれないが。一応、こっちは被害者なんだけどなぁ……
そもそも、サフィラスにはあのギリアムのせいで、入学してからそろそろひと月も経とうというのにたった一人の友人もいない。
サフィラスが誰かと話していると、どこからともなくギリアムがやってきて、散々に貶す。そうじゃなければ、下僕のように扱ってみせる。そんなことを繰り返された。どんなにクズだって、相手は侯爵家子息だ。誰もが問題になることを恐れて、たちまちサフィラスに近づく人はいなくなってしまった。
あいつと婚約を解消したからって、すぐに話しかけられるものでもないのだろう。
友人作りはゼロどころかマイナスからのスタートだ。こればかりは気長にやってゆくしかない。
そんなことを考えながら、カフェテリアのランチを一人で食べる。
ここのランチ、なかなかに美味いな。貴族の子息令嬢が通う学院のカフェテリアは、街中の大衆食堂とは提供されるものが全然違う。それに、久々にちゃんと味を感じるから食事が楽しいよ。
というのも、この体は心に相当の負担を抱えていたようなのだ。
なにせ、最近までは何を食べても粘土でも噛み締めているようで、なんの味もしなかったんだから。
これにはさすがの俺も辟易した。美味しく食事ができないって、どんな拷問かよってね。
でも今はだんだん味を感じられるようになってきたので、これからはいくらでも美味しく食事ができる。美味しくご飯が食べられるって、それだけで人生楽しいからね。
結構な犠牲は払ったけれど、厄介者から解放されたことで心の負担がなくなったんだろう。
俺っていう前世が目覚めたのも大きいだろうけど。
それにしても、俺を助けてくれた学院生って一体誰なんだろう。できれば、一言礼を言いたいな。
先生も誰かってことまでは教えてくれなかったし……。名乗り出てくれればいいんだけど、こんな悪目立ちしている俺にわざわざ声をかけるなんて、面倒なことはしないだろう。
「失礼。相席いいだろうか?」
美味しいランチを一人で楽しんでいたら、勇者が現れた。
腫れ物の俺に声をかけるなんて、相当の猛者だな。それとも話題の人物から話を聞き出して、流行りの中心になるつもりだろうか。
それならそれで、その期待に応えることに吝かではないけど。
顔を上げて声をかけてきた生徒を見れば、金髪碧眼の、俺に負けず劣らずの美少年。
もしかしたら俺より年上だろうか。背が高くて、瞬発力の高そうなしなやかな筋肉を身に纏う、いかにも頼り甲斐がありそうな騎士様的容姿。
頼りなげな俺と違って、きっとご婦人方から引く手数多に違いない。なんとも羨ましいことだ。
「もちろん。どうぞ」
「ありがとう」
麗しの騎士様は、流れるような動作で俺の正面の席に着く。
テーブルに置いたのは俺と同じランチプレートだ。だが、その量が全く違う。
載っている肉やマッシュポテトの量が俺のプレートの倍はある。大盛りって注文できるんだな、知らなかった。
「俺は第一学年のパーシヴァル・ベリサリオだ。よろしく」
麗しの騎士様改め、パーシヴァルは爽やかな笑顔を見せる。
なんと、年上に見えた彼は同学年だった。爵位を名乗らないのは、学院で学ぶ学生は皆平等が謳われているから。
名乗らなくても親の爵位が丸わかりな学生もいるけれど、爵位によって学生の中で忖度などがないように、との学院側の計らいだ。
俺は生い立ちのせいで、貴族に関する情報に非常に疎い。建前とはいえ、この校則は実にありがたいものだ。
まあ、ギリアムはそんな事などお構いなしに、親の爵位を振りかざしているがな。
ともあれ、パーシヴァルの爽やかな雰囲気から察するに、俺をからかうために近づいてきたわけではなさそうだ。
これはもしかして友人一人目獲得の足がかりになるかな? 美少年の清々しいオーラが眩しくて直視が憚られるが、俺も負けずに爽やかに対応しなければ。第一印象は大切だ。
「第一学年のサフィラス・ペルフェクティオだよ。こちらこそ、よろしく」
今話題をさらっている噂の学院生だから知っているとは思うけどね。
俺がとびきりの笑顔で自己紹介をすると、パーシヴァルはなぜか少し驚いたような表情を浮かべた。あんな事件を起こして孤立しているのに笑っているんだから、ちょっと怪訝に思うのも仕方ないだろう。
だけど、俺は事件前の『僕』とは違う。これからは楽しく生きてゆくのだ。そう、前世のフォルティスのようにね!
最初こそ互いに相手を窺うような、当たり障りのない会話を交わしていた俺とパーシヴァルだけど、そのうちにそんな空気もなくなった。
それにしても、彼のランチプレートが気になる。山盛りの肉とマッシュポテトはみるみる減ってゆくけれど、品のある食べ方なので全く見苦しくない。
さすが美少年。その所作も洗練されていて、思わず見入ってしまう。
「どうした?」
俺の視線に気がついたパーシヴァルが顔を上げた。
「いや、見事な食べっぷりだと思って……」
「ああ、食べないと体が持たない環境で育ったからな」
と言うことは、騎士系か軍系の家出身か。そういえばパーシヴァルの家名のベリサリオって、どっかで聞いたことがあるな……?
