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再会編
砂を染める夕陽5
しおりを挟むその晩、夕飯にスーはジンを伴って来た。
アルルアでは家人に加え、使用人の多くも共に食事を取る。床に料理が並び、円を描くように絨毯に直接座って食事をする様式なのだ。
上座には本来最も立場が上の人間が座る。だがククルカの家では、首長であるイルラではなく、母のスーの席になっていた。イルラの希望だそうだ。そして右隣にイルラが座り、側近のコナがその右隣に座る。後は使用人達が各々の立場などを考慮し座っていく。隣同士の間には1人から2人分の隙間を開けるので、人数は多くとも狭苦しくは見えない。
スーの客人として左隣に座るジンが、見慣れない食事風景の様子をそれとなく一瞥する。
「手で食べる物もあるんだけど、ジンさんは気にせず食器を使って食べておくれね」
「手で食べる物は手で食べますよ。その方が美味いでしょうから」
元貴族と知ってるスーが気を使ってくれるが、貴族時代から貴族らしさなどなく、偏見や潔癖さもない。直に座って食べる形式にも、手を汚す食べ方にも、ジンは戸惑いを一切見せない。
「さすがは百戦錬磨の冒険者サンだね。それじゃ皆、神々に祈りを捧げようじゃないか」
カラカラと笑うスーがそう言うと皆一斉に十字を切り、手を組んで祈り出す。ジンも同じく祈る。
偶にこうやって祈る機会がある度に思い出すのは、色褪せる事のない天使の笑顔だ。白い十字架は『空間収納』に入れて常に持ち歩いている。
イルラから貰った絵葉書も。
(…貰ったモンは、捨てなくて良いよな)
ちらりと斜め前に見えるイルラを見た。フィルとは遊んだ気配があったが、先程食堂へ入った際にも他人行儀な礼をされただけだ。それでも初日よりはイルラの空気が軟化してるので良しとしよう。カカココは相変わらずジッと見詰めてくる。可愛い奴だ。
食事が始まり、ジンの左隣にはスーの側近をしている女性の1人が座っていて、食べ方や食材などについて丁寧に教えてくれた。食べた事のないスパイシーな鶏肉や独特な香草の辛いスープ。薄いパン生地のような物に肉を巻いたり、千切ってカレーに付けたりと、ただフォークとナイフで食べるよりも面白い。
「口に合うかい、ジンさん」
スーが話しかけて来る。片脚が悪いので食事中でも肘掛けに凭れているスーだが、やはり行儀が悪いと言うよりも、大胆不敵な女王の品格を見せていた。その手に持つ盃がまた一層彼女を際立てる。小柄で少女のようにも見える彼女は、意外な事に酒豪だった。
「ええ、どれも美味しいです。少しだけ狩猟ギルドの食事を思い出します。丸ごと焼いた鶏を、各々のナイフで切り分けたりするので」
「へえ、他所の地域でも狩猟ギルドは豪快なんだね。南部の食事に抵抗がないようで何よりだよ。酒はどうだい?ワインを作ってる部族が居てね。良かったら飲まないかい」
「ありがたい申し出です。砂漠のワインなんて初めて聞きました。ただ、俺は酒が飲めないので……一口だけ、頂くことは可能ですか?」
断られるかと思っていたスーの下がっていた眉が、ひょいと持ちあがり、再び笑った。
「いいよ。でもその為に新しく注ぐのもね。――イルラ、グラスを貸しな」
「………え?…ああ」
ぼんやりとジンの腹辺りを眺めていたイルラは、突然のスーの言葉に深く考えずにグラスを差し出す。母が何をするのかよく分からなかったが、「はい」とスーの手からジンの手へ、イルラが使っていたグラスが渡った。その行為にイルラはドキッとする。まるで間を取り持つような仕草だからだ。
思わずジンを見ると、赤褐色の目もこちらを見ていた。
「……首長がイヤなら遠慮しますよ」
グラスを傾けて、優しく言われる。隣のコナが唸りそうに顔を歪めているのが視界の端に映っているし、他の使用人達の目線もイルラへと集まってしまった。顔が熱くなる。南部では回し飲みは珍しい事じゃない。何なら、ボトルや水筒ごと回す時もある。
「……イヤ、じゃない。飲んでくれ」
「……首長…!」
コナが窘めるような声を出したが、イルラは目で軽く牽制する。他意はないとコナにも自分にも言い聞かせるように。ジンは「では」と軽くグラスを掲げた後、微かにだけグラスを傾けてワインに口をつける。本当に唇が湿る程度だ。その動作が妙に色っぽく、イルラはつい見惚れてしまう。すぐに下りたグラスをジンがスーへと差し出した。
「ありがとうございます」
「どうだい、お味は」
「葡萄が濃くて甘いですが、上品です。華やかで仄かにスモークのような深い香りが鼻を抜けます。瑞々しさの中に渋みがある。マダム・スーをワインにしたら、きっとこういう味になる。そういうワインです」
「…………酒飲めない子の感想だと思えないね」
受け取ったグラスをイルラへと返しつつ、ジンの返しに相槌を打つ。どことなく嬉しそうだ。少し唇が湿る程度の味や香りではワインは語れないと思っていた使用人達は心底驚く。ジンの嗅覚がヒトのそれとは比べ物にならない事を、スーや使用人達は知らないから。
「SS冒険者サマにもなると、何でもお見通しなのかね」
「まあ、そんな所です」
「ハハ!まあ良いさ、ジンさんは酒は嗜まないそうだ。何か他の飲み物を持って来ておくれ」
イルラは手に戻ってきたグラスを眺めつつ、静止していた。妙な意識をして飲むかどうか悩んでいるのだ。コナが呪いでも掛ける気なのかと言うほどに、横から凝視してくるから余計に落ち着かなくなる。そんなコナを見て、横で静かに食事していたカカココがイルラの太腿に乗り上げて威嚇した。使用人の何人かが目を見開く。カカココはイルラとスー以外には懐かない。だからと言って、村民を威嚇するような事はなかったからだ。
カカココの威嚇と使用人達の視線に、コナが怯んだ。その隙にイルラはワインを呷った。ジンが口付けた場所など分からないから、気にする必要ないと勢いを付けて。グラスを下ろした時、ジンとガッツリ目が合ってしまい、アルコールのせいではなく身体が余計に熱くなる。
ふっと細められた赤褐色の目から素早く顔を逸らす。
(普通にしたいと、思ってるのに)
フィルを撫でた事で少しは気を立て直せると思っていたのだが、やはり目の前にするとウダウダしてしまう。
そんなイルラを見詰めつつ、ジンは(可愛いな)としか思っていない。接触出来ずとも、会話すら出来ずとも、彼を目の前にすると只管に愛でたくなる。同じ屋根の下での寝泊まりを気不味く思ってるかもしれないが、そんな彼を見るのも楽しくなって来た。
村を離れればまた疎遠になる。南部での討伐依頼でも入らなければ…いや、入ってもイルラと会えるかは分からない。だから村の中にいるイルラの様子を見ておきたい。
常にこれが最後かもしれないと思っているから。
死ぬ寸前に思い出せるよう、可愛い人は目に焼き付けておくつもりだ。
とは言え、イルラからはっきりと拒まれたらテントに戻るつもりもあった。(今の所、セーフ)と勝手に思ってる。
「ジンさま、お茶です」
左隣に膝をついた女の使用人が声を掛けてきた。見ると湯気の立つカップの乗った盆を差し出している。「ありがとう」と礼を言いながら受け取り、息で湯気を散らして飲む。使用人は下がり、そのままスーの隣へと跪く。
「スー様、水が少ないです」
「おや、そうかい。やっぱりこのままじゃいけないね…。ありがと、下がっていいよ」
スーが頷くと使用人は下がった。ジンはお茶を置き、スーへと少し傾いた。気付いた彼女が顔を寄せてくれる。
「朝の水甕がもう無くなったんですか?」
水甕は大きな物だったが、確かに現在食事している使用人の数を見ると足らないのだろう。そう思い尋ねたがスーは首を振る。
「そっちじゃなくてね。村全体の水の事だよ。水置き場の泉を覚えてるかい?前はもっと水嵩があったんだけど、最近は全然水が増えなくてね。アタシが水属性持ちだからさ、水結晶を少しは作れるけど十何個作ったところで繋ぎにもならない…ま、どれだけ作れたとしても、それじゃ根本的な解決にならないからね。どうしたもんか」
「母さん、水問題もオレがどうにかするから」
憂うスーの溜息に、イルラが反応した。
「なんだい、アレもこれもアタシから奪っていく気?母さんだってひとつくらい仕事したいんだよ。何もしない金食い虫にはなりたくないよ」
「今まで頑張ったんだ、少しは休んで欲しい。それに任せてるコトはひとつじゃない。家のコトもそうだ。何もしてないなんてダレも思わない」
「アンタこそ抱えてる仕事、山ほどあるんだから無理しないの。水問題は村民みんなの問題だ。相談や気付きの報告をいちいち受けるヒマないだろ。動き回るアンタより、家で座ってるだけのアタシが丁度良いのさ」
「でも…今の首長はオレなんだ。オレに任せて欲しい」
「やだね」
親子の仕事の取り合いが始まった。双方が双方を気遣っているのが分かる、なんとも微笑ましい小競り合い。使用人達はいつもの事だと気にすらしていない。そんな中、ジンはあらぬ方向へ目線を投げ、お茶の残りを飲みながら、小さく「…ふーん」と呟いた。
.
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.
次の日、調査団が泉の調査もしようかと言いに来た。環境の変化も調査対象になるそうだ。代表補佐のロージーと、もう1人の女性調査員が残った。他の調査員達は近くの狩場への調査へと向かうそうだ。代表のジーモンに言われ、護衛に村の男達を数人手配した。出発の時、イルラは見送りつつ、ある事に気付いた。
「……アイツは?」
殆どひとりごとだったが、調査員の1人が気付き、「ジンさんですか?」と問いかけて来た。イルラは聞こえていた事に気恥ずかしくなったが、素知らぬ顔で頷く。どうせ赤ら顔と気付かれはしない。
「今日は出掛けてますよ」
大きなリュックを背負うジーモンが答えた。
「……どこへ?」
「場所は……申し訳ありません、まだ夜が明ける前に揺り起こされまして、一言だけ残すとさっさと行ってしまわれたんです。場所は把握しておりませんが、ちょっと出掛けて来るとの事ですので、そんなに遠くには行ってないかと」
「…そう、…なのか?」
色々と規格外の男だ。そもそも初日も『下見』などと言って、1週間はかかる範囲をあっさりと見て回ってきた。ジンの『ちょっと』は疑わしいとイルラは怪訝に思う。しかし、付き合いが浅いジーモンは「今日は我々もそう遠くには行きませんし」と気にしていない様子だ。
ジーモンを追及しても困惑させるだけだろう。イルラは「そうか」と言って調査団を見送った。
調査団ばかり構ってはいられない。今日は少し溜まり気味になっていた書類の処理を行う事にしよう。コナはスーの元へ向かわせた。泉を見てくれている調査員に同行しているのだ。
イルラは自室で1人、黙々と執務し、ふと午後を過ぎて漸くペンを下ろした。途中で使用人が持って来てくれた昼食さえ口にしていない。片手で食べれるようにと、平たく伸ばされた小麦の生地に肉と野菜を巻いてある。焦げ跡が美味そうだが、何となく手を伸ばす気にならず、ぼんやりと眺める。風が吹き込み、書類の端が少し捲れる。太陽の光が窓から差し込み、机の上を明るく照らしていた。
長閑だ。
家の中も外も静かで、乾いた風が砂や木を撫でていく音しかしない。
(昼寝の時間か)
南部では最も気温が上がる時間帯は昼寝の時間になっている。昼寝しない人もいるが、それでも基本的には涼しいところで休む。イルラも休むか考えたが、横になる気になれず、気の向くまま机の抽斗を開けた。
中に入っている小さな宝箱を取り出す。木製だが、絵本などでよく見る宝箱の形を模して作られている。幼い頃、母がわざわざ中央から取り寄せてくれた物だ。
小さな鍵穴に親指を当て魔力を流すと、蓋が開く。当時はすごい技術だと思っていたが、誰が魔力を流しても開く仕様だ。それに叩き壊せば結局中身は取り出せるので、単なる子供のオモチャであり、ただの小物入れでしかない。
それでもイルラは人に見られたくない物は、この宝箱にしまった。
中には祖父と父親の遺品やアクセサリーなどと一緒に、絵を描く為の筆と紙、絵具に小瓶。パレット代わりの板。そして、今まで描いてきた絵。気に入ったものや褒めて貰えた絵を残していた。だが、1番目立つのは、蓋の裏に貼られた1枚の絵だろう。
真っ白い絵具で描かれた、雪の絵。風化させたくなく、紙の保存魔術をわざわざ学び直して掛けている。
箱を抱くように頬杖をして、雪の絵を見詰めた。
様々な思い出が甦る。共に過ごした友人達とも疎遠になってしまった。ジンが消えた事でふっつりとその糸が切れたようだ。卒業パーティーの日、誰もジンについて口に出さなかった事が、その一因になっているようにも思う。誰も胸の内を明かさなかった。あの時、ジンの事を話せていれば、きっと今でも連絡を取り合っていただろう。だが誰もが胸に秘めてしまった。
思い出を共有し、文句のひとつでも言い合える相手が1人でも居れば、きっと今の状況も色々と違ったのだろう。
雪の絵を撫でた。冷たくもないし、濡れもしない。絵具が乾いたカサついた質感。まるで白い砂のようにも見えた。ここまで白い砂漠はないが。そして思い出す。送りつけた絵葉書。ジンと再び繋がりを持てたなら、思い出と化した友人達ともまた会えるんじゃないかと言う期待もあった。
