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学園編 2年目

特別課外授業4

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渓流チームから貴族科の生徒が多く抜け、どのチームよりも人数が少なくなった。
それは有難い事だったと、エドワードは思う。

「分断さえされなけりゃ、もっと良かったんだが」

川を挟んで向こう側へ飛ばされた生徒2名が心配だ。
中央のハンターも2名一緒に飛ばされたから、何とか退路を見出してくれると思うが。

しかし元々渓流コースは最も楽観されていた。
拠点への行き来が平坦で距離も他の場所より近いからだ。その為、中央から配置されたハンター達のランクはBとCのみ。それも成り立てや経験が浅そうな若い連中。

若くてもジンのような例外も居るから、歳だけで判断する気はないが、ここに来たハンター達は年相応としか思えなかった。

エドワードの視線が目の前に流れる渓流へ移る。
川には、おどろおどろしい黒い油のようなゆらめきが揺蕩っていた。

揺禍体フルクトゥアトだ。
粘液状の魔獣で、水辺の生き物などに擬態する。
普段は影や暗がりに潜んでおり、獲物は待ち伏せて捕食。動きは緩慢だが、靄状の百群体ケントゥリアより不可解で戦いにくいと聞く。

エドワードはこれまで3度、魔獣と戦ったがそのどれもがケントゥリアだった。

残念ながら姿をはっきりと目視する事は出来なかった。
ただ、渓流の流れなど無視した黒い油の揺らめきは、エドワードが見える範囲に隙間なく存在する。

恐ろしく長い身体を作り上げている個体だと言う事は予測出来る。

本当なら今すぐ帰還し、ギルドに報告、魔塔へ報告、協力体制を敷き、万全の準備をして、討伐へと向かうのだ。

「かァ~ッ!帰りてェ~!」

ぼやきながらもエドワードは全身の『肉体強化』を強め、水面に向かって上位風魔術を放った。

魔獣はとにかく強い魔力に反応する。
だから誘き寄せる為に魔術を放つ。もう何度か繰り返してる。

しかしいくらやっても反応がない。

「……もしかして、向こうに強い魔力持ちがいるのか」

対岸にいるだろう4名を除き、ここに残るのは自分だけ。他生徒は相棒のグラスへ任せて拠点まで逃がした。
生徒たちが落下しないように抑えてて貰うために、若いハンターを自分の代わりに乗せて。

主人のいないグラスは猪突猛進、止まる術は何かにぶつかる事だけだが、そこはガランが居るからどうにかしてくれるだろうと願掛けに近い期待を込めて見送った。

魔力全開で走り去るグラスにも少しも反応せず、いまだに沈黙を守る魔獣は本当に不可解だ。

「……俺、魔力感知能力皆無なんだよ…誰が強い魔力持ってるかによってだいぶ状況変わるぞ…ハンターのどっちかなら良いけど…もし…いや、でもな…さすがに…」

不安と焦燥で独り言が増えてしまう。

真実を確かめようにも向こう側へ渡る為に川に入るのは自殺行為だろうし、跳べばギリギリ届くだろうが滞空中に攻撃をされればモロに食らう。

迂回するしかないが、どちらに行くかで命運が決まりそうだ。

「…くそ…向こうのハンターに期待するしかねぇか」

せめて生徒2人を連れ帰って来てくれればと。

.
.
.