「……あ、もしかしてさ、パーシヴァルって東のヴァンダーウォール辺境伯のご子息だったりする?」
「ああ。そうだ」
「なるほど、納得」
ヴァンダーウォール領は王国の東の国境に接し、魔獣が多く発生する大きな森を有している。そんなやや物騒な土地柄もあって、冒険者も多い。俺も前世で立ち寄ったことがある。
外つ国と魔獣の脅威に常に晒されているヴァンダーウォールの騎士・兵士たちは皆、屈強だった。
そんな猛者が溢れる環境で育ったパーシヴァルも、相当鍛えられているんだろう。
離れに閉じ込められていた俺とは育ち方が違いすぎる。
「ヴァンダーウォールでは長兄と次兄が父を補佐している。俺はここで剣を学び、騎士として家族を支えるつもりだ」
そんな会話をしている俺たちに、遠巻きに座っている学生がチラチラ視線を向けてくる。
確かに悪い方で色々話題になっている俺と、眩しいくらいに貴公子のオーラを放っているパーシヴァルが一緒にいれば、そりゃぁ注目も浴びるだろう。
俺は全く気にしないが、パーシヴァルも気にしないとは限らない。
まだ少し話しただけだけど、パーシヴァルはきっと良い奴だ。彼の迷惑になってしまうのは不本意だから、もう少し周囲が静かになるまでは、友人作りは自重した方がいいのかもしれない。
「……あのさ。今更だけど、あまり俺と一緒にいない方が良いんじゃないか?」
少しだけ声を潜めて、パーシヴァルにそう伝える。
「なぜ?」
「知っているかもしれないけど、俺にはあまりいい噂がないんだ。そんな俺といたらパーシヴァルまで好奇の目に晒される」
俺の中身は百戦錬磨の大人の魔法使いだ。高々子供の陰口や噂話に動じることはない。
それに、友達百人計画は別に学院で達成できなくてもいい。むしろ、厄介な事情を抱えている俺が、貴族しかいない学院でこの目標を達成するのは難しいんじゃないだろうか。
ともかく。あれこれ瑕疵がある俺に、わざわざ声をかけてきてくれた勇者パーシヴァルをこちらの事情に巻き込むのは大変申し訳ない。
「なんだ、そんなことか。サフィラスは俺と一緒にいるのは迷惑か?」
「迷惑なわけないだろ! パーシヴァルはこんな俺に声をかけてくれた勇者だよ」
「勇者、か。サフィラスは面白いことを言うな。だが、サフィラスが心配するようなことは何もない。俺がサフィラスと仲良くしたいと思う気持ちと、周囲の人間の感情は全く関係ないことだ」
そう話すパーシヴァルは爽やかな笑みを浮かべていて、本当に周囲の視線を気にしている様子はない。
その笑顔に、俺の中でもともと高かったパーシヴァルに対する好感度が爆上がりする。その後も、パーシヴァルは俺の心配をよそに最後までランチを共にしてくれた。
二十五歳と十四歳が混在する俺に、純粋な十四歳の少年との会話は成り立つだろうかと実はちょっと心配だったけど、それほど噛み合わないということはなかった。
それよりも、世間から隔離されて生きていたが故に、今の流行りにとことん疎く、俺って田舎者なんだろうかと痛感したダメージの方が大きかった。
その日から、パーシヴァルは俺とランチを共にするようになった。
特に約束を交わしているわけではないけれど、俺が一人でランチを食べていると当たり前のようにパーシヴァルがやってくる。パーシヴァルが先に来ている時も、俺がカフェテリアに入ると声をかけてくれる。
そんなことが数日続くと、周囲も変わった組み合わせに見慣れたのか、好奇の視線は感じなくなった。よかった。俺は気にしないというのは本心だが、ちょっとは落ち着かない気持ちにもなるしね。
それに、俺は食事の時間に重きを置いている。落ち着いて食べられるのが一番だ。
何しろサフィラスは痩せっぽっちで、全く頼りのない体躯をしている。しっかりと食事をして、今からでも成長の巻き返しを図らなければならない。
冒険者を目指すなら、体作りは何より重要だ。こんなヒョロヒョロの体では、野営も山越えも耐えられない。
カフェテリアの食事は、数種類のうちから好きなプレートを選ぶ形式なので、俺はいつも肉がメインのプレートを選ぶ。体を作るためにも肉一択。
パーシヴァルも当然のように肉のプレートを選んでいる。そしてやっぱり大盛り。
山盛りの肉と、同じく山盛りのマッシュポテト。そしてグリーンサラダ。
思わずジトっと見てしまった。毎回これだけ食べたらデカくもなろう。食の細い俺とは格が違う。
「サフィラスはそれで足りるのか?」
「……まぁね」
足りるどころか、長年の一日一食生活で胃が縮んでいるものだから、普通の量を食べるのも一苦労だ。
それにしても、これは負けていられない。この今にも折れそうな小枝のような体付きを一刻も早く何とかしなければ。
「いただきます」
貴族の学校らしくナイフとフォークでの食事だけど、放っておかれていたサフィラスにマナーなんてものはろくに備わっていない。
お行儀は悪いかもしれないけど、俺に必要なのはマナーよりも栄養だ。細かいことは気にせず、早速肉に齧り付く。
「うーん、美味い!」
適度に脂が乗っていて柔らかい。毎日こんなに美味しい食事を三食もいただけるなんて幸せだ。
俺たちは食事をしながら、お互いのクラスの情報交換などをする。ある意味で世間知らずの俺には、何を聞いても「へぇ!」とか「そうなんだ!」とか感心することばかりだ。
「サフィラスは物静かな人物なのかと思っていたが、実際話してみると全く違うんだな」
「そうだった?」
……だろうな。色々目覚めたおかげで、今の中身はほぼ別人だ。
この間までの『僕』は、あらゆるものに怯えて小さくなっているだけのか弱い少年だった。萎縮して、自信がなくて、いつも俯いていたサフィラス。確かにそれも俺なんだけど。
これからの俺は、自分の主張はしっかりとしてゆく。
我慢はしないし、俯きもしない。ましてや自分を恥じたりもしない。
パーシヴァルは心機一転した俺を知っているが、他の学院生は未だにサフィラスを陰気だと思っているはずだ。クラスが違うのでわからないけれど、俺と別れた後パーシヴァルは友人に何か言われたりしていないだろうか。
「あのさ」
「なんだ?」
「俺のせいで、友人に何か言われたりしてない?」
「何かとは?」
「いや、俺って魔力なしだとか言われているし、アンダーソン子息との事件もあっただろ? そのせいで、パーシヴァルまで変なことを言われてたら嫌だなって思って」
もし言われていたら、俺が直接そいつと会ってきっちり話をつけようじゃないか。俺自身は何を言われても構わないが、パーシヴァルを悩ませるようなことを言う奴を放ってはおかないぜ。
「何を言い出すのかと思ったら。前にも言っただろう。俺の気持ちと、周囲の感情は関係ない。俺はサフィラスと仲良くしたいんだ。何よりも、関わりのない者に何かを言われる筋合いはない。それに、サフィラスが心配しているようなことは一切ないから安心してくれ」
