公爵夫人はもうやめます

杉本凪咲

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 部屋の前で、侍女のセーヌと出くわした。
 彼女は私の顔を見て、驚いたように目を見開く。

「奥様。どうかなさいましたか?」

 慎重に言った彼女に、私は首を振った。
 心配して欲しくなかったから。

「なんでもない」

 私は部屋の扉を開けて、中に片足を踏み込んだ。
 しかし同時に、セーヌが私の腕を掴んだ。

「待ってください奥様。何かあったのですよね? 私に話してください」

 振り返ると、セーヌは真剣な眼差しを私に向けていた。
 心の中に、即座に葛藤が生まれて、私の判断を鈍らせる。

「……いいの?」

「はい。私は奥様の侍女です。もっと頼ってください」

 私は泣きそうになるのを何とか堪えると、小さく頷いた。


 ウォルターとの一件を説明し終えると、セーヌは自分の太ももを叩いた。
 
「なんて卑劣な……権力を盾に断罪を許さないなんて」

 侍女の立場で雇用主であるウォルターにそんな口を聞いて大丈夫かと心配になるが、私が言わなければいいだけだと気づき、すぐに納得する。

「それに愛人の裸の写真を撮っているなんて……気持ち悪いです……そんな人と今までずっと同じ家にいたなんて……」

 それには同感だった。
 私の中でも、ウォルターを見る目は百八十度変わり、気持ち悪い人に認定された。
 一刻も早く離婚したいというのが、私の本心だった。

「でも、あの人を断罪できるだけの力は私にはない」

 自分の無力を痛感しながら、私はぽつりと呟く。
 
「私は伯爵家の出身だから、公爵家のウォルターに歯向かえば、きっとすぐに潰されてしまう。それじゃあ離婚はできても、その先の生活が成り立たない」

 最悪、私にだけ迷惑がかかるのなら良い。
 しかし両親や親戚たちにも迷惑がかかるのは、避けたい所だった。
 悔しさが込み上げ、目頭が熱くなる。

「侍女のあなたにこんな話をしてごめんなさい。あなたにはどうすることもできないのに」

「いいえ……」

 私は怖くて顔を俯かせた。
 セーヌの顔を見て、迷惑そうな顔をしていたらショックだろうから。
 しかし俯いていると、余計に自分が惨めに感じられて、嫌な気分になる。

「どうしたらいいの……」

 自分に問いかけるように言った。
 もちろん答えなど返ってくるわけがない。
 諦めて大きなため息をついた、その時だった。

「私に任せてもらえませんか?」

 予想外な言葉に、私は顔を上げた。
 セーヌが自信満々な目を私に向けていた。

「何か考えがあるの?」

 すがるような声で訊いてみると、彼女は頷く。

「はい。もちろん確実ではありませんから、あまり期待はしないで欲しいです」

「ううん。それでもいいの。私には何も思いつかなかったから……でも、本当にいいの? 侍女のあなたが関わってしまったら、最悪解雇されるかも……」

「いいんです」

 セーヌは心の底から安堵しているように言った。
 
「たとえ解雇されても、私なら大丈夫です。それに、奥様のお役に立ちたいのです」

 セーヌは自分の胸に手を当てると、言葉を続ける。

「私は最初にこの屋敷に来た時、不安でいっぱいでした。しかし奥様が仲良くしてくれたから、今まで頑張ってこられました。本当は半年だけの予定でしたが、もう二年も侍女としてこの家に……いや、あなたに仕えています」

 本当に私がセーヌの役に立てたのだろうか。
 疑問が脳裏をよぎるが、彼女の満足そうな顔を見て、その疑問はすぐに消し飛ぶ。

「レイス様に出会えて本当に嬉しかったのです。だから今までこの家で侍女として生きることができたのです。周りの反対を押し切って、ずっとこの場所にいたのです」

 まるで別れのような雰囲気があった。
 ふいに悲しみが込み上げて、心が重くなる。

「セーヌ。ありがとう」

 だが、そんな気持ちをおくびにも出さずに、私は礼を言った。 
 彼女は小さく頷き、目に力を込めた。

「私の大切な人を傷つける人は、誰であろうと許しません」
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