「…あの絵、けっこう頑張ったんだぞ」
わざわざ描く場所を探し、砂漠の中でも珍しい夕焼けで赤く染まる区域を選んだ。近場の村に泊まり、コナや他の従者に気付かれないように抜け出すのは大変だった。岩場の上、影もない場所で、慣れてる筈の暑さに汗を掻きながら何枚も描いた。
赤く燃える砂に、オマエを思い浮かべながら。
「………はあ…」
ーーーコンコン
溜息を吐いた瞬間、壁を叩く音が重なった。弾かれたように身を起こしながら、すかさず宝箱の蓋を閉める。
「はい」
「首長、スー様がお呼びです」
蓋に手を置いたまま振り返る。ストリングカーテンの端に使用人の影が見えた。使用人達は覗くような不躾なことはしないし、紐状のカーテンだが案外中は見えないものだ。それでも飛び上がった鼓動を落ち着かせつつ、「分かった」と返事をして宝箱をサッと抽斗へ戻す。
食べていなかった昼食を掴んだ。歩きながら食べてしまおうと。イルラが立ち上がれば、何も言わずともカカココは身体を這い上がる。
.
.
.
スーの部屋に行くと、泉の調査に出ていたロージーと女性調査員も居た。脇に座る2人をイルラはチラリと見るが、ひとまずスーが座る前へと腰を下ろす。
「やっぱり休んでなかったね。仕事はひと段落ついたかい?」
お見通しのようにスーは言う。イルラは頷いた。
「泉の調査だけど、結論としては解決は難しいそうだ。それでも、原因くらいは耳に入れときたいだろ?」
「はい。……その前にコナは?」
「狩場調査の方に向かってた代表達が帰って来たそうだ。予定より早いモンだから、一応コナに様子を見に行かせたんだよ。何もなければそのまま一緒に休憩を取るように伝えてる」
「……そう、ですか」
「うん。戻ってこないから、何もなかったんだろうね。それじゃ、ロージー。首長に報告しておくれ」
だから随分と静かだったのか。調査団が来てからコナは寝る時以外離れない(何なら寝る時も見張ると言っていた)ので、1人の時間がほとんどなかったのだ。イルラは定期的に1人の時間が欲しいタイプだし、コナに対して警戒心を剥き出しにしていたカカココの気を休める時間も欲しかった。スーの気遣いだろう。
「ーーので、結果から言いますと、泉の水量の減少も現在世間を騒がせている『異常』のひとつと判断して良さそうです」
少しばかり話を聞いていなかった。大方最初は挨拶などだから問題はない。多分。
イルラは聞いていなかった事を悟られないように顔を保ち、ロージーを改めて意識して見詰めた。調査団の中では若いとは言え、ずっと年上の女性だ。紙を片手に眼鏡を掛けた姿からは、研究者らしい慧敏さを感じる。
「そう判断した理由は何だろうか」
「はい、現在世界中で問題となっている『異常』には『自然魔素の数値や流動の変化』と言う特徴があります。それ以外に今解明されている特徴がない…とも言えますが…。アルルアの泉も、例年の自然魔素の数値を比較した所、著しい魔素の低下を確認致しました」
「…自然魔素」
この世の全てに存在している魔素。魔力の根源であり、全ての物質を構築していると言われている源。空、海、大地、木々に生命。もちろん、人間も例外でなく、肉体や魂にも魔素は存在しているーーと言われている。
「はい、自然魔素は存在するだけで、魔素自体はあまり大きな変化を見せません。ですが今回の『異常』では魔素の増減や流動が激しい事が、各地の調査で確認されています」
そう言うとロージーは足元に紙の束を置いた。見覚えのある紙だ。
「スー様が年に一度、南部のあらゆる場所の魔素数値を残しておいて下さったので助かりました」
「アタシはただ狩猟ギルドを通して頼んだだけだよ。実際に調べてくれたのは、アンタ達みたいな学者サンさ」
「ですが、ここ10年分ほどの調査結果をまとめ置いて下さったのはスー様ご本人ですよね。素晴らしいです。おかげで泉の魔素の異常を正確に把握出来ました」
ロージーともう1人の女性調査員が頷きながら、手元の書類を見ている。母は穏やかに笑った。
「散々無意味だとか言われてたけどね、やっておいて良かったよ」