パーシヴァルは、はっきりと言い切った。
「そっか……それならよかった」
眩しい。美少年勇者、眩しすぎる。俺は思わず目を眇める。
同じ綺麗な顔なら、パーシヴァルのような容姿がよかったな。サフィラスは少し繊細すぎる。
どう頑張っても冒険者って雰囲気ではない。この細すぎる腕に不安を感じるよ……
ちょっと無理をしたら、ポキっていっちゃうんじゃないか? 俺は魔法使いだから、必ずしも立派な体格じゃなくてもいいんだけど、それにしたって限度がある。
「サフィラス!」
パーシヴァルと和やかに食事を楽しんでいれば、カフェテリアに大きな声が響いた。
おいおい、貴族の子息にあるまじき大声だな。俺は眉間に深い皺を寄せる。
婚約は解消になったし、もう関わることはないと思っていたのに。
当然あいつの声を聞くつもりはないし、応える義理もないので無視を貫く。
「サフィラス! 俺が呼んでいるのに、聞こえないのか!」
ええ、ええ、聞こえませんね。俺は素知らぬ顔でフォークを口に運んだ。
ギリアムが煩くても、肉は美味しい。
「サフィラス! 返事をしろ!」
無視されたことがよほど腹立たしかったのだろう。ギリアムは一層声を荒らげる。
異変を感じたのか、さっきまでさんざめいていたカフェテリアが、水を打ったように静まり返った。
き、気まずい……
だというのに空気も読まず、ズンズンとこちらに近づいてきたギリアムは、掌で乱暴にテーブルを叩く。振動でトレイに載せた食器がかちゃんと音を立てた。
やめてくれないかな。学院生たちの視線がほとんどこちらに向いているじゃないか。
この間までの比じゃないぞ。ようやく好奇の視線が落ち着いてきたというのに、本当にご勘弁願いたい。
俺はお前から解放されて、穏やかな日常を取り戻しつつあるんだ。なぜ放っておいてくれない、などと思いながら俺は黙ってギリアムを見上げる。
「俺が呼んでいるんだぞ! なぜ返事をしない!」
なぜも何も、返事をしたくないからに決まっている。
そんなこともわからないのか、この木偶の棒は。それにしても、昔は顔だけはそこそこ良いと思い込んでいたけど……こうしてパーシヴァルと並ぶと、厨房の裏に捨ててある腐った野菜にも劣るな。
「……何でしょう、アンダーソン先輩」
嫌々答えてやれば、ギリアムが魔物にでも取り憑かれたような顔でぎろりと俺を見下ろす。
今まではギリアム様と呼んでやっていたからね。何か感じるところがあるのだろう。
「婚約の解消など俺は認めていないぞ。いいか、お前からもう一度、俺と婚約を結びたいと伯爵に伝えろ」
この男、馬鹿じゃないのかな。お前と再婚約なんて冗談じゃない。なんで自ら好んであの地獄に戻らなきゃならないんだ? 絶対にありえない。
大体、魔力がないからと自分の子供を男娼扱いするような父親と話なんかするもんか。
「はぁ? 絶対に嫌です。ようやく解放されたのに」
「何だと……? もう一度言ってみろ」
「だから、絶、対、に、い、や、だ、と申し上げているんです。今度はしっかりと聞こえましたか?」
二度と聞き返されないように、一音一音区切ってはっきりと伝えてやった。
「サフィラス! お前ごときが俺に逆らうのか!」
さすがに馬鹿にされたことがわかったのだろう。
憤ったギリアムが、顔を紅潮させて腕を振り上げた。殴って言うことを聞かせようというわけか。
今まではサフィラスをそうやって意のままに操ってきたんだもんな。だけど、お前に俺は殴れない。それどころか、指一本触れることはかなわない。
俺は思わず、ふっと笑ってしまった。ギリアムを見上げたまま動じずにいれば、今まさに振り下ろされようとしていた男の手が、何者かによって止められた。
「アンダーソン先輩、また学院で騒ぎを起こすつもりですか」
ギリアムの腕を掴んだのはパーシヴァルだった。
彼の声が朗々とカフェテリアに響く。
ギリアムのように怒鳴っているわけではないのに、人を従わせる強さがある。これは格の違いだな。
努力もせず、親の家格を自分のものと勘違いしている、外見だけで中身のないギリアムと、努力をして民の見本となる貴族であろうとしている、外見に伴った立派な中身のパーシヴァル。
全く勝負にすらならない。
「……貴様には関係のないことだ」
ギリアムが顔を顰め、パーシヴァルの手を振り払う。
「関係ならあります。サフィラスは俺の友人だ。友人が暴力を振るわれようとしているのを助けるのは当然です」
「友人……だと? ベリサリオはこいつを友人だと言うのか?」
ギリアムはいかにも馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「そうです。サフィラスは俺の友人だ。そもそも、ここは食事をする場で、騒ぎを起こす場ではありません」
正論である。それにしても、上級生相手にここまで言えるパーシヴァルは大した男だ。やっぱり実戦で鍛えてきた人間は違う。
さしものギリアムも、パーシヴァルが相手では分が悪いことを悟ったのだろう。
「……ちっ」
舌打ちをしたギリアムは、俺を睨みつけてカフェテリアを出ていった。
忖度はないと言いつつも、社会の縮図である学院内。ソルモンターナの剣と盾と謳われるヴァンダーウォール軍のことは、ただの冒険者だった前世の俺でも知っていたくらいだ。
故に、ヴァンダーウォール辺境伯家の国内での発言力も、スペンサー侯爵家を上回っていると思われる。
その辺境伯家の子息であるパーシヴァルを蔑ろにできないことぐらいは、あんな奴でも一応理解しているらしい。
とりあえず厄介事は去ったが、恐らくこれで終わりじゃない。あの男、結構執念深いので、今度は俺が一人になったところを狙ってくることは間違いないだろうが……今の俺を相手にそんな騙し討ちはできない。
それよりも問題なのは、ギリアムが再度婚約を結ぶことを望んでいると知ったら、あの父親は間違いなくその方向で動くだろうってことだ。
そんなの冗談じゃない。
これは早いうちに手を打って、実家から逃げる算段を立てた方がいいかもしれない。いざとなればギリアムも父親もぶちのめして遁走だ。あんな家がどうなろうと俺の知ったことではない。
「サフィラス、大丈夫か?」
「……あ、うん。助けてくれてありがとう」
パーシヴァルが間に入らなくても自衛はできたけれど、守ろうとしてくれた気持ちが嬉しかった。
しかも、パーシヴァルは俺を友人とはっきり言ってくれたのだ。俺はこの恩を絶対に忘れない。
受けた恩は倍返し、仇は三倍返し。それが冒険者の心得だ。
「いや、気にするな。しかし、まさかサフィラスがあんな悪役のような顔をするとはな。可愛い顔が台無しだぞ」
思わぬ言葉に、パーシヴァルに視線を向ければ、彼は苦笑いを浮かべて俺を見ていた。
今パーシヴァルは俺を可愛いと言わなかったか? それに悪役だと?
