公爵夫人はもうやめます

杉本凪咲

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 ウォルターの書斎の前で、私は深呼吸をする。
 肺に空気が広がり、不思議と気分が落ち着いてくるが、体はどこか熱っぽい。
 それでも私は書斎に手を伸ばす。
 ノックを三回してから声を出す。

「ウォルター様。レイスです。お話があります」

 平坦な口調を意識していたが、声が少し震えてしまう。
 程なくして、相変わらずの不機嫌そうなウォルターの声が中から飛んできた。

「入れ」

 扉を開けると、ウォルターは机に目線を落とし仕事をしていた。
 領地管理の書類を見て、時折サインをしたり線を引いたりしていた。

「ウォルター様。お忙しい所申し訳ございま……」

「いいから早くしろ」

 氷のように冷たい声だった。
 私はごくりと唾を呑み込むと、早速本題に入る。

「侍女のセーヌより聞きました。ウォルター様が浮気をしていると、街で他の女性と親し気にしている所を目撃したと……」

「え……」

 ウォルターの手が止まる。
 驚いたように私に顔を上げた。

「本当なのですね」

 その反応で、セーヌが言っていたことは正しいと証明された。
 ウォルターはそのまま表情を固めていたが、ふいに口元に笑みを浮かべる。

「ふふっ……上手く隠していたつもりだったが、まさかバレてしまうとは。仕方ない。仕方ない」

 まるでサプライズがバレたような言い草だった。
 表情はどこか嬉しそうで、まともな思考回路を持っていないことが判然とする。
 私は眉間にしわを寄せた。

「仕方ない? 本気で言っているのですか? ウォルター様は私と結婚している身。それなのに他の女性と関係を持ったのですよ? これは立派な浮気です! 果てには公爵夫人はやめさせて頂きます!」

 言葉が奔流のようにスラスラと出た。
 しかしウォルターは全く反省していないようで、目に嘲笑の色が浮かぶ。

「それがなんだというのだ。お前は僕の浮気を断罪したいのだろうが、そんなことは無駄だ。僕は公爵家なんだぞ」

「私は現時点では公爵夫人です! 断罪する権利くらいあります!」

 負けじと声を張り上げるが、ウォルターは気にも留めないように、笑いながら息をはく。

「レイス。よく考えてもみろ。確かにお前は公爵夫人だが、元は伯爵家だ。お前自体に権力があるわけではなくて、全部僕のおかげなんだ」

「伯爵家の出身だから、浮気も見逃せと言うのですか?」

「分かっているじゃないか」

 ウォルターはおもむろに引き出しを開けると、数枚の写真を取り出す。
 そこには複数の裸の女性の姿が写っていた。

「ひっ……な、なんですかこれ……」

「僕の愛人たちだよ」

 自分の宝物でも自慢するように、ウォルターは言った。
 
「記念に撮影しているんだ。君も撮ってあげようか?」

 全身が総毛立った。
 結婚して三年が経ち、初めてウォルターの本性を知った気がした。
 私が思わず数歩後退したのを見て、彼は嬉しそうに笑う。

「ふふっ……もう諦めろレイス。お前に僕を断罪することはできない。生まれながらにして公爵家の僕にお前は逆らえない」

「そんなの……」

「これが貴族社会というものさ」

 ウォルターが立ち上がる。 
 その目はどこか遠くを見ていて、焦点が合っていない。

「僕達の間には決定的な身分の差がある。だからお前には何もできない。浮気のことは水に流して、これからも僕の妻として生きてくれ。一生な」

 彼はそこまで言うと、私に不気味な笑みを向けていた。
 悔しさと怒りが込み上げるも、私は口を開けない。
 そのまま無音の時間が続き、私は観念したように言う。

「もういいです……」

 ウォルターの言い分を理解している自分もいた。
 彼が話の通じる人だったなら、このまま離婚の道も歩めたかもしれない。
 しかし彼は自分の保身のためなら、躊躇なく私と家族を潰すだろう。
 
 それを悟った私は、暗澹とした気持ちのまま、逃げるように書斎を後にした。
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