そうだ。イルラは知っている。年に一度、祖父や父、他の犠牲者達の命日の数日後に、母は必ず他方から学者や研究員を呼び寄せた。これにはアルルアの民も、他部族達も、母の行為を金の無駄だと言い捨てた。
それでも母は毎年必ず行っていた。
イルラはスーを見詰める。「なぜ無意味と言われる事をするのか」と聞いたことがある。スーは「何か大きな出来事の前には必ず予兆がある。あの魔物が来る直前、小型の魔物達の様子が変だとあの人が言ってたんだよ」と教えてくれた。スーも漠然としていたし、イルラもよく分からなかった。
見詰めるイルラに気付き、スーと目が合う。
「例え無駄かもしれなくても、今までやらなった事をしないと変わらないだろ。実は役に立ったことは他にもあるんだよ」
知っている。ある時から、年に一度の学者の訪問は当たり前になったし、他部族からわざわざ学者に知恵を借りる人も現れた。そのおかげで、枯れかけたオアシスの植林に成功した時もあったのだ。学者は歩く知識だ。何も魔素の数値を調べるだけの存在ではなかった。
それに気付けたのは、スーが諦めなかったからだ。
(……母のように、オレもなれるだろうか)
胡座の上に乗せた両手を握り込む。自分のことしか考えられず、悩んでいることが恥ずかしい。
イルラは気を引き締め、ロージーへと顔を向け直す。
「……魔素を増やせば泉は戻るか?魔素はより多く、より強い方へ引っ張られると言う性質があるが」
「可能性はあります。ただ…この魔素は、先程も言ったように、正常状態の場合は変動がほぼありません。この『異常』と同速度で泉の魔素が戻るかは不明ですし、その『より多くより強いもの』の定義が非常に難しいのです」
「例えばで良い、今その定義に当て嵌まるものは存在するか?」
ロージーが並ぶ女性調査員へ顔を向けた。少し考え込んだ後、顔を上げる。
「…そうですね、はっきりしているものは『神殿』そして『魔塔』です。人工物でありながら、自然魔素がかなり検出されます。後、『貴族学園』ですね。こちらは学園長がエルフ種である事が理由かと思われます。それと……一応…『魔獣』です…」
「………」
なるほど、用意出来るワケがない。
「神殿と魔塔は施設そのものと言うより、そこに集まる人々の強い魔力の集合体へ引き寄せられているのではと考えられています」
「集合体…ならば、首都などの人の多い場所も魔素は集まるのか?」
「いえ……人がいれば良いと言う事ではないようです。それなら、魔物の群れの方がまだ可能性はありますね」
「…魔物の群れ?」
女性調査員は腕を組んだ。
「魔力純度や濃度の問題かなと言われてます。やっぱり魔物は『魔』が名に付くだけあり、その魔力は人間より多いんですよ。人間が100人いるより、魔物が1体居る方が魔素は動くと思います」
イルラもスーもカカココを見た。カカココは急に視線が集まり「ん?」と交互に見返す。
「す、すみません!例え話です!本当に1体では難しいかと…人間が数集まるよりってだけで…すみません…」
ぺこぺこする調査員に「ああ…」と思わず嘆息混じりの声が出た。彼女に対してと言うよりも、解決策の目処がまるで立たないことへの声だった。ロージーも一緒になって謝り出したので、そんなに謝ることではないと言おうとした時だった。
カカココが鎌首を擡げて、ある方向へといきなり振り返った。突然の行動に全員の動きが止まる。
そして、数秒後、皮膚を舐めるように足元から悪寒がイルラを包み込む。
大地が微かに震えている。
素早く立ち上がるとスーが不安げにイルラを見上げた。
「どうしたんだい」
「何かが来てる。母さん、屋敷内に居る使用人たちを集めておいてくれ」
「えっ…イルラ!?」
「危険を感じたらすぐに避難するんだ」
それだけ言うとイルラは外へ飛び出して行った。
その時、アルルアの村に向かって砂煙が移動していた。小さな砂煙を、大きな砂煙が追い掛けるような、大移動だ。更に空からは無数の影も落ちている。
数え切れない魔物の鳴き声が砂漠の大地を震わせていた。
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