「イルラ、足大丈夫っすか?」

岩場に隠れた状態で、ハンスが岩に凭れて足を見ていたイルラへこそりと話しかける。
靴を脱ぎ、左足を確認していたイルラは眉を顰めながら頷いた。

「…大した事はない。ただ…あまり早くは走れないかもしれない」

「……嘘は良くないっすよ。めちゃくちゃ腫れてるじゃねぇっすか。これ、折れてねぇ?」

イルラの左足首は痛々しく真っ赤に腫れ上がっている。

「折れてはいない、と思う。見た目ほど痛くはないんだ。ただ、力を入れられない」

「ホントっすか?すげぇ痛そうだけど…くそ、俺のバッグに回復薬ポーションあったのに…」

ハンスは岩場から様子を見るように鞄を落としてしまった川を覗き込んだ。
先程、あちらの対岸からこちらへとイルラと共に放り投げられたのだ。

突然現れた大型の魔物に。

それは大きな大きな亀だった。
まるで浮島のような背中を持った亀は、水面をのそりと歩いて来ていた。

夢の中の出来事みたいで、全員がぼんやりと亀を眺めてしまった。
北部の冒険者だと言うエドワードだけが、すぐさま川から離れるように叫んだ。

だがもう遅かった。

亀は突然気が狂ったように怒り始め、背中に島のように生やしていた植物を縦横無尽に振り回した。
エドワードが槍を取り出し、植物を叩き切りながら近場の生徒達を救出してるのが見えた。
だが隣にいたイルラの姿さえ見えなくなるくらい視界が緑に覆われて、蔦や蔓で絡め取られた身体は強い力で引き寄せられた。

足が浮いたと思った瞬間、今度は空へと放り出された。

その時見えたのは、下で驚いているエドワードと、その後ろに控えてバチバチと光を放つ猪。

そして川面へと黒い何かに引き摺り込まれていく亀だった。

ーーーーギィヤアアアアアアアァァ……

耳に残る、亀の雄叫び。

その直後、地面に落下した。
ハンスは頭から落ちたが咄嗟に庇った腕が受け身になり、落下地点が柔らかな草地だった事もあり、大きな怪我はしなかった。土や草で汚れたし、全身に傷が出来たが、なんて事ない。
慌てて立ち上がり、何が起こったのか見に行こうと川へ戻ろうとしたらイルラが倒れていた。
起き上がろうとして動けなくなったような体勢だった。カカココが懸命にイルラの周りを囲い、周囲を警戒している。

「イルラ!」

「ハンスか…すまん、手を貸して欲しい」

「もちろんっす、どっか痛むっすか?」

そうして岩場に座らせたら、左足首がパンパンに腫れていたのだ。

「…あの魔物に振り回された時に痛めたと思う。でも着地の時に失敗したのが決定打だ。…オレのドジだ」

「何言ってんすか!打ったのが頭とかじゃなかったんだから成功っすよ!歩けないくらいは何とかなるっす」

取り敢えず冷そうとハンスはポケットからハンカチを取り出し、イルラの足首に巻いて上から氷魔術で氷をハンカチの上へと作り出す。

「…ありがとう」

「良いっす!それよりカカココは大丈夫っすか?」

「ああ、大丈夫だ。カカココにケガがなくて良かった」

カカココはイルラの首に戻り、青い舌を忙しなく出し入れしている。ハンスやイルラ同様に汚れたり軽い傷はあるが、双頭のどちらもしっかりした目をしてる。しかしどことなく、しょんぼりしている様な、申し訳なさそうな顔に見えた。

「…なんか元気ないっすね?」

「……オレのドジを、自分のせいだと思ってるんだと思う。そんな顔をするな、カカココ」

着地の瞬間、思わずカカココを庇ってしまい体勢を崩した。しかしそれは自分の判断ミスであり、実力不足なだけだ。イルラは優しくカカココの胴体を撫でる。

「仲良しっすね」

氷が溶けて来たハンカチへとハンスが手を触れる。

「…うん」

はにかむような柔らかな微笑みで頷くイルラと、グイグイとイルラの顔に頭を押し付けるカカココにハンスの胸までほんわかとしてくる。

その時、対岸からバチバチと弾ける様な音が聞こえた。
2人して顔を向けたが、イルラの場所からは見えないし、ハンスが首を伸ばして辛うじて見える対岸で光が迸るのが見えただけ。
そしてその光が動くと同時に地面を走る音がした。

「…猪だ」
「…猪だ!」

顔を合わせて答え合わせをする。2人とも見えなかったが走り去った何かの正体がすぐに分かった。
イルラは高い魔力感知で、ハンスは持ち前の勘の良さで。

「エドワードさんが行っちゃったんすかね」

「分からない…」

「俺、行って確認して来るっす」

「ダメだ!」

立ちあがろうとしたハンスの腕を掴んだ。
その勢いに驚きハンスは動きを止める。
グッと手に力が入り、イルラは見えない川へと顔を向けた。

「川に…何かいる」

「何かって…」

「…もしかしたら、魔獣かもしれない。魔力が変だ。初めて感じる、こんな感覚。カカココもずっと怯えている」

「…ま、魔獣って…」

知ってはいるが馴染みはない単語。
だけどゾワッとしてハンスはしゃがみ込み直し、イルラの傍に寄ると川をそっと覗き込む。川は陽光をゆらゆらとしているが、確かに何か、てらてらとした黒い影が見え隠れしているようにも見える。
もっと近付けば分かるんだろうが、しっかりと握られた腕がイルラの恐怖心を伝えて来るのでそんな気にはなれない。


