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 書斎で机の上の書類から目を離すことなく、シリウスはそう言った。
 まるで面倒ごとを押し付けられたくないみたいに。

「しかし、このままでは私の妻としての責務も果たせなくなってしまいます。服もかくされたりして、現にパーティーの際に影響が出ていますし」

「……ふむ」

 考えているのか分からない言葉を放ったシリウス。
 何か言うだろうと思って数秒待っていると、彼は口を開いた。

「お前は何か勘違いをしているようだ。自分が妻だから一番に大切に想われるべきだと……それに困った時は必ず誰かが助けてくれるのだと」

「そ、そんなことは……」

「思っているだろ?」

 シリウスはやっと書類から顔を上げると、私を見た。
 しかしその目は空洞のように黒く染まっていて、優しさの欠片もなかった。

「ミラ。僕はそういう愚かな人間が一番嫌いなんだ。たいした努力も我慢もせずに、困ったら周りが何とかしてくれるだろうと言う人間が。そういう人間を見ると、お前にはそれだけの価値があるのか、と問いただしたくなってしまうほどにな」

 ふいに昔の自分を思い出す。
 孤独に生きてきた、両親の死をも一人で乗り越えた自分を。

「私はそんなことは考えておりません。シリウス様もそれは既知であるはずです」

 両親が死んだ後、私は自分の家を捨ててシリウスの妻となる道を選んだ。
 外国に住む伯父夫妻に世話になる道もあったが、私はそれを断った。 
 両親の死後の悲しみの最中、私は一人でその判断を下した。

「……確かに昔のお前はそうだった。一人を好み、一人で何とかしようと努力していた。だが、最近のお前は甘くなった。現にこうして使用人如きにいじめられたと僕に泣きついている。くだらない。本当にくだらない」

 シリウスは椅子から立ち上がる。

「いいかミラ。死ぬべき人間は力のない人間だ。努力も苦労も、絶望も知らない……生きるに値しない力のない人間だ。そういう人間はすぐ他人に縋り、頼り、根拠のない希望を胸にどれだけ自分が愚者なのかを語りだす」

 いつも冷淡なはずのシリウスの言葉の端々には、感情がある気がした。
 それが不思議でたまらない。
 驚く私に構うことなく、彼は言葉を続ける。

「反対に生きるべき人間とは、自分一人で苦しみ続けた人間だ。そういう人間は他人に頼る弱さを捨てて、極限まで個を磨き上げる。そうして力を得て、それが生きる価値となるのだ」

 私は言葉を挟むことなど出来なかった。
 シリウスは一歩ずつ私に近づき、顔を歪ませていく。
 まるで世界中の痛みを一身に受けるように。

「ミラ。お前は僕の妻だ。死ぬべき人間になることは許さない。スピカのいじめの件はお前が一人で何とかしろ。僕は一切関わらない。それでも何ともならないと甘い言葉を吐くのなら、離婚をする。家を捨てたお前が一人で生きていけるほど、この世は甘くないだろうがな」

「離婚……」

 考えていないわけではなかった。
 シリウスの不倫を知った時、心の奥底にはその選択肢が過った。 
 しかしそれはすぐに消えた。

 私は家を捨てて、シリウスの妻としてこの家に嫁いできた。
 同居を提案してくれた伯父夫妻を裏切って。
 そんな伯父夫妻に今更頼ることもできないだろう。
 家もない私が、一人で満足に生きられるほど、この世界は優しくない。

「ミラ。頭の良いお前なら分かるだろう」

 シリウスは小さな声でそう言った。
 そして軽く息をはくと、再び椅子に戻った。
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