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遠いひと
08. 優しいひと
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俺はリビングに案内された。
広っ!
白い壁と天井にはシミひとつない。築30年の俺のアパートとは大違いだ。
シーリングライトによって照らされた部屋には、貝塚さんが誰かとパーティーをしていた痕跡はなかった。
ダイニングテーブルの上を見れば、両腕で抱えないと持ち運べそうにないほど大きな箱と、『凌雲のレジリエンス』の単行本全巻が置かれている。
「やっぱり10人分の酒は必要ありませんでしたね」
「……嘘をついてごめん」
「追い詰められてたんでしょう? ハバネロの暴言のせいで」
「いや、彼の批評は正しい。僕は確かに、音楽業界に飼い慣らされた弱っちいブロイラーだ」
「……あの。俺、思うんですけど、ブロイラーがいなかったらみんなの食生活が崩壊しますよね? ブロイラーって社会に貢献してませんか? ハバネロはブロイラー様に謝れっつう話ですよ」
俺の発言に、貝塚さんが笑い声を上げた。
「ははっ! プライドの高い彼がブロイラーに土下座をしているところを想像したら……。すごくシュールだね」
「ブロイラーはハバネロを許してくれるかもしれないけど、俺はあいつを許しませんよ。貝塚さんをヤケ酒に走らせたんだから」
「未遂に終わったからいいじゃないか。ハバネロが書く音楽評論は素晴らしいよ。SNSでの過激な発言だけが彼のすべてじゃない」
「……貝塚さんが作る曲も、貝塚さんご本人もすごく優しいですね」
貝塚さんが照れくさそうな表情で、前髪をいじった。
「僕は争いごとが苦手なんだ。ケンカも弱くってさ。姉さんに何度負かされたことか」
「貝塚さんのお姉さんって、ヴァイオリニストの貝塚清音さんですよね? あの方が演奏したピアソラを聴いたことがあるけど、苛烈だったな。聴いてて肌がヒリヒリするような音色でした」
「……沢辺さん。きみは音楽のことをかなり分かってるね」
「えぇっ? ただの素人の感想ですよ」
なんということだ。推しからお褒めの言葉をいただいた!
俺は一生分の運を使い果たしてしまったのかもしれない。しかも、ミネラルウォーターを勧められた。
「さあ飲んで。これ、僕のお気に入りなんだ」
「このボトル……、イタリアの軟水ですよね? 国内のマーケットではあまり流通していない貴重な逸品じゃないですか」
「さすが、沢辺さんは酒屋さんだけあって飲み物に詳しいね」
「……あの。名前を呼ぶのはやめてください!」
渾身の力を込めてお願いすると、貝塚さんが怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんで?」
「俺というオタクは、推しに認識されたくないんですよ! モブでいたいんです。ファンレターを送ったことは何度もあるけど……」
「……きみを無視しろってこと? そんなことはできない」
「えっ」
「僕は、きみという人に命を救われた」
「お、大袈裟ですよ」
「僕は強い酒を飲んで、喉を焼くつもりだった。そして、醜くさえずることしかできない無能になって、残りの人生を終えようと思ったんだ」
「そんな……!」
「僕は『凌レジ』のファンから、作品にふさわしくないミュージシャンだと断定されたんだ。みんなにとって大切な作品を汚す罪は重い。そのぐらいの罰を受けて当然だろう?」
俺はダイニングテーブルの上に置かれた単行本に目を走らせた。
「……すみません。ちょっとだけお借りしてもいいですか?」
「どうぞ」
単行本のページをめくってみれば、いい感じに紙が柔らかくなっていた。真新しい単行本だとこうはいかない。何回も読まれた単行本だけが、この質感に到達することができる。
「貝塚さん、『凌レジ』をめっちゃ読み込んでるじゃないですか。あれ? このページ、開きやすくなってる……」
「そこね、何度も読みたくなるんだ」
ページを開いてみる。
シンがライバルキャラのアイゼルと拳を交えた、熱いシーンだった。
「戦うことでしか分かり合えない、ふたりの絆が泣けますよね。とっても不器用で。男ってこういうところあるよなー!」
「僕、誰かと殴り合ってまで我を通したいと思ったことがなくて。シンは僕にとって遠いキャラクターだ」
おっと。
雲行きが怪しくなってきたぞ。貝塚さんがまた自己否定モードに入ったらどうしよう?