「あ、」

突然声が聞こえて、イルラとハンスは跳ね上がるほど驚いた。
振り返ると一緒に来ていたハンターの2人が立っていた。どちらも怪我もなく、汚れもない。

ハンスは希望が見えた気がして、立ち上がった。

「良かったっす!助けに来てくれたんすよね、イルラが足ケガしちゃってて」

2人は顔を見合わせた後、ハンスとイルラをじろじろと眺め見る。
近付いても来ない様子に少しハンスは不信に思う。

「君…その従魔ってツインヘッドスネークだよな?」

顎でしゃくられるカカココ。イルラはそっとカカココの胴体に手を置いて、頷いた。
ハンター達は再び顔を見合わせて、こそこそと話し合う。ハンスは嫌な感じを覚え、拳を握り込む。無意識に『感知』能力を発動していた。

聞こえない距離なのにハンスの耳が声を拾う。
目が唇の動きを鮮明に見せて来る。

「従属してるからか?あの魔力量」
「どうだろうな。南部の異民族だろ。あの辺りで貴族って呼べるのはアレだろ、南部仕切ってる公爵家。元の魔力量も強いんじゃねぇか」
「…蛇捨てても魔力が強いってか?」
「多分な。じゃねぇとあの蛇を従属させんのも難しいだろ」
「…厄介だな、魔獣が動かねぇのはあのガキと蛇狙いだろ」

カカココとイルラの話だ。
最後の言葉にハンスは思わず足元に座ったままのイルラとカカココを見下ろした。

「その内、誘き出すか、強行手段に出るだろ」
「さっき顔らしきモンが出来てたからな」

更に聞こえた情報にハンスは再びハンター2人を見た。
その瞬間、ズキッと頭が痛んだ。
ハンターの1人がイルラを見る。

「……ツインヘッドスネークは魔力量が豊富なのは知ってるよな?」

「……」

イルラはまた頷いた。

「今、川にいるのは魔獣だ。粘液型のな。多分だけど、そのツインヘッドスネークを狙ってる」

「……」

カカココをぎゅっと掌で抱き締める。

「それを囮にすれば」

「しない」

はっきりと答えたイルラに、ハンター達は眉を顰めて、また顔を見合わせる。

「どうする?」

「…どうするって…魔獣が出現した場合、魔力量の多い奴が囮になるのがセオリーだろ」

ハンター達の目がイルラを見る。その目付きは決して優しいものじゃなかった。ゾッとしたのは、横にいたハンスも一緒だ。

「…ま、まさかイルラを置いていくとか言わねぇっすよね…」

ハンター2人は揃えたような作り笑いを浮かべた。

「魔獣は魔力の強い奴を好むんだ。あの様子だとすぐにどうこうなる訳じゃねぇよ、助けを呼んで来るからそれまでここに居てくれ」

「置いて行くって言ってるじゃないっすか!アンタら護衛だろ!」

「でもよ、蛇を置いて行けないんだろ?そうじゃなくても全員で動くのは危険なんだよ。お友達は一緒に居るか?それでも良いよ、俺らは」

ハンター2人はニマニマと笑いながら後ずさって行く。
イルラは考え込むように項垂れ、土を引っ掻いて握り拳を作った。
足を怪我したのは自分のせいだ。

「分かった、オレは残る。だからハンスは連れてってくれ」

「イルラ!?」

「オレは全力で走れない」

「抱えて貰えば良いじゃねぇっすか!そのくらい余裕なんすから!ハンターは!」

指を差すとハンター達は居心地悪そうに目を逸らす。
余裕だが、したくないと言ってるようだった。
ハンスは苛立つが、その手をイルラが引っ張る。

「ハンス、行ってくれ。頼む」

「……っ」

「良い友情だな。どうすんの?早くしてくれねぇと…」

「おい…おいって!まずい!」

「バレた!」

川面から盛り上がるように黒い大きな塊がゆっくりと出て来た。
それは真っ黒な蛙の顔のシルエットで、顔周りに更に黒い球体が川から出て来た。水の滴りが切れると、瞼が開くように黒球は目玉と化してギョロギョロと周囲を見回し始める。

