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再会編

雨音に消えた夜15

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「オレ様もいるぞ」

「ええ、ドラゴ様もお久しぶりです」

老獪な笑みを変えないまま、恭しく一礼を見せるリパにテオドールは違和感を覚えた。膝に居たキュウビは他者の目に触れるのが嫌なのか、バルコニーに降り立った瞬間にテオドールの首に巻き付き、襟巻のようになっている。狐と分かる部分はひとつもない、本当にただの黒い襟巻にしか見えない。その襟巻に頬を当てるように首を傾ぐ。

「あの…前は、ジンの事、坊ちゃんって呼んでませんでした?ドラゴの事も、呼び方違ったような…」

「ええ、左様で御座います。ジン様はもうSSランクと言う偉業を成し遂げた立派な御仁。一介の執事風情がいつまでもお子様のような扱いなど、とてもとても…」

リパはさめざめと泣くような、そんな雰囲気で俯いた。細く淑やかな老執事が更に小さくなったように見える。白い手袋の指先は涙を拭うような素振りもするが、しかし、涙など全く見えない。困惑し言葉に詰まったままテオドールはジンを横目に窺った。ジンは眉ひとつ動かさず、リパをじっと見詰めていた。どう言う感情か分からず、テオドールは更に静かに困惑した。

「卒業後、一度だけご挨拶にいらしたのを最後に、ジン様はここカプソディアを訪れる事もなく…ワタクシがSSランクと知ったのも人伝で御座いました。ジン様にとって、この場所もワタクシも、既に過去の遺物。多大なる功績を築いた事の報せすらご本人から頂けない…もうワタクシなど…彼にとっては必要のない枯木のようなもの…」

リパの声は続き、テオドールは息を潜めてジンの反応を待ち、ジンはまだ表情を変えずにリパを見詰める。
ドラゴは懸命にリパの袖を引っ張り、「うまそうな匂いがする」「サカナか!」「ひとりじめか!」と何かを嗅ぎつけて訴えていた。部屋に勝手に入らない所は成長だ。

「…何を」

漸くジンが声を出す。

「言ってんの」

冷たくも聞こえる呟きにテオドールの胸が落ち着かなくなる。2人の間に何か以前とは違う歪のようなものがあったりするのだろうかと不安が過ったのだ。ジンを諫めるべきか、リパを慰めるべきか、黙っていた方が良いのか。テオドールの脳が高速回転する。

しかしそんなテオドールの想いはただの時間の無駄だったとすぐに知る。

「おやおや、まるで効果がありませんね。久々の訪問ですから、ここはひとつ、ドラマティックな要素でもと思ったのですが…」

顔を上げたリパは眉をしならせ、老獪さに輪を掛けた笑みを浮かべた。こっちは本心だとテオドールでもすぐに察せる。ジンは「リパさん、俺が会いに来なくても寂しがらねぇじゃん」と設定に無理があった事を指摘していた。リパは「そんな事は」と言いながらもニヤニヤしているだけだった。多分、ジンが正しい。その内、ジンが折れるように笑った事で、流れる空気に温かみが増した。

ずっと戻れるものなら戻りたいと思っていた、あの夏の日の温室をテオドールは思い出す。

「さて、立ち話も何ですから、中へどうぞ。テオドール様は寒かったでしょう?……と、杞憂でした。随分と薄着で御座いますね」

リパは、窓を背にし、片手を開いて室内へと促してくれる。テオドールの背をジンが優しく押し出す。リパの前を通る時にテオドールは「事前に連絡なくすみません」と謝った。一瞬眉を上げたリパだったが、すぐに微笑み「慣れておりますから」と、よく考えるとおかしな返答をした。カプソディアは北部の端にある辺境伯家。事前連絡もなしに突撃してくる客が多い訳がない。気付きつつも、聞き返すような事はしなかった。

「…他の奴らは気付いたかな?」とジンが尋ねる。

「いえ、ドラゴ様の『隠密』は完璧です。バルコニーへの気配を察せたのは部屋に居たワタクシだけでしょう。……近場に居る団員達には再指導が必要ですね」

笑みを絶やさぬまま、団員達が聞いたら震え上がる事をリパは呟く。

高級感はあるが殺風景に見える室内、暖かな暖炉の前に置かれたソファへとジンとテオドールは座った。
ドラゴをくっつけたままリパが別室へと離れた時、横目で襟巻と化したキュウビを見て、ジンは「それも『変化』か」と感心した声を出す。話題に上げて欲しくないのか、微かに唸り声の震動が首に伝わって来る。

「悪い、もう何も言わねぇ。俺は空気だ」

震えが聞き取れたのか、両手を上げてジンは言う。キュウビには見えてはいない、見えていても分からないだろう人間のハンドサインをするジンに、テオドールは小さく笑う。戻って来たリパはティーポットなどが乗った大きめのトレイを持ってきた。慣れた様子でテーブルの端に跪き、紅茶を入れてくれる。

遅れてやってきたドラゴは両手で白い皿を持ち、テーブルの端に座り込んだ。皿の上にはチーズやサーモンなどが乗ったクラッカーが等間隔に並べられている。持ちにくいのか、ぷるぷるしつつ、爪の先でクラッカーを摘み上げるドラゴをジンは見詰めた。サーモンの匂いを嗅ぎつけたのか、何にしても「また貰ってる…」と思って見ていただけだ。視線に気付いたドラゴは取られると思ったのか、サッと持っていたクラッカーを隠した。従属により多少感情は読める筈なのに。

「それにしても驚きました」

ソーサーを静かに押すようにテオドールの前へと置きながらリパは言う。ジンとドラゴの無言の応酬など気にしない。

「テオドール様がご存命であられて」

柔和な笑みのまま言われた言葉に、テオドールは固まった。

「昨夜のハヴィ家の事件で、テオドール様も犠牲になられたと公的な見解が出たそうで。まさか翌日にこうやってお元気なお姿を見せて頂けるとは」

「……え、も、もう発表されてんの?」

昨日の今日だ。朝刊をロキが持って来てくれたが、まだハヴィ家の事件については何も記載されていなかった。全国紙だったからだろうか。
しかしリパは首を振った。

「いえ、まだ一般には広まっておりません」

「…?」

「リパさん、分かるように説明してあげてよ」

「おや、ジン坊ちゃんに説明不足を指摘されるとは…」

完全に「?」顔で止まってしまったテオドールの横でジンが助け舟を出す。テオドールは音に反応するオモチャのように、声を発する方へと顔を向けるだけになっていた。

「ふふ、そうですね、あんまり意地悪すると折角来て頂けたのに嫌われてしまいそうですし。テオドール様、実はワタクシ、裏稼業を営んでおりまして、その関係で中々に耳が早いので御座います」

「………はい」

跪いたまま見上げてくるリパへ、テオドールは開いていた口を閉じて頷いた。

「驚かれませんね。既にご存じでしたか?」

「いえ、知りませんでした。ただ………平凡な方ではないと、思ってました」

「左様で御座いますか。まあ、貴方様には多くのヒントを差し上げましたし、当然と言えば当然ですね。因みに、具体的な仕事内容などは予測出来ますでしょうか?」

その瞬間、リパを見据えるテオドールの黒い瞳が沈むように暗くなる。深淵。あるいは虚。虹彩と瞳孔が完全に一色になった黒目が見透かしてくる。

ハヴィ家の特徴は髪色だけじゃない。目を合わせれば相手の体格や骨格などを感じ取る事が出来る『目』を持っていた。鎧や服の有無はあまり関係なく、目を合わせた後に知りたい部位を見れば良い。

リパの身体は細く研ぎ澄まされた鋭利な刃物のようだった。無駄が一切ない。老体とは思えない柔軟で強固な肉体。だが、しなやかでどこにでも入り込めそうな細身。健脚を超えるバネを持つ脚。器用さが溢れ出るような指先。