俺はつとめて明るい声を上げた。
「その大きな箱って、中身はもしかしてファンレターですか? さすが貝塚さんともなると、いっぱい届くんですね!」
「箱の中身は、確かに手紙だ。でも、僕がもらったものじゃない。僕が『凌レジ』のキャラクターに宛てた手紙だよ」
「えっ……?」
貝塚さんが箱のフタを開けた。
その中には、色とりどりの封筒がぎっしりと詰め込まれていた。貝塚さんが封筒をダイニングテーブルに並べる。宛名に、初巻で退場してしまうキャラクターの名前が書かれた封筒もあった。
「……メインキャラだけじゃなくて、サブキャラにまで?」
「僕、こうしないとアニメの主題歌が作れないんだ。僕の音楽は全部、二人称。誰かに宛てた手紙なんだ。そういうところが内省的で甘っちょろいってハバネロに指摘されるんだけどね」
「酒屋でも首掛けっていう商品紹介POPを作るんですけど、あれも手紙みたいなもんだなあ」
「引いたりしないんだ。きみって、僕のことを本当によく理解してくれるね」
「だって俺は、貝塚さんのオタクですから!」
「……連絡先を教えてもらってもいい?」
「はい。今度は喉にいい商品をご発注ください」
俺は店の名刺を渡した。
「このアドレスって、きみ個人のものじゃないよね?」
「両親と一緒に店をやってまして。全員が目を通すようにしてるから、発注ミスは起きないと思いますよ!」
「……沢辺さん、あのさ。僕はきみと個人的に仲良くなりたいんだけど……」
「そこまでよ、響也くん」
リビングのドアが勢いよく開いて、ほっそりとした人影が現れた。
広っ!
白い壁と天井にはシミひとつない。築30年の俺のアパートとは大違いだ。
シーリングライトによって照らされた部屋には、貝塚さんが誰かとパーティーをしていた痕跡はなかった。
ダイニングテーブルの上を見れば、両腕で抱えないと持ち運べそうにないほど大きな箱と、『凌雲のレジリエンス』の単行本全巻が置かれている。
「やっぱり10人分の酒は必要ありませんでしたね」
「……嘘をついてごめん」
「追い詰められてたんでしょう? ハバネロの暴言のせいで」
「いや、彼の批評は正しい。僕は確かに、音楽業界に飼い慣らされた弱っちいブロイラーだ」
「……あの。俺、思うんですけど、ブロイラーがいなかったらみんなの食生活が崩壊しますよね? ブロイラーって社会に貢献してませんか? ハバネロはブロイラー様に謝れっつう話ですよ」
俺の発言に、貝塚さんが笑い声を上げた。
「ははっ! プライドの高い彼がブロイラーに土下座をしているところを想像したら……。すごくシュールだね」
「ブロイラーはハバネロを許してくれるかもしれないけど、俺はあいつを許しませんよ。貝塚さんをヤケ酒に走らせたんだから」
「未遂に終わったからいいじゃないか。ハバネロが書く音楽評論は素晴らしいよ。SNSでの過激な発言だけが彼のすべてじゃない」
「……貝塚さんが作る曲も、貝塚さんご本人もすごく優しいですね」
貝塚さんが照れくさそうな表情で、前髪をいじった。
「僕は争いごとが苦手なんだ。ケンカも弱くってさ。姉さんに何度負かされたことか」
「貝塚さんのお姉さんって、ヴァイオリニストの貝塚清音さんですよね? あの方が演奏したピアソラを聴いたことがあるけど、苛烈だったな。聴いてて肌がヒリヒリするような音色でした」
「……沢辺さん。きみは音楽のことをかなり分かってるね」
「えぇっ? ただの素人の感想ですよ」
なんということだ。推しからお褒めの言葉をいただいた!