その目玉とハンターは目が合ってしまった。

ハンター達は走り出し、木々の間へと姿を消してしまう。

「え…っ!」

呆気に取られたハンスに代わり、イルラが叫ぶ。

「ハンスは連れて行ってくれ!!……くそ…っ…あいつら…」

「もう良いっす!!イルラ逃げるっすよ!」

ハンスはイルラの腕を肩に回させて立ち上がらせる。

「ダメだ!オレは荷物になるだけだ!お前だけで逃げろ!!」

「嫌っすよ!!俺たちダチじゃねぇっすか!!置いて行くなんか絶対嫌っす!!」

言い合いながらハンスは進む。イルラは小柄で軽い方だが、人を運ぶことに慣れていないハンスでは容易ではない。

「ダメだ、このままじゃ2人ともやられてしまう。ハンス、頼む、置いて行ってくれ」

「嫌だ、そんな事したら俺は一生自分を許せないっす」

「オレだってここでオマエが死んだりしたらオレを許せない!離せハンス!」

「こんな言い合いの方が無駄っすよ!イルラ!頼むから協力してくれよ!!」

離れようとするイルラをハンスが懸命に掴んでいた。
魔獣はまるで面白がるように、ジッと見ながら、その長い胴体をゆっくりと川から伸ばし、顔を近づけて来る。

円に近い蛙顔にピッと切れ込みが入るような、そんな筋が見え、ぐぱぁと開いたのは恐らく口だろう。
顔の半分から割れたそこには、どろどろしたヘドロのような液体と、先が少し太く丸い触覚が無数に並んでいた。
うようよと動くそれにハンスもイルラも血の気が引いて固まってしまう。

カカココはイルラの首でガタガタと震えながら、2人のやり取りに戸惑っていた。
だが、イルラの動きが止まり、その顔を見て


肩から飛び降り、魔獣へと向かって走り出した。


「っ!カカココッ!!」

イルラが慌てて呼び止めようと、ハンスを突き飛ばしてしまう。イルラは反動で地面に倒れた。

「イルラ!!」

「ダメだカカココ!!戻れ!!」

慌ててハンスが起き上がる。イルラは地面に這いつくばって、遠ざって行くカカココへと手を伸ばす。

「イヤだ!行くなカカココ!!」

悲痛な叫び声にカカココは振り返らない。

「イルラ!危ないっす!」

「ダメだ!カカココが死んでしまう!!イヤだ!!ずっと一緒だったんだ!!卵から育てたんだ!オレの兄弟なんだ!!」

「イルラ…!」

「帰って来いカカココ!!オマエが居なくなるなんてイヤだ!!頼む!!頼むから…!」

目の前が滲んで、カカココの姿が見えなくなってしまう。

魔獣の多数の目が地面を猛スピードで走って来るカカココへと一斉に向く。

ツインヘッドスネークは全長が育つのが遅く、成体になっても小型の魔物だ。それでも魔力量は魔物の中でも群を抜いて豊富だった。
カカココはホワイトの希少種、その保有量は同種の平均の、更に上を行く。

イルラから離れればカカココの方へ魔獣の意識は向くと理解していたのか。


キシャーッ!!!


果敢に威嚇しながら、自分よりも何百倍もある魔獣へと立ち向かって行く。賢いカカココは分かっている。
今の自分では決して勝てる相手ではないと。
それでも。

ボコボコと地面が歪に盛り上がり、カカココの身体を持ち上げる。土属性魔術だ。そして全身に小さな砂嵐をとぐろのように巻き、カッ!と息を鳴らすと砂嵐は大きくなり魔獣の顔を攻撃した。

しかし魔獣は無反応のまま、口の中の触手をカカココへと伸ばす。

イルラは怖くて目を閉じてしまった。
カカココの断末魔なんて聞きたくなくて耳も塞いだ。

(オレが弱いから…ごめん、カカココ、最低な主人でごめん…ごめん…)