「……暗殺、とか」

当たった場合は失礼なのだろうか、それとも突飛出てると笑われるだろうか。刹那思い悩んだが、もうそれとしか思えず、テオドールは素直に述べた。

「ふふっ、大変素晴らしいです。良いですね。血族由来の特殊な能力眼もしっかりお待ちのようで。ご家族との件により、血族との決別を願ったのではないかと思っておりました。その貴重な能力も血族所以だから、厭うて使わない等と言う愚かな考えが一切なかった所も合格です。出所が何処であれ、ソレは貴方様の武器です。使えるものは使いましょう」

テオドールはギクリとした。本当は一瞬だけ悩んだのだ。ハヴィ家特有の『闇視あんし』に頼る事を。だが、ジンなら関係ないと使うだろうと思い、迷いはすぐに捨てて使用した。褒めるように手を叩き、満足気に立ち上がったリパに、テオドールは密かに安堵した。俺の武器なのだ、と。

「さて、全て承知の上で此方にいらっしゃったと言う事は、貴方様のこれまで奏でて来た譜面をワタクシが作り変えてもよろしいと言う事ですよね?」

胸に手を当ててリパは腰を折り、まるで深々と一礼するように片手を差し出した。テオドールの目に光が戻る。差し出された手は黒い手袋がされていた。記憶にあるリパは執事らしい白い手袋だ。いや、さっきまで白だった。いつの間に、黒い手袋を嵌め直したのだろうか。手袋に注意を引かれていると、隣で紅茶を飲むジンが再び口を開く。

「テオは団員じゃねぇから、その言い方じゃ分かんないよ。リパさん」

「これはこれは。ワタクシとした事が感情が昂ってしまいました。では、簡単に。テオドール様、これからワタクシの世話になると言うのなら、お仕事をして頂きます。それに伴い、貴方様はを名乗る事は出来なくなります。剣士として生きた貴方様はお捨て下さい。その代わりワタクシが直接、死者が生者の世界で生きる術を教えて差し上げます。貴方様を立派に育て直し……いえ、違いますね」

リパの少々大袈裟なボディランゲージ。所作は優雅で、まるで指揮者のように映る。柔和で、老獪で、愉悦にも似た笑みで、リパはテオドールを見詰めた。空を舞っていた指がするりと顎を撫で上げる。

「リ・メイク。イチから作り直しましょう」

鮮やかなピーコックブルーに引き込まれる。この手を取ったらきっと、もう一生表の世界では生きられない。何をするのかも、どんな仕事かも、分からない。まただ。俺はまた何も知らないまま。だけど、この人の言う通り、俺はここに、期待して来たんだ。家族を殺めた事を秘匿にし、法の裁きから逃れ、死者として生きるだけの未来。だからと日陰に蹲って、ただ怯えるような生き方はしたくないし、誰かの(例えばジンとか)の世話になるだけの役立たずにもなりたくない。

今度こそ自分が選んだ道を、自分の足で歩くんだ。

ジンは何も口を挟まない。リパは彼が信じている人だ。ならば尋ねる事さえ野暮ったい。

テオドールは顎に触れる手をしっかりと掴み、重みのある声で答えた。


「よろしくお願いします」


黒い瞳孔、より少し薄い淡黒。暗がりへと落ちる道へ踏み出したと言うのに、その目は絶望を知って尚輝いている。後ろ暗さに食われていない。冷静に燃える静かな灯火。

リパは思い出す。

(あの日のジン坊ちゃんに似ていますね)

暗殺者に必要なものは、世界を憎む事でも、他人を嫌う事でもない。ましてや自死を願ったり、心を壊す事ではない。だったらまだ、狂人の方が使える。だが狂人は自分の快楽を追求しやすいので、肝心な時にコントロールが効かない事もままある。冷静で安定している方が好ましい。他者の哀しみや絶望に引き摺られない強い精神力も欲しい。殺生を特別なものと捉えず、善悪や正邪の堺を朧に出来る者。ジンを知り『本物』を知った。

