4 / 7
4
しおりを挟む
書斎で机の上の書類から目を離すことなく、シリウスはそう言った。
まるで面倒ごとを押し付けられたくないみたいに。
「しかし、このままでは私の妻としての責務も果たせなくなってしまいます。服もかくされたりして、現にパーティーの際に影響が出ていますし」
「……ふむ」
考えているのか分からない言葉を放ったシリウス。
何か言うだろうと思って数秒待っていると、彼は口を開いた。
「お前は何か勘違いをしているようだ。自分が妻だから一番に大切に想われるべきだと……それに困った時は必ず誰かが助けてくれるのだと」
「そ、そんなことは……」
「思っているだろ?」
シリウスはやっと書類から顔を上げると、私を見た。
しかしその目は空洞のように黒く染まっていて、優しさの欠片もなかった。
「ミラ。僕はそういう愚かな人間が一番嫌いなんだ。たいした努力も我慢もせずに、困ったら周りが何とかしてくれるだろうと言う人間が。そういう人間を見ると、お前にはそれだけの価値があるのか、と問いただしたくなってしまうほどにな」
ふいに昔の自分を思い出す。
孤独に生きてきた、両親の死をも一人で乗り越えた自分を。
「私はそんなことは考えておりません。シリウス様もそれは既知であるはずです」
両親が死んだ後、私は自分の家を捨ててシリウスの妻となる道を選んだ。
外国に住む伯父夫妻に世話になる道もあったが、私はそれを断った。
両親の死後の悲しみの最中、私は一人でその判断を下した。
「……確かに昔のお前はそうだった。一人を好み、一人で何とかしようと努力していた。だが、最近のお前は甘くなった。現にこうして使用人如きにいじめられたと僕に泣きついている。くだらない。本当にくだらない」
シリウスは椅子から立ち上がる。
「いいかミラ。死ぬべき人間は力のない人間だ。努力も苦労も、絶望も知らない……生きるに値しない力のない人間だ。そういう人間はすぐ他人に縋り、頼り、根拠のない希望を胸にどれだけ自分が愚者なのかを語りだす」
いつも冷淡なはずのシリウスの言葉の端々には、感情がある気がした。
それが不思議でたまらない。
驚く私に構うことなく、彼は言葉を続ける。
「反対に生きるべき人間とは、自分一人で苦しみ続けた人間だ。そういう人間は他人に頼る弱さを捨てて、極限まで個を磨き上げる。そうして力を得て、それが生きる価値となるのだ」
私は言葉を挟むことなど出来なかった。
シリウスは一歩ずつ私に近づき、顔を歪ませていく。
まるで世界中の痛みを一身に受けるように。
「ミラ。お前は僕の妻だ。死ぬべき人間になることは許さない。スピカのいじめの件はお前が一人で何とかしろ。僕は一切関わらない。それでも何ともならないと甘い言葉を吐くのなら、離婚をする。家を捨てたお前が一人で生きていけるほど、この世は甘くないだろうがな」
「離婚……」
考えていないわけではなかった。
シリウスの不倫を知った時、心の奥底にはその選択肢が過った。
しかしそれはすぐに消えた。
私は家を捨てて、シリウスの妻としてこの家に嫁いできた。
同居を提案してくれた伯父夫妻を裏切って。
そんな伯父夫妻に今更頼ることもできないだろう。
家もない私が、一人で満足に生きられるほど、この世界は優しくない。
「ミラ。頭の良いお前なら分かるだろう」
シリウスは小さな声でそう言った。
そして軽く息をはくと、再び椅子に戻った。
まるで面倒ごとを押し付けられたくないみたいに。
「しかし、このままでは私の妻としての責務も果たせなくなってしまいます。服もかくされたりして、現にパーティーの際に影響が出ていますし」
「……ふむ」
考えているのか分からない言葉を放ったシリウス。
何か言うだろうと思って数秒待っていると、彼は口を開いた。
「お前は何か勘違いをしているようだ。自分が妻だから一番に大切に想われるべきだと……それに困った時は必ず誰かが助けてくれるのだと」
「そ、そんなことは……」
「思っているだろ?」
シリウスはやっと書類から顔を上げると、私を見た。
しかしその目は空洞のように黒く染まっていて、優しさの欠片もなかった。
「ミラ。僕はそういう愚かな人間が一番嫌いなんだ。たいした努力も我慢もせずに、困ったら周りが何とかしてくれるだろうと言う人間が。そういう人間を見ると、お前にはそれだけの価値があるのか、と問いただしたくなってしまうほどにな」
ふいに昔の自分を思い出す。
孤独に生きてきた、両親の死をも一人で乗り越えた自分を。
「私はそんなことは考えておりません。シリウス様もそれは既知であるはずです」
両親が死んだ後、私は自分の家を捨ててシリウスの妻となる道を選んだ。
外国に住む伯父夫妻に世話になる道もあったが、私はそれを断った。
両親の死後の悲しみの最中、私は一人でその判断を下した。