ぼろぼろと涙が落ちて来る。

「『水牢』」

聞き覚えのある声が、手の奥まで届いた気がした。
落ち着いた低い声。

直後にドポンッと水に重い物が入ったような音が。

「…ラ、イルラッ!」

ハンスが肩を懸命に叩いてきた。
イルラは目を開き、滲む視界の中に、魔獣の真ん前に立つ男の背中を見た。

「すごいよカカココ。大好きなご主人の為に命を張れるなんて。お前は良い男だな」

右腕に乗せたカカココと向かい合ってる横顔。優しく微笑むその顔へ、嬉しそうに双頭をぶつけに行くカカココの姿を見て、イルラは夢でも見てる気分になった。

ハンスも半信半疑だ。
イルラの肩に置いた手に力が入ってる。

男が振り返る。

「2人とも無事で良かった」

それがジンだと分かった瞬間、ハンスは気が抜けたようにへたり込んでしまった。イルラはただ呆然と駆け寄って来るジンを見上げた。

その後ろで、魔獣は大きな水の玉に蛙顔を包まれ、静かになっていた。周囲に浮かんでいた目玉も水に包まれて、まるで油が浮くように溶けて行く。

「イルラ、ハンス。大丈夫か」

目の前にしゃがみ込んだジンから、カカココが飛び付いて来た。
イルラはカカココを両手で受け止め、強く抱き締めた。

「……バカ…!もう勝手なことするなよ!オレの許可なく離れるなんて、ダメだからな…!…無事で、無事で良かった…カカココ…」

カカココの少しひんやりして滑らかな皮膚の感触に、また涙が溢れた。肌へ吸い付くように、全身を巻き付けてくれて、抱き締め返される。
その光景にハンスは安心して、ジンは微笑む。

「ハンス、怪我は?」

ジンはハンスの手を取り尋ねる。

「俺はないっす。でもイルラが足怪我しちゃってるっす」

「そう、ハンスは大丈夫なんだな。良かった。イルラ、足ひどいのか?」

ハンスの頭を撫で、頬に指を滑らせて、ジンは心底安堵して頷いた。心から心配してくれていたのが伝わって、ハンスはそんな場合じゃないのに擽ったくなってしまう。
ハンスの無事を目でも確認した後、イルラへと顔を向ける。俯いていたイルラが顔を上げると、その顔は涙でグズグズになっていた。

「…大丈夫。カカココはお前から離れたりしないよ」

ジンは腰鞄マジックバッグからハンカチを取り出し、片手で頬を支えながらイルラの濡れた顔を拭った。
言葉もなく頷いて、イルラは自分でも顔を拭った。

「おーい!ジーン!!」

名前を呼ぶ声に3人は顔を上げる。
エドワードが先程より小さくなったグラスに乗って、木々の間から飛び出して来た。

ジンはハンカチをイルラへ渡すと、立ち上がる。

「エド、この2人を連れてすぐに拠点へ」

「もちろんそのつもり。君らが無事でマジで良かったよ!何かあったら、こいつらが無事じゃ済まな…こいつらは無事じゃなくても良かったわ」

笑うエドワードは後ろから男2人を地面に投げた。
先程逃げたハンター2人だ。顔が無様に腫れている。

「イルラ、先に」

ジンは気にも止めずにイルラを腰からひょいと抱え上げ、エドワードの前へと乗せた。
振り返り、ハンスへと手を差し出す。

「ハンスも」

「あ、う、うん」

手を取って立ち上がると、イルラ同様に腰を掴まれて軽々と持ち上げられた。先頭に乗せられて、鞍の前の出っ張りを掴む。

「じゃあ先に行ってくれ」

「りょーかい!って、お前はどうすんの?」

「後ろを守るよ。あの魔獣、水から引き上げた方が良さそうだから、誘き寄せつつ」

「なるほどな。お前が殿しんがりだなんて、これ以上頼りになる事ねぇな。2人ともしっかりしがみ付いててくれよ。空気抵抗の結界はしてるけど、落ちたら危ないからな。よっしゃ、かっ飛ばすぜグラス!」

エドワードが手綱を手に取る。
グラスはぶるると震えると「ぷぎゃ」と鳴いた。不思議なもので、震えても鞍の上はあまり揺れなかった。
バチバチと音を立てて猪の毛が更に色を濃くして光り輝き、膨れ上がるように毛が立っていく。

「お前ら、立てよ」

ハンスとイルラが見てない所で、ジンは地面に転がっていたハンター2人を蹴った。
2人は「ひっ」と言いながら慌てて立ち上がる。
何か言いたげな視線だが、ジンの冷ややかで静かな殺気を含んだ眼光に何も言えない。

ハンター2人は逃げた先で、ジンに出会い頭に殴られた。先程ハンス達にしていた会話は、2人を探す為に五感を鋭くしていたジンに筒抜けになっていたのだ。ジンの後ろに付いていたエドワードも、最初は突然の暴力を諌めようとしていたが、その短絡的で利己的な所業を知ってそれはもう虫ケラを見る顔をした。

苦手だろうが何だろうが、今回の依頼は護衛なのだ。
それを放棄し、剰え登録者でも何でもない生徒を囮に使おうとしていたのだから、責められても仕方ない。

(あんな怒る姿初めて見たからマジでビビッたぜ)

余り感情の起伏を見せないタイプに見えていたジンの怒りっぷりにエドワードは腰が引けていた。
2人の姿を見て、やっと殺気と怒りを引っ込めたジンの優しい横顔も見たことはなかったので、それはそれで驚いて出るタイミングが遅くなった。

そんなエドワードは「ゴー!」と明るく号令を掛けた。
グラスは一度後ろ足で立ち上がってから、四つ足で地面を蹴り駆け出す。イルラとハンスの「ジン!」と呼ぶ声もあっという間に遠ざかる程の速さ。
それは黄金の猪グリンブルスティらしい電光石火の走り。

稲妻のような光を砂煙の中に描きながら去っていく猪を見送りつつ、ジンは呟く。

「守りながら戦う事に不慣れなのは分かるぜ。俺もそうだから」

「「…す、すみませんでした」」

明らかに年下なのだが、ジンの纏う空気に震え上がってしまう。

「うん、まあ、謝罪は良いよ。俺にする事じゃねぇし」

言いながら、ジンは手に魔力綱を出して2人の腰へと繋いだ。

「「……あの…」」

聞こうとした時、後ろでバシャンと水が激しく落ちる音がした。
そろりと振り返ると水の囲いから解放された魔獣の姿。全ての目玉が消えていたのに、再びポポポと浮かぶ無数の黒球。

「じゃあ、走ろうか」

ジンの平坦な声にバッと同時に2人は顔を戻す。口端を少し吊り上げ、甘い笑みでジンは言う。

「お前らが囮になるんだよ」

サアアと顔面から血が下がる。
よく知りもしない男だが、ジンが腹の底から怒っている事だけは伝わった。

「い、いや、お、俺らそんなに強くなくて、ですね…」
「ま、魔力量なんて雀の涙で…その…」

「安心しろ。俺が一緒に走ってやるから」

「「へ?」」

その瞬間、ジンは抑制していた魔力を解放する。辺りの空気がずしりと重くなり、ハンター2人は全身に鳥肌が立った。
似た感覚で抑制していたフェロモンも匂い立ち、ジンの気配が強まる。

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎」

魔獣が叫んだ。どこから声が出てるのか不明だが、それはまるで歓喜の声。

「嬉しいか。俺もなかなか良い魔力だろ、カカココには負けるけどさ」

ザザザザザンと水を滴らせながら魔獣は手足のない長い蚯蚓のような身体を川から出して、ジンへと顔を伸ばして来る。
ジンは駆け出す。フェロモンの強さに惹かれて、少し上の空だったハンター達は腰から引っ張られて我に返り、引きずられるようにして走り出した。

しかし先を走るジンには追い付けず、真後ろには魔獣の顔。

「「ぎぃやああああああああ!!!!!!」」

「叫ぶ余裕があるならもう少し早く走れるな。つーか、その速度だと食われちまうし。スピード上げるぞ」

有言実行。ジンは更に速度を上げる。
ハンター2人は死ぬ気で走るが、ジンとの距離はやっぱり縮まらず、寧ろ引っ張られる力が強過ぎて転びそうになる。

「た、たすけてくれえぇぇええ!!!」
「俺が悪かったから!!許してくれ!!」

「「母ちゃああぁあぁぁあんんん!!」」

2人の悲しい絶叫が空気を震わせた。
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