年甲斐もなく胸が躍る。ジンは最高傑作だった。暗殺者としての道を選びはしなかったが、今でもジンはリパの最高傑作。あの作り上げた快感を忘れられない。

(ワタクシは、狂人ですので…)

あの夏の日、温室でこの子に自分を印象付けておいて良かった。言えば、コインを捨てるつもりのギャンブル、または気紛れな投資のつもりだった。勝敗はどちらでも良かったが、今胸を満たすのは純粋な歓喜だ。

「自棄ではないと分かります。見えぬものを背負うその覚悟……――嗚呼、やはりワタクシの見る目も、『本物』だったようです」

自分を褒めても褒め足りない。リパは破顔し、テオドールに掴まれた手を握手をする形へと握り直した。

「ワタクシと2人で、新たな世界を作りましょうね」

真っすぐと見詰めて来るピーコックブルーの瞳は、似ても似つかない祖父の目を彷彿とさせた。期待と熱意、慈愛と責任。久しく感じる、温かく深い視線。テオドールは静かに深く頷いた。

「あのさ、リパさん。横から悪いんだけどさ、身体を売る仕事だけはさせないで欲しい。テオはもう、俺のだから」

のんびりとした口調でジンが初めて口を挟んだ。リパの目が逸れて、手が離れる。テオドールは頬が熱くなる。他者へとはっきり言われると実感が募る。

「左様で御座いますか。それは……」

しかし顔を赤くしている場合ではない。自分の口からもちゃんと説明するべきだと、無意識に俯いていた顔を上げる。「ならば必要ない」などと言われないように「それ以外なら何でもする」と意思を伝えなければ。

だが、またしてもテオドールの杞憂は無駄に終わる。

「一緒にいらした時から承知しております。おめでとうございます、心よりお祝い申し上げます」

「う…ッ…あ、はい…ありがと、ございます」

勢いを急に削がれてしまい、テオドールは優しいリパの目に更に照れた。

「それで、了承してくれる?」

「ええ、ご心配なく坊ちゃん。実を言いますと、ワタクシ、新しい試みを考えておりまして。テオドール様にはそちらの方で活躍して頂こうかと」

「新しい試み?…だからさっきから産まれ直しとか、新しい世界とか言ってたのか。リパさん、暗殺から離れんの?」

テオドールもそれらの単語には引っ掛かっていた。ジンと共にリパを見詰める。リパは斜め前に置かれていた1人掛けのソファへ腰を下ろす。手には自分の分の紅茶を持ち、緩やかに脚を組む。

今まさに執事と言う立場から離れた事が、その行動から伝って来る。

「いいえ、まさか。まだまだマエストロとして皆の前に立つつもりです。ただーー」

紅茶を口にして、リパは師としての顔付きで2人に微笑む。

「最近の日陰事情に少々危機感を覚えておりまして。調律を合わせようとしても、不協和音は日々大きくなっております。これはもう『楽団』だけの話では御座いません。誰かが撒き始めた種が咲き始め、日陰だけでは収まらず、日向へと根を伸ばしている…日陰に咲く花が日向を侵すのはタブーです。誰かが管理せねば、と思いまして」

独特な言い回しにテオドールは口端を微かに引き攣らせた。何となく、『暗殺者が表にも出てきている』と言うような内容なのは掴めるが、『管理』が何か分からない。自分が関わるのだから、分からないと素直に聞くべきだろうと口を開いた所で、ジンが「んー…」と声を漏らした。ジンには伝わっているのだろうかとテオドールは隣を見て、続きを待った。

「分かんねぇ」

「分かんねぇのかよ」

はっきりと言われた言葉に思わず突っ込みつつも、テオドールは安堵した。ジンが分からないなら自分が分かる筈がない。
リパは2人の遣り取りを見て、愉快そうに目を細めた。まるで理解出来ない事を分かっていたように。

