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もしかして、近いひと?

18. 貝塚さんが思い描く未来

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 俺は呆然となった。
 貝塚さん、引退を考えているのか!? 信じられない。
 音楽の神様に愛された人が、音楽を捨てる? そんなことってあるのか……!
 でも、貝塚さんはタチの悪い冗談を言うタイプではない。何らかの事情があっての発言なのだろう。
 俺は恐る恐る訊ねた。

「引退って……。貝塚さん、音楽が嫌いになったんですか」
「いや、大好きだよ。でも愛してるからこそ、音楽との関係を軌道修正したくなったんだ。手編みのセーターをほどいて、新しいものを編み直すように」

 俺は貝塚さんの今年の活動を振り返った。オリジナルアルバムの発表に全国ツアー、他のアーティストへの楽曲提供。清涼飲料水のCMのタイアップもあったな。
 それに、今度アニメ化される『凌雲りょううんのレジリエンス』の主題歌も担当している。
 素人の目から見ても、明らかにオーバーワークである。貝塚さんが疲れを覚えるのも無理はない。

「事務所の社長は承諾してくれたんですか?」
「僕の意向を伝えたら、カンカンに怒ってしまって。話し合いにならなかったよ」

 貝塚さんの声は落ち着いていた。ヤケになっているわけではなさそうだ。

「いきなりこんな話をしてごめんね。きみには僕の気持ちを知ってもらいたかったから」
「ショックですが……、貝塚さんに無理をしてもらいたくはありません」
「ありがとう、きみは優しいね」
「マネージャーの彩子さんの反応は? やっぱり怒ってましたか?」
「いや……。泣かれてしまった」
「えっ」

 いつも勇ましい彩子さんが涙を流したのか? それだけ貝塚さんの才能に惚れ込んでいるんだな。

「彩子さんによればね、僕の音楽は僕だけのものじゃないんだって」
「そう言いたくなる気持ちはよく分かります……」
「僕は歩く公共財産なんだって。僕の曲を評価してくれるのは嬉しいけど、ちょっとそういう扱いはしんどいかな」
「……貝塚さん」
「引退したらやりたいことがいっぱいあるんだ。犬を飼ったり、旅行をしたり。僕ね、以前から哲学に興味があってさ。大学に通って勉強するのもいいかなって思ってる」

 貝塚さんが楽しそうな声でプランを語る。彼が思い描く未来はとても前向きなものだった。

「スナック『よっちゃん』にももう一回行ってみたいな。きみの店にも気兼ねなくお邪魔したい」
「貝塚さん。俺、ファンレターを書いたり、ライブでめちゃくちゃ拍手をしたり、あなたのこと推しまくってました。そういうの、全部負担でしたよね。すみません」
「謝らないで。ファンのみなさんには本当に感謝してる。みなさんのおかげで僕は得難い体験をさせてもらったから」

 どうやら貝塚さんの決意は固いらしい。
 俺は途方もない寂しさを覚えた。でも、貝塚さんが引退後、芸能人のままでは味わえない幸せを得るのだとしたら、彼の門出を祝福したいと思った。

「すっかり話し込んじゃったね」
「こちらこそ、貴重なお時間をいただいてありがとうございます」
「それじゃ、おやすみ。取材頑張って」
「はい。精一杯やってみます!」

 俺と貝塚さんは通話を終わらせた。
 アパートの狭い部屋が静寂に包まれる。俺はスチールラックに並べてある貝塚さんのCDを手に取った。貝塚さんのアルバムって捨て曲がないんだよな。このクオリティを保つために、貝塚さんは常人には想像がつかないほど努力を重ねてきたことだろう。
 貝塚さんの新曲が聴けなくなるのはすごく寂しい。
 でも、厳しいショービジネスの世界でこれからも戦い続けてほしいだなんて言えるわけがなかった。
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