俺は一生分の運を使い果たしてしまったのかもしれない。しかも、ミネラルウォーターを勧められた。
「さあ飲んで。これ、僕のお気に入りなんだ」
「このボトル……、イタリアの軟水ですよね? 国内のマーケットではあまり流通していない貴重な逸品じゃないですか」
「さすが、沢辺さんは酒屋さんだけあって飲み物に詳しいね」
「……あの。名前を呼ぶのはやめてください!」
渾身の力を込めてお願いすると、貝塚さんが怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんで?」
「俺というオタクは、推しに認識されたくないんですよ! モブでいたいんです。ファンレターを送ったことは何度もあるけど……」
「……きみを無視しろってこと? そんなことはできない」
「えっ」
「僕は、きみという人に命を救われた」
「お、大袈裟ですよ」
「僕は強い酒を飲んで、喉を焼くつもりだった。そして、醜くさえずることしかできない無能になって、残りの人生を終えようと思ったんだ」
「そんな……!」
「僕は『凌レジ』のファンから、作品にふさわしくないミュージシャンだと断定されたんだ。みんなにとって大切な作品を汚す罪は重い。そのぐらいの罰を受けて当然だろう?」
俺はダイニングテーブルの上に置かれた単行本に目を走らせた。
「……すみません。ちょっとだけお借りしてもいいですか?」
「どうぞ」
単行本のページをめくってみれば、いい感じに紙が柔らかくなっていた。真新しい単行本だとこうはいかない。何回も読まれた単行本だけが、この質感に到達することができる。
「貝塚さん、『凌レジ』をめっちゃ読み込んでるじゃないですか。あれ? このページ、開きやすくなってる……」
「そこね、何度も読みたくなるんだ」
ページを開いてみる。
シンがライバルキャラのアイゼルと拳を交えた、熱いシーンだった。
「戦うことでしか分かり合えない、ふたりの絆が泣けますよね。とっても不器用で。男ってこういうところあるよなー!」
「僕、誰かと殴り合ってまで我を通したいと思ったことがなくて。シンは僕にとって遠いキャラクターだ」
おっと。
雲行きが怪しくなってきたぞ。貝塚さんがまた自己否定モードに入ったらどうしよう?
俺はつとめて明るい声を上げた。
「その大きな箱って、中身はもしかしてファンレターですか? さすが貝塚さんともなると、いっぱい届くんですね!」
「箱の中身は、確かに手紙だ。でも、僕がもらったものじゃない。僕が『凌レジ』のキャラクターに宛てた手紙だよ」
「えっ……?」
貝塚さんが箱のフタを開けた。
その中には、色とりどりの封筒がぎっしりと詰め込まれていた。貝塚さんが封筒をダイニングテーブルに並べる。宛名に、初巻で退場してしまうキャラクターの名前が書かれた封筒もあった。
「……メインキャラだけじゃなくて、サブキャラにまで?」
「僕、こうしないとアニメの主題歌が作れないんだ。僕の音楽は全部、二人称。誰かに宛てた手紙なんだ。そういうところが内省的で甘っちょろいってハバネロに指摘されるんだけどね」
「酒屋でも首掛けっていう商品紹介POPを作るんですけど、あれも手紙みたいなもんだなあ」
「引いたりしないんだ。きみって、僕のことを本当によく理解してくれるね」
「だって俺は、貝塚さんのオタクですから!」
「……連絡先を教えてもらってもいい?」
「はい。今度は喉にいい商品をご発注ください」
俺は店の名刺を渡した。
「このアドレスって、きみ個人のものじゃないよね?」
「両親と一緒に店をやってまして。全員が目を通すようにしてるから、発注ミスは起きないと思いますよ!」
「……沢辺さん、あのさ。僕はきみと個人的に仲良くなりたいんだけど……」
「そこまでよ、響也くん」
リビングのドアが勢いよく開いて、ほっそりとした人影が現れた。
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