「ふふ、若い方とのお喋りは楽しいですね」

「テオが関わってく事だし、一応ちゃんと聞いておきたいんだけど。意地悪しないで、リパさん」

「俺も知っておきたいです」

「おや、せっかちですねぇ。もう少し会話を楽しんで下さっても…ですがそうですね、ジン坊ちゃんには時間の自由があってないようなものでしょうし、お話致します。平たく言いますと、テオドール様には『暗殺者の暗殺者』になって頂きます。ワタクシの隠し刀として」

「暗殺者の、暗殺者?」

「ライバルギルドの暗殺…とか、ですか?隠し刀ってのは?」

「テオドール様、ご明察で御座います。昨今、増え過ぎた暗殺者達のせいで業界は今や飽和状態。男性のみの『晩餐』に若年者の多い『アトリエ』、最も古い我が『楽団』…仕事の取り合い、テリトリーの荒らし合い、依頼人の重複依頼による現場での無駄な競合。疑心を抱いた依頼人からの暗殺者の暗殺依頼…それに伴う、密偵や裏切り…―――暗殺者として生きて来て、これほどの無秩序は初めてです」

「だから他の暗殺ギルドを減らすって事か?団員でも問題なさそうな気がするが。わざわざイチからテオを仕込むことに意味がある?」

「団員を使えないから、テオドール様を仕込むのです。幸いテオドール様の来訪はワタクシ以外知りません。お2人が直接訪ねて来て下さったお陰です。
先程言った通り、密偵や裏切りが跋扈しておりまして…今は好きに泳いで頂いてますが、いつかは身をもって代償を払って頂く予定です。ですが団員同士の殺しでは、内部が分裂する可能性があります。これは、他ギルドの暗殺者達を『楽団』が殺したとなっても同じくです。
なので…誰も知らない、誰とも繋がっていない、何者かも分からない新たな存在が必要なのです」

リパの表情や態度は変わらない。眉のしなりが特徴的な微笑み、口許を時折隠すカップ。

「これは最早、調律などでは御座いません。言うなれば…『間引き』」

ピーコックブルーの鮮やかな目色が、一瞬だけ冷たく宙を見据えた。

「間引きって……子供を」

「ジン、リパさんが言ってるのは園芸用語の方だと思うぜ。花とか草とか、密集すると育ちが悪くなるから、わざと抜くんだよ。十分に栄養が行き渡るように」

「ああ、そっちが語源か」

感心して頷くジン。同じタイミングでリパも首肯を打った。

「よくご存じで。貴族の坊ちゃん方では馴染みのない御言葉かと思いましたが…流石に常識の範囲内なのでしょうか」

「あー、いや、どうだろ。俺は学園の温室で、庭師のおっちゃん達とよく話してたから」

テオドールは頭を掻く。学生時代、草の匂いに囲まれて、汗と泥で汚れた父親と同年代くらいの男達。最初こそ畏まっていたが、手を叩いて笑い合うくらいに仲良くなった。思い出したのはいつ以来だろうか。卒業から今まで、それどころではなかったから。

「………『温室』ですか」

呟きにテオドールの意識はリパに向く。

「どうかしました?」

「いえね、いくら隠し刀とは言え、後々はきちんとした組織として起ち上げるつもりなので…屋号がいると思っていたのです。『温室』と言うのは中々よろしいではありませんか。ワタクシ、音楽と同じくらい花も好んでおりますし」

「ポテンシャルがすげぇ」

新事業への拡大を視野に入れていたと知り、ジンは驚きと感心を含めた声を漏らした。リパはもう良い歳だ。中途半端な暗殺者には難しいとは言え、マエストロトップにまで登り詰めた彼であれば、隠居し、残りの人生を謳歌出来る権利も財産も持ち合わせている。