「え? 可愛い? 悪役?」
「アンダーソン子息に言い返していた時のサフィラスは、まるで悪役のような顔をしていた。だが、悪くはなかったな」
「えー……」
可愛いと悪役、正反対のその二つが悪くないって……俺は一体どこに突っ込めばいいのかな。
「サフィラスはなぜ今までアンダーソン子息の言いなりになっていたんだ? 最初からさっきのようにはっきりと拒否していれば、不名誉な呼ばれ方はしなかっただろう」
「不名誉って、ギリアムの男妾? それともペルフェクティオの恥曝しの方かな?」
ギリアムが退場したカフェテリアはまだ少しざわついているけれど、いつもの和やかさを取り戻し始めていて、俺たちの会話は周囲の雑音に溶けた。
「……いや、すまない。いささか配慮が足りなかった」
パーシヴァルが申し訳なさそうな表情を浮かべた。
でも、どちらの呼び名も貴族界隈では有名らしいので、パーシヴァルがそんな顔をする必要はない。
ケイシーが吹聴して回ったせいで、俺の魔力なしは世間では有名な話になっている。
父にとって、由緒正しき魔法伯爵家から魔力なしの人間を出したことは恥であり、由々しき事態だった。決して俺の存在を知られてはならないと必死に隠したせいで、そのことが明るみに出た時、却って俺の噂は面白おかしく広まってしまったのだ。
大体、今まで普通にいた次男が魔力鑑定の後に突然姿を消せば、不審に思われるに決まっている。
予想外に広まった魔力なしの次男を冷遇しているという噂を消すために、父親は侯爵家のギリアムと俺を婚約させた。家格が上の相手だ、決して次男を蔑ろにはしていないという世間に対するアピールでもあっただろう。
しかし世間はそう思わなかった。伯爵は侯爵家と縁を作るために価値のない次男を差し出し、そのおかげでアンダーソン家はなかなか婚約者が決まらない息子の相手を手に入れた、と正しく理解されている。知らぬは伯爵ばかり也、だ。
父に逆らえないサフィラスは大人しくギリアムの言いなりになっていたけど、俺はそんなことは絶対に許さないし、当然、父親の道具にもならない。
「いいよ。そう呼ばれているのは事実だし。だけどこれからはもう、そんな呼び方はさせない。二階から飛び降りて目が覚めたんだ。嫌なことを黙って受け入れる必要はないんだって」
前世を思い出したってことは、黙っておこう。転落しておかしくなったと思われても困る。
「……飛び降りた?」
「うん、ギリアムに襲われたんだ。扉には鍵をかけられていたし、窓から逃げるしかなかった」
「あれは事故じゃなかったのか?」
「侯爵家はそういうことにしたかったんだろうね。まだ十四歳で婚姻もしていない俺を、ギリアムは学院の寮で手篭めにしようとしたんだ。そんな醜聞が世間に知れ渡れば、もともと素行の悪いギリアムはともかく、長女の婚約に支障が出てくるでしょ。でも、おかげで俺はギリアムとの婚約を白紙にできたわけだし。思い切って飛び降りた甲斐はあったよ」
そう、侯爵家には正しく侯爵夫人の血を引くご令嬢がいて、やんごとなきお方の婚約者にほぼ内定している。だからこれ以上の醜聞はごめんなのだ。
「そうだったのか……」
パーシヴァルは一層申し訳なさそうな顔をしたけれど、飛び降りたことで俺には色々と利があったんだ。そんな顔をしないでほしい。
「そういう事情なら、これからは遠慮なくあの男を追い払って良いんだな。あいつのことだ、これで終わりにするとは思えない」
「うん、俺もそう思ってる。でも、火の粉は自分で払うよ。パーシヴァルに迷惑はかけられない」
「友が困っていれば、手を差し伸べるのは当然だろう。遠慮は無用だ」
笑顔のパーシヴァルが眩しすぎて、堪らず目を眇めた。やっぱり美少年の爽やか波動が強すぎる。
これはもう、パーシヴァルを友達認定していいのかな?
誰にも相手にされないペルフェクティオの恥曝しの『僕』に友達が? 本当にいいのかな?
