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学園編 3年目

狼の歯噛み3

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「……れ…、…しいな……のうが…」

耳に入り込む声に意識がぼんやりと戻って来た。ジンが重たい瞼を開くと見えたのは、見慣れない天井。小ぶりだがシャンデリアがキラキラと光を弾いていた。思考らしい思考をしないまま、何となく違和感を覚える右腕へと顔を向けた。

(ヴァレリオがいる、ベッドの横でしゃがみこんで何を…手に何か持ってる、なんだ…先が細い、注射器のような…)

そこで意識がはっきりとした。

「何してんだお前」

声を掛けるとヴァレリオはビクッと顔を跳ね上げ、ジンを見た。(もう起きたの?)と心底驚いているのが分かるが、構わずに身を起こす。腕にチクチクと痛みが走った。

右腕に浮かぶ小さな黒い点注射痕。ひとつふたつではない、いくつもの点が疎に肌に打たれている。

毒針や細い歯などを持つ魔物にやられた時とは違い、得体の知れない痕跡にジンはゾッとした。

「お前、何を」

右腕を摩りながら、立ち上がるヴァレリオを見上げた。ヴァレリオは悪気もなさそうに首を傾げて、手に持っていた注射器を掲げて見せる。

「これはね、注射器。知ってる?王国では医療技術が魔術頼りだから、あんまり見た事ないかな?帝国では体内に薬や栄養を直接流す時に使うんだ。危ないものじゃないよ」

「……危ねぇだろ、つか、危なくなくてもこえーよ」

素の声だ。あまりにも平然としているヴァレリオにジンは静かに困惑した。人の身体に無許可で針を刺すのが皇族の挨拶なんだろうかとか、寝起きのせいなのか、回らない頭が変なことを考える。

「…食事の途中だったろ。お前、どうやって俺の意識奪ったんだ」

思い出しつつも、記憶がぶつ切りだ。

「意識は奪ってないよ、ジン先輩が突然眠っちゃっただけ。ボクは元気になって欲しかったから…」

しょげた顔を作ってヴァレリオは注射器を見た後、足元へと落とした。カラランと軽い音が幾重にも聞こえ、注射器が複数あった事が伝わってくる。ヴァレリオはギシリとベッドへと乗ってきて、ジンへとしだれかかる。

「ね、先輩。元気になった?」

「………どこを元気にしようと思ってんの、お前」

ヴァレリオの手が太腿を撫で上げてきたので、大事な所を触られる前に手首を掴んだ。確かにちょっとムラムラするが、ヴァレリオ相手に発散しようとは思えない。

「……先輩、ボクってかわいいよね?」

「……世間一般的な話なら、相当可愛いと思いますよ。俺の意見を聞きたいなら、可愛いけど、って感じです」

「けどって何…先輩って本当に変だよ。変。おかしい。どっか壊れてるんじゃない?」

「そんなもん誰だってどこかしら壊れてるだろ。それがどうかしたか」

「ボクは壊れてない。ボクは産まれた時から完璧なギフテッドだ。人々に賞賛され傅かれるべき人種だ。だから」

ヴァレリオが腕を掴んでくる。引っ張られて晒された腕の内側の注射痕は更に黒ずみが増し、少し腫れているようだ。
あまり見ない傷に意識を引かれて、ヴァレリオの言葉は話半分で聞いていた。

「だからお前もボクを愛するべきなんだ」

「お前いったい何回刺したんだよ」

「話を聞けよ!!!このうすのろ!!!!」

呑気なジンの態度にヴァレリオが「ギイイイ!!!」と猿のような声を上げた。溜まりに溜まった鬱憤を吐き散らかす。周囲に人の目がないからだろう。

「いや、だって普通に何されたのかの方が気にな…」


「媚薬をいれたんだよ!!!」


とんでない事を言い出したヴァレリオにジンは黙って目線を送った。真偽が分からず困惑する。

「寝てても反応があるって言われてたのに、何回打ってもお前は呑気に寝ているだけだし!!おかげで念のために多めに貰っていた分を全部使い切ったよ!廃人になる可能性があるとか言っていたが、あのヤブ薬師め!!本国に戻ったら覚えておけ!!」