「こうなる前は引退を考えた事もあったのですが…手塩に掛けた『楽団』を荒らされたままでは腹の虫がおさまりません。今この時にあなた方がいらした事、神の啓示に他ならない」

「リパさん、神さま信じたんだ」

「なんと、今だけ」

「今回に限り」

「やめろよ…神様安っぽくすんなよ…」

親子よりも強い信頼関係で成り立つ師弟の会話は、平均的な信心を持ち合わせるテオドールには些かハラハラするものがあった。師弟は顔を見合わせ、笑った。
毛程も気にしていない。

「兎角、折角テオドール様が来て下さいましたし、呑気に年老いている場合ではありません。まだまだワタクシの人生は面白くなりそうでは御座いませんか。人生とは自らの手で豊かにしていくもの。音楽や植物は豊かな人生の象徴です」

「皮肉が効いてる名前だよな。楽団、晩餐、アトリエ」

「その3つと一線を画す意味でも『温室』は良い屋号かと。屋号は決まりましたし、次は……従来通りであればお名前を捨てて頂き、依頼に合わせ偽名を作るのですが、新たな組織には新たな制度が良いでしょう。テオドール様、今後、貴方様は『リコリス』を名乗って下さい。

『温室』の『リコリス』

いかがです?」

「……いや、…リコリスって彼岸花だろ。俺の罪の象徴って言ってたの、誰だよ」

「ワタクシですか?」

「ワタクシですよ。テオにはもっと似合う花の名前をあげようぜ」

渋るジンの姿に「またですか」とリパは呆れたような、懐かしむような視線を生温い笑みと共に送る。

「いや、俺、リコリスで良いけど」

決定打を打つのがテオドールだと言う事も、リパには懐かしい。

「え」

「二対一で我々の勝利で御座いますね」

わざとらしい朗らかな声でリパが宣言すると、ジンは眉を下げつつ頷いた。

「…まあ、2人が良いなら、俺は良いけど」

まるで渋々と身を引くような言い方をするジンへ、テオドールは何か言いたげだ。視線に気付き顔を向けたが、テオドールは少しもじもじしただけで言うのをやめてしまう。「?」と首を傾いだジンへ、見守っていたリパが口を開いた。

「坊ちゃん、お気付きになられてないようなので申し上げますが、これ以上彼に似合うお名前はないかと思いますよ。なんせリコリスは『ジン坊ちゃんの花』ですから」

「……あ、あー……成程」

つい先程、自分の口で「俺の罪の象徴」と言ったのだ。リパとテオドールにとって、彼岸花はジンの花。その名を冠すると言う意味を、漸くジンも理解した。
テオドールはいち早くリパの意図を察して、照れていたのだ。

「他人と接する際には愚鈍であれと確かにお教えしましたが、本当に愚鈍になられるのはどうかと思いますよ」

「ホントにな、反省する」

やれやれと首を緩やかに振るリパにジンは笑い、「良い名前だ」とあっさり手の平返しをしながら、満足そうに紅茶を飲んでいる。あまり反省しているようには見えない。

「……あの、リパさん。テオドールって名前を使っちゃダメなら、ジンにもリコリスって呼んで貰った方が良いですか?」

その声に反応が早かったのはジンだ。

「ん?俺はテオって呼ぶよ」

「…と、仰っておられます。ワタクシ、ジン坊ちゃんには勝てませんので、その辺りの事はお2人で話し合って下さい。話し合いが終わりましたら、移動しましょう」

名前の件は2人に判断を委ねて、リパは立ち上がるとテーブルの上を片付け始めた。皿の上を空にしたドラゴは丸まって寝ており、片付けの音に目を覚ます。しょぼしょぼする目でリパを見上げる。

「どこか行くのか?」

「はい、ワタクシの隠れ家へご案内致します。ドラゴさん、飛べますか?」

「様じゃない!?様は!!」

「おや、呼び方気に入ってらしたのですね」

騒ぎ出したドラゴに絡まれつつ、リパはテキパキと片付けを続けた。
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