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12. 美しい名前
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日曜日に友人に会うと告げると、母は大いに喜んだ。
「諒には青春を楽しんでもらいたかったのよ」
小遣いをたくさん渡された。
「これ、多くね?」
「欲しい本だってあるでしょ」
それは事実だ。俺は相変わらず哲学者の篠塚文典にハマっていて、著書を買い集めている。
「ねえ、諒。なんでもない時間がすごく大切だったりするのよ、あとになって振り返ってみると」
「うん」
「今日は楽しんで来て」
「ありがとう」
俺は高瀬との待ち合わせ場所に向かった。
「いらっしゃいませー」
駅ビルの一階にある大型書店は本好きにはたまらない空間だった。約束の時間よりも早めに着いた俺は、文庫コーナーで篠塚文典の作品を探した。『哲学のスキマ』という本が棚差しになっている。帯によればエッセイ集らしい。
文庫本をパラパラとめくって、中身に目を走らせる。
飼い猫を題材にしたエッセイの次に、「十悟のいる庭」という文章が綴られていた。
『一を聞いて十を悟る。そんな賢い子になってほしいという願いを込めて十悟と名付けた息子であるが、引っ込み思案で、公園に連れて行っても私の足元から離れようとしない。』
愛情あふれるエッセイで、俺は読んでいてほっこりした。
哲学者・篠塚文典も人の親だったんだな。こんなに大事に思われて、十悟少年は幸せ者だ。
俺が文庫本をレジに持って行こうとした時、高瀬が現れた。
「諒。待たせてごめんね」
「いや、大丈夫。今、この本読んでてさ」
高瀬の表情が若干引き攣った。ん? どうかしたのかな。
「篠塚文典って哲学者、知らない? 俺、大ファンなんだよね」
「そう……」
「息子さんの名前、十悟っていうんだって。高瀬と同じだな」
俺が微笑んだ瞬間、辺りの空気が凍てつくような冷たい声で高瀬が言った。
「篠塚文典は俺の実父だよ」
「え……っ」
「篠塚は俺の母を捨てた。新しい妻子と暮らすために」
文庫本を携えたまま、俺は固まった。かける言葉がない。高瀬は皮肉っぽく微笑んだ。
「俺の腹違いの弟、まだ赤ちゃんなんだ。篠塚の本、買ってやってよ。ミルク代になるように」
「高瀬。俺……」
「謝らないでくれ。諒は何も悪くないだろ? ただ、俺の家がゴタゴタしてるってだけの話」
俺は迷った末に、文庫本を購入した。
大型書店を出て、駅ビルの二階にあるコンコースに移動する。高瀬の表情は強張ったままだった。
「人の気持ちは変わってしまう」
独り言のように高瀬がつぶやいた。
「そのエッセイを書いていた頃は、篠塚は俺と兄貴、そして母さんを愛していた」
高瀬の瞳は乾いていた。涙が枯れるほど悲しみ尽くしたあと、人はこのような境地に至るのだろう。
「……十悟っていい名前じゃねーか。俺は好きだよ」
「ありがとう……」
「今はその名前が呪いにしか感じられないかもしれないけど、おまえを愛してくれるたくさんの人が、嫌な記憶を上書きしてくれると思う」
「たくさんの人なんて要らない。諒が呼んで。十悟って、何回も。おまえの声で」
「十悟」
「うん、いいね。諒の凜とした声で呼ばれると、自分が生まれ変わっていくみたいだ……」
高瀬──いや、十悟は目を潤ませた。
薄く涙の膜が張られた瞳に、俺は見入った。十悟が泣き崩れることはなかった。形のいい唇は震えながらも、微笑みをかたどろうとしている。辛い出来事を乗り越えて前に進もうとする意志を感じて、俺はこうべを垂れたくなった。
「おまえは強いよ、十悟」
十悟がはにかむように笑った。
「諒には青春を楽しんでもらいたかったのよ」
小遣いをたくさん渡された。
「これ、多くね?」
「欲しい本だってあるでしょ」
それは事実だ。俺は相変わらず哲学者の篠塚文典にハマっていて、著書を買い集めている。
「ねえ、諒。なんでもない時間がすごく大切だったりするのよ、あとになって振り返ってみると」
「うん」
「今日は楽しんで来て」
「ありがとう」
俺は高瀬との待ち合わせ場所に向かった。
「いらっしゃいませー」
駅ビルの一階にある大型書店は本好きにはたまらない空間だった。約束の時間よりも早めに着いた俺は、文庫コーナーで篠塚文典の作品を探した。『哲学のスキマ』という本が棚差しになっている。帯によればエッセイ集らしい。
文庫本をパラパラとめくって、中身に目を走らせる。
飼い猫を題材にしたエッセイの次に、「十悟のいる庭」という文章が綴られていた。
『一を聞いて十を悟る。そんな賢い子になってほしいという願いを込めて十悟と名付けた息子であるが、引っ込み思案で、公園に連れて行っても私の足元から離れようとしない。』
愛情あふれるエッセイで、俺は読んでいてほっこりした。
哲学者・篠塚文典も人の親だったんだな。こんなに大事に思われて、十悟少年は幸せ者だ。
俺が文庫本をレジに持って行こうとした時、高瀬が現れた。
「諒。待たせてごめんね」
「いや、大丈夫。今、この本読んでてさ」
高瀬の表情が若干引き攣った。ん? どうかしたのかな。
「篠塚文典って哲学者、知らない? 俺、大ファンなんだよね」
「そう……」
「息子さんの名前、十悟っていうんだって。高瀬と同じだな」
俺が微笑んだ瞬間、辺りの空気が凍てつくような冷たい声で高瀬が言った。
「篠塚文典は俺の実父だよ」
「え……っ」
「篠塚は俺の母を捨てた。新しい妻子と暮らすために」
文庫本を携えたまま、俺は固まった。かける言葉がない。高瀬は皮肉っぽく微笑んだ。
「俺の腹違いの弟、まだ赤ちゃんなんだ。篠塚の本、買ってやってよ。ミルク代になるように」
「高瀬。俺……」
「謝らないでくれ。諒は何も悪くないだろ? ただ、俺の家がゴタゴタしてるってだけの話」
俺は迷った末に、文庫本を購入した。
大型書店を出て、駅ビルの二階にあるコンコースに移動する。高瀬の表情は強張ったままだった。
「人の気持ちは変わってしまう」
独り言のように高瀬がつぶやいた。
「そのエッセイを書いていた頃は、篠塚は俺と兄貴、そして母さんを愛していた」
高瀬の瞳は乾いていた。涙が枯れるほど悲しみ尽くしたあと、人はこのような境地に至るのだろう。
「……十悟っていい名前じゃねーか。俺は好きだよ」
「ありがとう……」
「今はその名前が呪いにしか感じられないかもしれないけど、おまえを愛してくれるたくさんの人が、嫌な記憶を上書きしてくれると思う」
「たくさんの人なんて要らない。諒が呼んで。十悟って、何回も。おまえの声で」
「十悟」
「うん、いいね。諒の凜とした声で呼ばれると、自分が生まれ変わっていくみたいだ……」
高瀬──いや、十悟は目を潤ませた。
薄く涙の膜が張られた瞳に、俺は見入った。十悟が泣き崩れることはなかった。形のいい唇は震えながらも、微笑みをかたどろうとしている。辛い出来事を乗り越えて前に進もうとする意志を感じて、俺はこうべを垂れたくなった。
「おまえは強いよ、十悟」
十悟がはにかむように笑った。
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