ああ、いいんじゃないか、パーシヴァルは友達だ。
ほんの数日一緒にランチを食べただけ、それだけだって友達になれる。きっかけなんて何でもいいんだ。そう難しく考えるなよ、サフィラス。
困惑している『僕』に俺はそう諭す。
やっぱりなぁ。
俺の座っているテーブルの周りだけ、見事にガランと空いている。みんな遠巻きに見てはいるのだが、誰も側にはやってこない。昼時のゴールデンタイムだというのに、実にいたたまれない。
混雑しているんだから、みんな遠慮せずに座ってほしい。あんな騒ぎを起こした俺はまさに腫れ物なのかもしれないが。一応、こっちは被害者なんだけどなぁ……
そもそも、サフィラスにはあのギリアムのせいで、入学してからそろそろひと月も経とうというのにたった一人の友人もいない。
サフィラスが誰かと話していると、どこからともなくギリアムがやってきて、散々に貶す。そうじゃなければ、下僕のように扱ってみせる。そんなことを繰り返された。どんなにクズだって、相手は侯爵家子息だ。誰もが問題になることを恐れて、たちまちサフィラスに近づく人はいなくなってしまった。
あいつと婚約を解消したからって、すぐに話しかけられるものでもないのだろう。
友人作りはゼロどころかマイナスからのスタートだ。こればかりは気長にやってゆくしかない。
そんなことを考えながら、カフェテリアのランチを一人で食べる。
ここのランチ、なかなかに美味いな。貴族の子息令嬢が通う学院のカフェテリアは、街中の大衆食堂とは提供されるものが全然違う。それに、久々にちゃんと味を感じるから食事が楽しいよ。
というのも、この体は心に相当の負担を抱えていたようなのだ。
なにせ、最近までは何を食べても粘土でも噛み締めているようで、なんの味もしなかったんだから。
これにはさすがの俺も辟易した。美味しく食事ができないって、どんな拷問かよってね。
でも今はだんだん味を感じられるようになってきたので、これからはいくらでも美味しく食事ができる。美味しくご飯が食べられるって、それだけで人生楽しいからね。
結構な犠牲は払ったけれど、厄介者から解放されたことで心の負担がなくなったんだろう。
俺っていう前世が目覚めたのも大きいだろうけど。
それにしても、俺を助けてくれた学院生って一体誰なんだろう。できれば、一言礼を言いたいな。
先生も誰かってことまでは教えてくれなかったし……。名乗り出てくれればいいんだけど、こんな悪目立ちしている俺にわざわざ声をかけるなんて、面倒なことはしないだろう。
「失礼。相席いいだろうか?」
美味しいランチを一人で楽しんでいたら、勇者が現れた。
腫れ物の俺に声をかけるなんて、相当の猛者だな。それとも話題の人物から話を聞き出して、流行りの中心になるつもりだろうか。
それならそれで、その期待に応えることに吝かではないけど。
顔を上げて声をかけてきた生徒を見れば、金髪碧眼の、俺に負けず劣らずの美少年。
もしかしたら俺より年上だろうか。背が高くて、瞬発力の高そうなしなやかな筋肉を身に纏う、いかにも頼り甲斐がありそうな騎士様的容姿。
頼りなげな俺と違って、きっとご婦人方から引く手数多に違いない。なんとも羨ましいことだ。
「もちろん。どうぞ」
「ありがとう」
麗しの騎士様は、流れるような動作で俺の正面の席に着く。
テーブルに置いたのは俺と同じランチプレートだ。だが、その量が全く違う。
載っている肉やマッシュポテトの量が俺のプレートの倍はある。大盛りって注文できるんだな、知らなかった。
「俺は第一学年のパーシヴァル・ベリサリオだ。よろしく」
麗しの騎士様改め、パーシヴァルは爽やかな笑顔を見せる。
なんと、年上に見えた彼は同学年だった。爵位を名乗らないのは、学院で学ぶ学生は皆平等が謳われているから。
名乗らなくても親の爵位が丸わかりな学生もいるけれど、爵位によって学生の中で忖度などがないように、との学院側の計らいだ。
俺は生い立ちのせいで、貴族に関する情報に非常に疎い。建前とはいえ、この校則は実にありがたいものだ。
まあ、ギリアムはそんな事などお構いなしに、親の爵位を振りかざしているがな。
ともあれ、パーシヴァルの爽やかな雰囲気から察するに、俺をからかうために近づいてきたわけではなさそうだ。
これはもしかして友人一人目獲得の足がかりになるかな? 美少年の清々しいオーラが眩しくて直視が憚られるが、俺も負けずに爽やかに対応しなければ。第一印象は大切だ。
「第一学年のサフィラス・ペルフェクティオだよ。こちらこそ、よろしく」
今話題をさらっている噂の学院生だから知っているとは思うけどね。
俺がとびきりの笑顔で自己紹介をすると、パーシヴァルはなぜか少し驚いたような表情を浮かべた。あんな事件を起こして孤立しているのに笑っているんだから、ちょっと怪訝に思うのも仕方ないだろう。
だけど、俺は事件前の『僕』とは違う。これからは楽しく生きてゆくのだ。そう、前世のフォルティスのようにね!
最初こそ互いに相手を窺うような、当たり障りのない会話を交わしていた俺とパーシヴァルだけど、そのうちにそんな空気もなくなった。
それにしても、彼のランチプレートが気になる。山盛りの肉とマッシュポテトはみるみる減ってゆくけれど、品のある食べ方なので全く見苦しくない。
さすが美少年。その所作も洗練されていて、思わず見入ってしまう。
「どうした?」
俺の視線に気がついたパーシヴァルが顔を上げた。
「いや、見事な食べっぷりだと思って……」
「ああ、食べないと体が持たない環境で育ったからな」
と言うことは、騎士系か軍系の家出身か。そういえばパーシヴァルの家名のベリサリオって、どっかで聞いたことがあるな……?