「……確かに昔のお前はそうだった。一人を好み、一人で何とかしようと努力していた。だが、最近のお前は甘くなった。現にこうして使用人如きにいじめられたと僕に泣きついている。くだらない。本当にくだらない」
シリウスは椅子から立ち上がる。
「いいかミラ。死ぬべき人間は力のない人間だ。努力も苦労も、絶望も知らない……生きるに値しない力のない人間だ。そういう人間はすぐ他人に縋り、頼り、根拠のない希望を胸にどれだけ自分が愚者なのかを語りだす」
いつも冷淡なはずのシリウスの言葉の端々には、感情がある気がした。
それが不思議でたまらない。
驚く私に構うことなく、彼は言葉を続ける。
「反対に生きるべき人間とは、自分一人で苦しみ続けた人間だ。そういう人間は他人に頼る弱さを捨てて、極限まで個を磨き上げる。そうして力を得て、それが生きる価値となるのだ」
私は言葉を挟むことなど出来なかった。
シリウスは一歩ずつ私に近づき、顔を歪ませていく。
まるで世界中の痛みを一身に受けるように。
「ミラ。お前は僕の妻だ。死ぬべき人間になることは許さない。スピカのいじめの件はお前が一人で何とかしろ。僕は一切関わらない。それでも何ともならないと甘い言葉を吐くのなら、離婚をする。家を捨てたお前が一人で生きていけるほど、この世は甘くないだろうがな」
「離婚……」
考えていないわけではなかった。
シリウスの不倫を知った時、心の奥底にはその選択肢が過った。
しかしそれはすぐに消えた。
私は家を捨てて、シリウスの妻としてこの家に嫁いできた。
同居を提案してくれた伯父夫妻を裏切って。
そんな伯父夫妻に今更頼ることもできないだろう。
家もない私が、一人で満足に生きられるほど、この世界は優しくない。
「ミラ。頭の良いお前なら分かるだろう」
シリウスは小さな声でそう言った。
そして軽く息をはくと、再び椅子に戻った。
258
お気に入りに追加
288
あなたにおすすめの小説
拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら
みおな
恋愛
子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。
公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。
クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。
クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。
「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」
「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」
「ファンティーヌが」
「ファンティーヌが」
だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。
「私のことはお気になさらず」
私に代わり彼に寄り添うのは、幼馴染の女でした…一緒に居られないなら婚約破棄しましょう。
coco
恋愛
彼の婚約者は私なのに…傍に寄り添うのは、幼馴染の女!?
一緒に居られないなら、もう婚約破棄しましょう─。
私の夫を奪ったクソ幼馴染は御曹司の夫が親から勘当されたことを知りません。
春木ハル
恋愛
私と夫は最近関係が冷めきってしまっていました。そんなタイミングで、私のクソ幼馴染が夫と結婚すると私に報告してきました。夫は御曹司なのですが、私生活の悪さから夫は両親から勘当されたのです。勘当されたことを知らない幼馴染はお金目当てで夫にすり寄っているのですが、そこを使って上手く仕返しします…。
にちゃんねる風創作小説をお楽しみください。
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
浮気くらいで騒ぐなとおっしゃるなら、そのとおり従ってあげましょう。
Hibah
恋愛
私の夫エルキュールは、王位継承権がある王子ではないものの、その勇敢さと知性で知られた高貴な男性でした。貴族社会では珍しいことに、私たちは婚約の段階で互いに恋に落ち、幸せな結婚生活へと進みました。しかし、ある日を境に、夫は私以外の女性を部屋に連れ込むようになります。そして「男なら誰でもやっている」と、浮気を肯定し、開き直ってしまいます。私は夫のその態度に心から苦しみました。夫を愛していないわけではなく、愛し続けているからこそ、辛いのです。しかし、夫は変わってしまいました。もうどうしようもないので、私も変わることにします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる