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学園編 1年目
南部首長長男の波乱1
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「肌が黒い奴とは誰も踊りたくないそうだ」
実習塔のダンスホール。選択科目の社交ダンスの授業の為に訪れたホールの扉前で、ずらりと男子生徒が壁となりイルラの前に立ち塞がった。
中央に立つファクシオン・オンザウェルが鼻でせせら笑って、その膨よかな身体を揺らし、イルラへ向かって顎をしゃくって告げた。
「踊りたければその肌の色をどうにかしてから来いよ」
分かりやすい差別発言に呆れてしまう。
後ろにいる連中の顔を一瞥する。2組合同授業だから知らない顔もいるが、分かるだけでも男爵から侯爵まで勢揃いしていた。目が合うと逸らす者や、気まずそうに初めから俯いている者もいる。
オンザウェルは公爵家だから、権力に物を言わせて集められた者もいるのだろう。
だが、イルラも同じく公爵を賜っているククルカ一族の1人息子だ。ここに並ぶ者達は、ククルカをオンザウェル家よりも下と見做したことを言外に表明した事になる。
馬鹿馬鹿しくて相手にするのも面倒だが、無視して入れる壁ではない。
「踊りたいのでなく、授業を受けに来た。オレのパートナーが出来ないのであれば、その旨を教師に伝えると良い。オレは教師の指示に従う」
冷めた声で返すとファクシオンが忌々しげに顔を歪めた。
「偉そうにするなよ蛮族が。お前と俺が同格とでも思ってるのか」
「偉そうになどしていない。だが、同格ではあるだろう」
「蛮族は頭も悪いのか。お前の一族が公爵を名乗れるのは、王族がお前らを飼い慣らすためだ。公爵家の中でも最も歴史の浅いお前らが、俺と同格だと?笑わせるな」
「…ククルカが公爵を賜ったのは」
「黙れ!」
怒鳴り声にビクリと肩が跳ねた。
ファクシオンが足を踏み出し、威圧感を纏って見下ろしてくる。ファクシオンはクラスの中でも背が高く、脂肪と筋肉で膨らんだ身体のせいでより大きく見える。
毅然としようと気を張っているから、表情こそ崩れなかったがイルラは内心で怯んでしまった。
恵まれなかった自分の体格を何度も恨んだ。今は憎々しいほどだ。情けなさと悔しさに、両脇に下ろした拳に力が入るが、絶対に周囲に気取られたくはない。目線だけは強気にファクシオンを見返した。
「お前ら一族の話なぞ聞くだけ無駄だ。教師にはお前が欠席した旨を話しておいてやるから、さっさと消えろ。その汚い肌を見ていると気が滅入る」
野良犬でも払うように片手をシッシッと揺らされた。侮辱に唇を噛み締めたくなるが、反応すれば相手の思う壺だろう。
教師さえ来ればいくら公爵家の息子とは言え、これ以上の愚行は行わないはずだ。それまでの辛抱だ。そう思っていた。
ーーバシャン
頭の上から水が降って来るまでは。
目の前に水のカーテンが一瞬出来る。銀色の短い髪もダンス用のシャツやズボンも余す事なく濡れてしまった。たった一度水を掛けられただけで、ここまで浸潤しないだろう。おまけに少しぬるついているから、純粋な水ですらない。
何らかの水属性魔術だろうが、イルラは頭の中が真っ白になり反応出来ない。
「良かったな、親切な奴が洗ってくれたようだぞ。だがお前の汚れは取れないみたいだな。頑固な汚れはこれだから厄介だ」
「…っ、オマエら」
「おい、そんな姿で中に入るなよ。床が濡れでもしたら大変だ」
舌打ち、風属性魔術で水気を飛ばそうとしたが取れなかった。困惑し濡れた身体を見下ろすと、噴き出す声が聞こえた。見回すとファクシオンの後ろの数人がクスクスと笑っている。
「その程度の風では飛ばないようだな。ますますお前と踊る奴は居ないだろう。そろそろ教師が来る。精々泣き付いてみろ。ダンス教師も所詮、侯爵家に嫁いだだけの女だ。お前を助けるために俺に意見出来るとは思わないがな」
ハハハと高笑いしてファクシオン達はホールへと入って行き、バタンと扉を閉めた。
時間が経つほどにどろりとする水は不快感しかない。清潔魔術に洗浄魔術まで掛けてみたが、意味はない。段々この水属性魔術がすごいんじゃないかとさえ思えてきた。
「……ふっ」
イルラは込み上げて来た笑いを漏らす。
ダンスホールの正面出入り口はここだが、他にも扉はある。しかし誰も教師を呼びに行く事をしなかった。
つまり今ホール内にいる全員が、ファクシオンへ無言の賛同をしたと言うことだ。
この水属性魔術も誰がしたのか分からない。
入学してから今まで、微温湯に浸かっていたのだと気付いた。
イルラは踵を返してダンスホールから遠ざかる。
もし教師が来ても、ファクシオンの言う通りならばアテにはならないだろうし、変に騒ぎになるのも嫌だった。
『イルラ。義務教育とは言うけどね、別に無理して行かなくても良いんだよ。特に貴族科なんてのは成績が悪くても進級出来るし、授業なんて出なくても卒業出来る。あそこは大人達が最低限の教育を施したくて作っただけの場所だから。アンタは賢いし、魔術にも長けているだろう。行かなくたって良いんだよ。行かなくたって立派な大人になれるんだよ』
入学案内の文書が届いた時に聞いた、母の声が唐突に頭の中で響いた。
行かないなんて選択肢はなかった。次期首長となるなら、王国の慣習や同年代の貴族達の事を知っておきたかったからだ。
母はそれ以上は何も言わなかった。
村を出る、その前夜までは。
『母さんね、アンタが傷付くのイヤよ。人間てね、どこまでも残酷になれる生き物だからさ』
いつも溌剌とした母の、珍しく憂い帯びた顔と声に胸の奥が締まる。思い出しているだけの今ですら。
母は差別に晒されて生きていた人だ。それでも人を信じ、人を愛し、人の為に動いていた、強く、そして少し甘い人だと思っていた。
「母さんごめん」
小さな呟きは広く重厚な廊下の静寂へ沈んでいく。
足元には不慣れな絨毯。踏み締める度に、頭の中に母の姿が見えて来る。
.