「……あ、もしかしてさ、パーシヴァルって東のヴァンダーウォール辺境伯のご子息だったりする?」
「ああ。そうだ」
「なるほど、納得」
ヴァンダーウォール領は王国の東の国境に接し、魔獣が多く発生する大きな森を有している。そんなやや物騒な土地柄もあって、冒険者も多い。俺も前世で立ち寄ったことがある。
外つ国と魔獣の脅威に常に晒されているヴァンダーウォールの騎士・兵士たちは皆、屈強だった。
そんな猛者が溢れる環境で育ったパーシヴァルも、相当鍛えられているんだろう。
離れに閉じ込められていた俺とは育ち方が違いすぎる。
「ヴァンダーウォールでは長兄と次兄が父を補佐している。俺はここで剣を学び、騎士として家族を支えるつもりだ」
そんな会話をしている俺たちに、遠巻きに座っている学生がチラチラ視線を向けてくる。
確かに悪い方で色々話題になっている俺と、眩しいくらいに貴公子のオーラを放っているパーシヴァルが一緒にいれば、そりゃぁ注目も浴びるだろう。
俺は全く気にしないが、パーシヴァルも気にしないとは限らない。
まだ少し話しただけだけど、パーシヴァルはきっと良い奴だ。彼の迷惑になってしまうのは不本意だから、もう少し周囲が静かになるまでは、友人作りは自重した方がいいのかもしれない。
「……あのさ。今更だけど、あまり俺と一緒にいない方が良いんじゃないか?」
少しだけ声を潜めて、パーシヴァルにそう伝える。
「なぜ?」
「知っているかもしれないけど、俺にはあまりいい噂がないんだ。そんな俺といたらパーシヴァルまで好奇の目に晒される」
俺の中身は百戦錬磨の大人の魔法使いだ。高々子供の陰口や噂話に動じることはない。
それに、友達百人計画は別に学院で達成できなくてもいい。むしろ、厄介な事情を抱えている俺が、貴族しかいない学院でこの目標を達成するのは難しいんじゃないだろうか。
ともかく。あれこれ瑕疵がある俺に、わざわざ声をかけてきてくれた勇者パーシヴァルをこちらの事情に巻き込むのは大変申し訳ない。
「なんだ、そんなことか。サフィラスは俺と一緒にいるのは迷惑か?」
「迷惑なわけないだろ! パーシヴァルはこんな俺に声をかけてくれた勇者だよ」
「勇者、か。サフィラスは面白いことを言うな。だが、サフィラスが心配するようなことは何もない。俺がサフィラスと仲良くしたいと思う気持ちと、周囲の人間の感情は全く関係ないことだ」
そう話すパーシヴァルは爽やかな笑みを浮かべていて、本当に周囲の視線を気にしている様子はない。
その笑顔に、俺の中でもともと高かったパーシヴァルに対する好感度が爆上がりする。その後も、パーシヴァルは俺の心配をよそに最後までランチを共にしてくれた。
二十五歳と十四歳が混在する俺に、純粋な十四歳の少年との会話は成り立つだろうかと実はちょっと心配だったけど、それほど噛み合わないということはなかった。
それよりも、世間から隔離されて生きていたが故に、今の流行りにとことん疎く、俺って田舎者なんだろうかと痛感したダメージの方が大きかった。
その日から、パーシヴァルは俺とランチを共にするようになった。
特に約束を交わしているわけではないけれど、俺が一人でランチを食べていると当たり前のようにパーシヴァルがやってくる。パーシヴァルが先に来ている時も、俺がカフェテリアに入ると声をかけてくれる。
そんなことが数日続くと、周囲も変わった組み合わせに見慣れたのか、好奇の視線は感じなくなった。よかった。俺は気にしないというのは本心だが、ちょっとは落ち着かない気持ちにもなるしね。
それに、俺は食事の時間に重きを置いている。落ち着いて食べられるのが一番だ。
何しろサフィラスは痩せっぽっちで、全く頼りのない体躯をしている。しっかりと食事をして、今からでも成長の巻き返しを図らなければならない。
冒険者を目指すなら、体作りは何より重要だ。こんなヒョロヒョロの体では、野営も山越えも耐えられない。
カフェテリアの食事は、数種類のうちから好きなプレートを選ぶ形式なので、俺はいつも肉がメインのプレートを選ぶ。体を作るためにも肉一択。
パーシヴァルも当然のように肉のプレートを選んでいる。そしてやっぱり大盛り。
山盛りの肉と、同じく山盛りのマッシュポテト。そしてグリーンサラダ。
思わずジトっと見てしまった。毎回これだけ食べたらデカくもなろう。食の細い俺とは格が違う。
「サフィラスはそれで足りるのか?」
「……まぁね」
足りるどころか、長年の一日一食生活で胃が縮んでいるものだから、普通の量を食べるのも一苦労だ。
それにしても、これは負けていられない。この今にも折れそうな小枝のような体付きを一刻も早く何とかしなければ。
「いただきます」
貴族の学校らしくナイフとフォークでの食事だけど、放っておかれていたサフィラスにマナーなんてものはろくに備わっていない。
お行儀は悪いかもしれないけど、俺に必要なのはマナーよりも栄養だ。細かいことは気にせず、早速肉に齧り付く。
「うーん、美味い!」
適度に脂が乗っていて柔らかい。毎日こんなに美味しい食事を三食もいただけるなんて幸せだ。
俺たちは食事をしながら、お互いのクラスの情報交換などをする。ある意味で世間知らずの俺には、何を聞いても「へぇ!」とか「そうなんだ!」とか感心することばかりだ。
「サフィラスは物静かな人物なのかと思っていたが、実際話してみると全く違うんだな」
「そうだった?」
……だろうな。色々目覚めたおかげで、今の中身はほぼ別人だ。
この間までの『僕』は、あらゆるものに怯えて小さくなっているだけのか弱い少年だった。萎縮して、自信がなくて、いつも俯いていたサフィラス。確かにそれも俺なんだけど。
これからの俺は、自分の主張はしっかりとしてゆく。
我慢はしないし、俯きもしない。ましてや自分を恥じたりもしない。
パーシヴァルは心機一転した俺を知っているが、他の学院生は未だにサフィラスを陰気だと思っているはずだ。クラスが違うのでわからないけれど、俺と別れた後パーシヴァルは友人に何か言われたりしていないだろうか。
「あのさ」
「なんだ?」
「俺のせいで、友人に何か言われたりしてない?」
「何かとは?」
「いや、俺って魔力なしだとか言われているし、アンダーソン子息との事件もあっただろ? そのせいで、パーシヴァルまで変なことを言われてたら嫌だなって思って」
もし言われていたら、俺が直接そいつと会ってきっちり話をつけようじゃないか。俺自身は何を言われても構わないが、パーシヴァルを悩ませるようなことを言う奴を放ってはおかないぜ。
「何を言い出すのかと思ったら。前にも言っただろう。俺の気持ちと、周囲の感情は関係ない。俺はサフィラスと仲良くしたいんだ。何よりも、関わりのない者に何かを言われる筋合いはない。それに、サフィラスが心配しているようなことは一切ないから安心してくれ」