「………」

ジンは引いている。ドン引きである。顔の変わらないジンにヴァレリオは引かれているとは思ってないのか、顔を両手で挟んで引き寄せた。緑の目は煌々と透明度の高い若葉色を誇っている。

「…ボク、かわいいよね?」

「……ええ、まあ…ヤろうとは思わねぇけど」

「…ッ…なんで、どうして、ボクの『誘惑エロス』が効かないの…どうして!!」

「……『誘惑エロス』?…だからいつも自信満々だったのか」

言われて思い出すと同時に、時折起こっていた心身の乖離状態にも納得がいった。実際にレベルが高い外見をしているが、異常とも言える絶対的自信には根拠があったのか。

他人の心と性に作用する先天性の魅了系魔術。
フェロモン型の魔力粒子が持ち主の意思とは関係なく常に放出されていて、自他ともに無意識に効果が発動すると言うやっかいな特性だ。

目の前のヴァレリオは自覚も意思もあるようだが。

(ギフテッド神からの贈り物は『誘惑エロス』の事を言ってんだな…)

「ボクを見てたら手に入れたくなるだろ?ボクが見詰めたら男も女もみんなボクをべた褒めしてきたよ。ボクの為なら何でもできるって!先輩もそうなるべきなんだよ!」

「ならねぇよ、強制される事が嫌いだからな」

無意識の強制力を無意識に脳が抵抗していたのだろう。ジンにとって”恋心”は未知であり脅威でもある。下心とは似て非なる胸のときめきを、客観的かつ懐疑的に見ていた事が『誘惑エロス』の効果を薄めていた。

喚くヴァレリオをぐいっと押してジンはベッドから降りようとする。その腕を胸に抱くように掴んで、ヴァレリオは必死にしがみついた。そんなことをされても簡単に払えるのだが、一応は説得をしようと顔を向けた。

「もうムキになるなよ。いくらドラゴンが欲しいからって、お前がそこまで必死になる必要はないだろ。『誘惑エロス』が効かないからって媚薬まで使って俺を嵌めようなんて。他人を操ろうってのはどうかと思うし、お前自身も無事じゃすまねぇぞ」

「……あいつらと同じような事言うんだね」

「は?」

「シャドーマン…ネズミだよ。あいつらも同じこと言ってた。この作戦を思いついた時、お前に襲われてしまうとか、お前に汚されてしまうとか」

「……まあ、お前の作戦通りいってたら、そうなる可能性はあったろうな」

「あのさ、ボクが考えなしに自分の身を差し出すような真似すると思う?」

「現にやってんじゃねぇか………え、いや、まさかお前」

ヴァレリオは胸に抱く腕を強く抱きしめて、見上げて来た。

「お前になら汚されてもいいと思ったんだよ。万が一なんかじゃなくて、襲ってくるようにと思ってたんだ。なのに…」

若葉色の目線が座るジンの足の間へと落とされた。膨らみは見えるが、それは単にサイズの問題だとヴァレリオでも分かった。

「…お前、いくらなんでも」

「ドラゴンはついで。最初はそのつもりだったけど、今は、お前が手に入る方が重要。お前がボクのものになれば、ドラゴンだってボクのものになるしね」

「冗談でも本気でもやめろ」

「ネズミ達はお前を好きになったらダメだってうるさかったから、あいつらの前では言えなかったけど。ボクは本気。…ジン先輩、ボク、物心ついた時に『誘惑エロス』が解放されてしまったんだ。本当なら第二次性徴が過ぎてから…今のくらいの年になって解放されるらしいんだけど、ボクは早過ぎたんだって。お父様がすぐに気付いて、これをボクに着けた」

そう言うヴァレリオの手には、瞳と似た色のネックレスがぶら下がっていた。いつも胸に着けている物だと一目で分かる。

「これ、フェロモンも『誘惑エロス』も制御できる魔具なんだ。皇族の家宝。『誘惑エロス』を巻き散らすと襲われる可能性があるからね。まあ、『誘惑エロス』持ちって性に早熟で開放的な性格が多いから、痛ましい事件に発展する事は少ないらしいけど。ボクの場合は年齢が年齢だったから」

「……」

(痛ましい事件)

初めて『誘惑エロス』の話を聞いたのは、馬車の中だ。シヴァは『誘惑エロス』持ちに狂わされた人々の話をしていた。だがヴァレリオは痛ましい事件は少ないと言う。

(自覚がない、ってのは、こういうのも含めての事なのか)

持ってる側の視点からは、持っていない側の視点は見えにくいのかもしれない。

「…そう、じゃあ、しっかり首にかけておけよ。自分の身も家宝のように大事にしろ」

「もう要らない」

「はい?」

ヴァレリオはネックレスを放り投げた。床を跳ねたネックレスはあまりにも軽く見える。

「『誘惑エロス』は使い道だと思ってた。だから必要な時に制御を解いて、必要な時に制御する。それでもみんなボクを好きになって、ボクがお願いしたら何でも聞いてくれて。ボクの『誘惑エロス』って強いんだ、だから『手を出さないで』って言えば、ボクが裸でベッドで寝てたって、みんな指を咥えて見てる事しか出来ないんだよ。面白いよね?」

「…そういうの悪趣味って言うんだよ、全然面白くねぇ」

「先輩には言わないよ。むしろ『手を出して』ってお願いする。だからネックレスはもう要らない。ボク、誰にも触らせたことないし、きれいな身体だよ。先輩が教えて」

「やめろって言ってんだろ」

「先輩が好き。こんなに手に入れたいって思った人はじめて。先輩なら帝国に連れて行って、ボクの恋人として贅沢させてあげるし、一生面倒見てあげたって良い。ボクと付き合えるなんてすごいことなんだよ?このボクが誘ってあげてるんだよ?先輩、ね?」

「仮にそれが本当だとしても、いや、本当なら尚のこと絶対ヤらねぇ。そうじゃなくてもヤらねぇ。ネズミはどうした…って、締め出してんのか…」

熱烈だが迷惑極まりない。ジンはここまで執着される事に慣れておらず、たじろぎながら、ようやく周囲を見渡した。自分たちしかいない室内、結界が室内を囲っている気配に呆れてしまう。

「どうして?ジン先輩、ボク…ジン先輩になら」

ヴァレリオの緑の瞳が潤んだ。庇護欲をそそられるような気分とうんざりとしてしまう気分が、脳内で戦っている。
本気だと言う発言も、薬を使ってまで事に及ぼうとしていた事も、ジンの想定を大きく超えていた。

(ガキだと思って油断してたな…あーくそ、何でこんな事に…)

自分の甘さをつくづく痛感しつつ、いろいろと言い訳をするがどうにも頭が回らない。
イライラしながら窓へと視線を投げた。

(思っていた展開と違う…)

脅迫や拷問など、もっと暴力的で直接的なドラゴン強奪を目論むんじゃないかと思っていた。懐柔されるような性格ではないことは、監視していたネズミ達がよく知ってる筈だからだ。

それでも好意を装っていたのは、ヴァレリオが自分に絶対的な自信があったからだと言うのは理解出来た。

(…いや、装ってたんじゃなく、本気で俺を落とそうとしてたんだっけか)