パーシヴァルは、はっきりと言い切った。
「そっか……それならよかった」
眩しい。美少年勇者、眩しすぎる。俺は思わず目を眇める。
同じ綺麗な顔なら、パーシヴァルのような容姿がよかったな。サフィラスは少し繊細すぎる。
どう頑張っても冒険者って雰囲気ではない。この細すぎる腕に不安を感じるよ……
ちょっと無理をしたら、ポキっていっちゃうんじゃないか? 俺は魔法使いだから、必ずしも立派な体格じゃなくてもいいんだけど、それにしたって限度がある。
「サフィラス!」
パーシヴァルと和やかに食事を楽しんでいれば、カフェテリアに大きな声が響いた。
おいおい、貴族の子息にあるまじき大声だな。俺は眉間に深い皺を寄せる。
婚約は解消になったし、もう関わることはないと思っていたのに。
当然あいつの声を聞くつもりはないし、応える義理もないので無視を貫く。
「サフィラス! 俺が呼んでいるのに、聞こえないのか!」
ええ、ええ、聞こえませんね。俺は素知らぬ顔でフォークを口に運んだ。
ギリアムが煩くても、肉は美味しい。
「サフィラス! 返事をしろ!」
無視されたことがよほど腹立たしかったのだろう。ギリアムは一層声を荒らげる。
異変を感じたのか、さっきまでさんざめいていたカフェテリアが、水を打ったように静まり返った。
き、気まずい……
だというのに空気も読まず、ズンズンとこちらに近づいてきたギリアムは、掌で乱暴にテーブルを叩く。振動でトレイに載せた食器がかちゃんと音を立てた。
やめてくれないかな。学院生たちの視線がほとんどこちらに向いているじゃないか。
この間までの比じゃないぞ。ようやく好奇の視線が落ち着いてきたというのに、本当にご勘弁願いたい。
俺はお前から解放されて、穏やかな日常を取り戻しつつあるんだ。なぜ放っておいてくれない、などと思いながら俺は黙ってギリアムを見上げる。
「俺が呼んでいるんだぞ! なぜ返事をしない!」
なぜも何も、返事をしたくないからに決まっている。
そんなこともわからないのか、この木偶の棒は。それにしても、昔は顔だけはそこそこ良いと思い込んでいたけど……こうしてパーシヴァルと並ぶと、厨房の裏に捨ててある腐った野菜にも劣るな。
「……何でしょう、アンダーソン先輩」
嫌々答えてやれば、ギリアムが魔物にでも取り憑かれたような顔でぎろりと俺を見下ろす。
今まではギリアム様と呼んでやっていたからね。何か感じるところがあるのだろう。
「婚約の解消など俺は認めていないぞ。いいか、お前からもう一度、俺と婚約を結びたいと伯爵に伝えろ」
この男、馬鹿じゃないのかな。お前と再婚約なんて冗談じゃない。なんで自ら好んであの地獄に戻らなきゃならないんだ? 絶対にありえない。
大体、魔力がないからと自分の子供を男娼扱いするような父親と話なんかするもんか。
「はぁ? 絶対に嫌です。ようやく解放されたのに」
「何だと……? もう一度言ってみろ」
「だから、絶、対、に、い、や、だ、と申し上げているんです。今度はしっかりと聞こえましたか?」
二度と聞き返されないように、一音一音区切ってはっきりと伝えてやった。
「サフィラス! お前ごときが俺に逆らうのか!」
さすがに馬鹿にされたことがわかったのだろう。
憤ったギリアムが、顔を紅潮させて腕を振り上げた。殴って言うことを聞かせようというわけか。
今まではサフィラスをそうやって意のままに操ってきたんだもんな。だけど、お前に俺は殴れない。それどころか、指一本触れることはかなわない。
俺は思わず、ふっと笑ってしまった。ギリアムを見上げたまま動じずにいれば、今まさに振り下ろされようとしていた男の手が、何者かによって止められた。
「アンダーソン先輩、また学院で騒ぎを起こすつもりですか」
ギリアムの腕を掴んだのはパーシヴァルだった。
彼の声が朗々とカフェテリアに響く。
ギリアムのように怒鳴っているわけではないのに、人を従わせる強さがある。これは格の違いだな。
努力もせず、親の家格を自分のものと勘違いしている、外見だけで中身のないギリアムと、努力をして民の見本となる貴族であろうとしている、外見に伴った立派な中身のパーシヴァル。
全く勝負にすらならない。
「……貴様には関係のないことだ」
ギリアムが顔を顰め、パーシヴァルの手を振り払う。
「関係ならあります。サフィラスは俺の友人だ。友人が暴力を振るわれようとしているのを助けるのは当然です」
「友人……だと? ベリサリオはこいつを友人だと言うのか?」
ギリアムはいかにも馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「そうです。サフィラスは俺の友人だ。そもそも、ここは食事をする場で、騒ぎを起こす場ではありません」
正論である。それにしても、上級生相手にここまで言えるパーシヴァルは大した男だ。やっぱり実戦で鍛えてきた人間は違う。
さしものギリアムも、パーシヴァルが相手では分が悪いことを悟ったのだろう。
「……ちっ」
舌打ちをしたギリアムは、俺を睨みつけてカフェテリアを出ていった。
忖度はないと言いつつも、社会の縮図である学院内。ソルモンターナの剣と盾と謳われるヴァンダーウォール軍のことは、ただの冒険者だった前世の俺でも知っていたくらいだ。
故に、ヴァンダーウォール辺境伯家の国内での発言力も、スペンサー侯爵家を上回っていると思われる。
その辺境伯家の子息であるパーシヴァルを蔑ろにできないことぐらいは、あんな奴でも一応理解しているらしい。
とりあえず厄介事は去ったが、恐らくこれで終わりじゃない。あの男、結構執念深いので、今度は俺が一人になったところを狙ってくることは間違いないだろうが……今の俺を相手にそんな騙し討ちはできない。
それよりも問題なのは、ギリアムが再度婚約を結ぶことを望んでいると知ったら、あの父親は間違いなくその方向で動くだろうってことだ。
そんなの冗談じゃない。
これは早いうちに手を打って、実家から逃げる算段を立てた方がいいかもしれない。いざとなればギリアムも父親もぶちのめして遁走だ。あんな家がどうなろうと俺の知ったことではない。
「サフィラス、大丈夫か?」
「……あ、うん。助けてくれてありがとう」
パーシヴァルが間に入らなくても自衛はできたけれど、守ろうとしてくれた気持ちが嬉しかった。
しかも、パーシヴァルは俺を友人とはっきり言ってくれたのだ。俺はこの恩を絶対に忘れない。
受けた恩は倍返し、仇は三倍返し。それが冒険者の心得だ。
「いや、気にするな。しかし、まさかサフィラスがあんな悪役のような顔をするとはな。可愛い顔が台無しだぞ」
思わぬ言葉に、パーシヴァルに視線を向ければ、彼は苦笑いを浮かべて俺を見ていた。
今パーシヴァルは俺を可愛いと言わなかったか? それに悪役だと?