しっかりと腕を抱き締めて、ヴァレリオは身体を擦り寄せてくる。一気に振り払うか、まだ説得を続けるか悩ましい。

腹の底と言うか、身体の芯と言うか、込み上げてくる焦燥感のような苛立ちが頭の回転を遅くする。

「男は初めてを散らすのが好きって聞くよ」

「嫌な言い方だな。俺は散らすより貰う方が良い」

「じゃあ、あげる」

「お前のはいらねぇって言ってんだろ。俺は本気の奴とは関係を持たない」

「…だからあの剣士崩れには手を出さないんだ?」

ビキッと自分のこめかみが音を立てた気がした。気が立っていると、もう1人の自分が俯瞰で見ているのに、冷静さが端から崩れていく感覚を止められない。

腕を無理矢理抜いて立ち上がる。

「ジンせんぱ」

「崩れじゃなくて剣士だよ、アイツは立派な剣士だ」

肩越しに睨み付けられヴァレリオは硬直した。全身が勝手に震え、冷や汗が背中を伝う。目線が逸れて、無意識に呼吸を止めていたことにヴァレリオは気付いた。数秒の出来事だと言うのに呼吸が荒くなる。

「アイツに手を出さない理由はそんなんじゃねぇ」

見もせずに呟く。ふと足元に転がっていた銀のトレイの中に視線が誘われた。注射器だ。細いガラス材の注射器とアンプルが数個転がっている。一瞬、持ち出そうかと思ったが急激に面倒になり、無視してドアへと向かう。

「ど、どこに行くって言うの。外には出られないよ、ボクの結界がーーー」

ーーーバリン

ジンがドアノブに触れただけで結界が崩壊し、ヴァレリオの言葉を遮る。光干渉で虹色に光って散っていく結界の残骸。崩れ落ちる結界を初めて見るヴァレリオは呆然とした。

(…ただの冒険者だと、聞いてたのに。なんで?なんで結界が壊れたの。身体能力は高いけど、魔術の成績は大した事ないって)

本来ハンターや冒険者は、魔術を最低限しか扱えない者が多い。元が賞金稼ぎのような仕事だからだろう。基礎を学んで技術を鍛えるような場所も余裕もなかった者達が、自分たちの肉体と武力だけで作り上げた組織。
現在ではギルドが希望者には魔術を教える場を提供し、魔術を扱うギルド登録者も少なくはないが、レベルはたかが知れている。

それは王国も帝国も似たようなものだった。
ネズミ達からの報告でジンの成績や授業態度からも、逃げ足は早いが突出したものはないと聞かされていたヴァレリオは、目の前で起こった出来事に理解が追いつかない。

(ユリウスを助けたと表彰されたのは、単に学生冒険者と言う肩書きを国が推す事で、課外授業時の生徒の問題行動やギルドの過失なんかをうやむやにする為だと思ってたのに、待って、まさか本当に)

去年の夏、まだ1年だったヴァレリオは特別課外授業の話を噂として聞いただけだ。入学してから薄らと話題になっていたドラゴンが居ると言う噂が、学生冒険者が従属主だと言う噂と絡み出して急速に広がった。

そして異例の全生徒を招集しての表彰式。わざとらしく大袈裟な催しの中、舞台に立つジンを見た。その時は地味で根暗そうな男としか思わなかった。ただ、大衆の面前で照れることもなく、第二王子相手に怖気付くこともない佇まいは印象深かった。

(あの時はユリウスが舐められてるんだと思ってた…でも、あの噂が、ユリウスや生徒を守る為に魔物も魔獣も1人で倒したのが本当だって言うなら…そうだ、そうだよ、ドラゴンの従属主だもの。特別な従属方法があったんじゃなく、単純に強い事を隠していただけなんだ)

「待って先輩!!」

(手に入れたい、お前を手に入れれば兄達も…ううん、それどころかお父様すら、もうボクの敵じゃない)

呼び止めてもジンは止まりもしなければ、振り返りもしない。ドアの前に待機していたらしいネズミの間を乱暴に突っ切って行く。

慌てて追おうとしてベッドから降りた所で、ネズミ達が部屋に入ってきた。口々に「無事ですか」「一体何が」とヴァレリオへ心配の声を掛けるが、ヴァレリオも乱暴にネズミ達を突き飛ばす。

だが寝室から出たら、ジンの姿はもうなかった。

「……先輩」

それでもヴァレリオはジンの後を追うように、部屋から飛び出していく。
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