「え? 可愛い? 悪役?」
「アンダーソン子息に言い返していた時のサフィラスは、まるで悪役のような顔をしていた。だが、悪くはなかったな」
「えー……」
可愛いと悪役、正反対のその二つが悪くないって……俺は一体どこに突っ込めばいいのかな。
「サフィラスはなぜ今までアンダーソン子息の言いなりになっていたんだ? 最初からさっきのようにはっきりと拒否していれば、不名誉な呼ばれ方はしなかっただろう」
「不名誉って、ギリアムの男妾? それともペルフェクティオの恥曝しの方かな?」
ギリアムが退場したカフェテリアはまだ少しざわついているけれど、いつもの和やかさを取り戻し始めていて、俺たちの会話は周囲の雑音に溶けた。
「……いや、すまない。いささか配慮が足りなかった」
パーシヴァルが申し訳なさそうな表情を浮かべた。
でも、どちらの呼び名も貴族界隈では有名らしいので、パーシヴァルがそんな顔をする必要はない。
ケイシーが吹聴して回ったせいで、俺の魔力なしは世間では有名な話になっている。
父にとって、由緒正しき魔法伯爵家から魔力なしの人間を出したことは恥であり、由々しき事態だった。決して俺の存在を知られてはならないと必死に隠したせいで、そのことが明るみに出た時、却って俺の噂は面白おかしく広まってしまったのだ。
大体、今まで普通にいた次男が魔力鑑定の後に突然姿を消せば、不審に思われるに決まっている。
予想外に広まった魔力なしの次男を冷遇しているという噂を消すために、父親は侯爵家のギリアムと俺を婚約させた。家格が上の相手だ、決して次男を蔑ろにはしていないという世間に対するアピールでもあっただろう。
しかし世間はそう思わなかった。伯爵は侯爵家と縁を作るために価値のない次男を差し出し、そのおかげでアンダーソン家はなかなか婚約者が決まらない息子の相手を手に入れた、と正しく理解されている。知らぬは伯爵ばかり也、だ。
父に逆らえないサフィラスは大人しくギリアムの言いなりになっていたけど、俺はそんなことは絶対に許さないし、当然、父親の道具にもならない。
「いいよ。そう呼ばれているのは事実だし。だけどこれからはもう、そんな呼び方はさせない。二階から飛び降りて目が覚めたんだ。嫌なことを黙って受け入れる必要はないんだって」
前世を思い出したってことは、黙っておこう。転落しておかしくなったと思われても困る。
「……飛び降りた?」
「うん、ギリアムに襲われたんだ。扉には鍵をかけられていたし、窓から逃げるしかなかった」
「あれは事故じゃなかったのか?」
「侯爵家はそういうことにしたかったんだろうね。まだ十四歳で婚姻もしていない俺を、ギリアムは学院の寮で手篭めにしようとしたんだ。そんな醜聞が世間に知れ渡れば、もともと素行の悪いギリアムはともかく、長女の婚約に支障が出てくるでしょ。でも、おかげで俺はギリアムとの婚約を白紙にできたわけだし。思い切って飛び降りた甲斐はあったよ」
そう、侯爵家には正しく侯爵夫人の血を引くご令嬢がいて、やんごとなきお方の婚約者にほぼ内定している。だからこれ以上の醜聞はごめんなのだ。
「そうだったのか……」
パーシヴァルは一層申し訳なさそうな顔をしたけれど、飛び降りたことで俺には色々と利があったんだ。そんな顔をしないでほしい。
「そういう事情なら、これからは遠慮なくあの男を追い払って良いんだな。あいつのことだ、これで終わりにするとは思えない」
「うん、俺もそう思ってる。でも、火の粉は自分で払うよ。パーシヴァルに迷惑はかけられない」
「友が困っていれば、手を差し伸べるのは当然だろう。遠慮は無用だ」
笑顔のパーシヴァルが眩しすぎて、堪らず目を眇めた。やっぱり美少年の爽やか波動が強すぎる。
これはもう、パーシヴァルを友達認定していいのかな?
誰にも相手にされないペルフェクティオの恥曝しの『僕』に友達が? 本当にいいのかな?
ああ、いいんじゃないか、パーシヴァルは友達だ。
ほんの数日一緒にランチを食べただけ、それだけだって友達になれる。きっかけなんて何でもいいんだ。そう難しく考えるなよ、サフィラス。
困惑している『僕』に俺はそう諭す。
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