.
.
あの日、村を出る前日、母は珍しく酔っ払って部屋へと現れた。準備中のオレの肩へ腕を回して、無理やり隣に座り合うと、それまで小出しでしか聞いていなかった過去を語り始めた。
元は王国貴族であった母は、王命での政略結婚が決められていた。当時はまだ12歳で、学園を卒業後に嫁ぐ予定だったそうだ。だが程なく家が傾き没落となった。
傾いた理由を母は語りたがらない。旧姓すら教えてくれないから、勝手に調べようとも思わない。
とにかく母は家も家族も失い、このまま婚約もなくなるのだろうと思っていたが、当時のククルカ首長である祖父様が約束を反故にはしないと12歳の母を引き取りそのまま嫁がせたそうだ。憐れみもあったのだろうと母は言う。
その時、父は既に30手前の歳だった。歳上だとは聞いていたが、これほど離れているとは知らなかった母は驚いた。おまけに父は政略結婚へ同意などしていなかった。「結婚なんて初めから反対だった」と父と祖父はよく怒鳴り合い、母の前ではいつも気まずそうにしていたそうだ。
「優しい人ではあったんだ。だからこそ申し訳なくてね。アタシが呑気について来なければ良かったんだけどさ。両親の悪巧みにも気付けず、親戚にも相手にされなくて、侍女として働く事も難しいかもって皆に言われてさ。鵜呑みにしちゃったんだよ。今思えば他にも道はあったと思うけど」
憂いを深めた瞳は、イルラと同じオレンジだ。哀愁が漂うとよりいっそう夕暮れのように見える。
「…あの人はね、好きな人が居たそうだ。何か大きな功績を上げたら想いを告げるつもりだったのに、その前にアタシとの縁談が持ち上がっちまった。祖父様も良い方だったけど、一族の為には誰かが犠牲になる事を当たり前に思っていたからねぇ。息子だったあの人は、そりゃ逆らいようもなかったんだろうさ」
母はそう言ってある方角へ目を向けた。
その方角には死者を弔い祀る墓地がある。祖父と父は、今はそこで眠っている。
父が亡くなったのはオレが3歳の時だから、思い出もなく感傷に浸るほどの感情もない。むしろ、
「…だからと言って、遠くから来た母さんを父が蔑ろにしていたこと、仕方なかったとは思えない」
母は驚いたように振り向いた。そして、悲しそうに微笑んだ。
「それは違うのよイルラ。確かに仲睦まじい夫婦にはなれなかったけどね、蔑ろにはされてないの。むしろあの人は誰よりも人として接してくれた人よ」
「オレが出来るまで、母さんを放置していたと聞いた」
「アタシの可愛いイルラに馬鹿なコトを吹き込んだヤツの事は後で聞き出すとして」
一瞬、母を囲む空気が冷えて重いものになった。この状態の母に詰め寄られたら白状せざるを得ない。
気を取り直すように母はグラスに注いだ酒を口に含んだ。その所作には、村人達にはない気品がある。
「放置ではないのよ、あの人なりに線引きをしていただけ。アタシが幼過ぎてどうして良いか分からなかったのよ」
父は母と距離があり、子作りなど以ての外だった。その当時は名ばかりの嫁では肩身が狭く、おまけに村人達は王国貴族からの血の介入を煙たがっていたそうだ。
村での異民族は母の方だった。
おかしな話だ、血が濃くなり過ぎないように、他部族や冒険者なんかを迎え入れる事はよくある話なのに。
だから母は奔走した。ククルカの歴史や文化、慣習を身に刻みつけ、望んで祖父様や父の公務に付き添い、村人達へ歩み寄り、時にひどい扱いを受けながらも徐々に自分の地位を確立していった。
父も、そんな母の頑張りを認めてくれていたようで、ある時から「嫁だ」とはっきり明言するようになり、夫婦としての形を為していったそうだ。
「だからと言って周りがすぐ変わる事はないけれど、この人は例え自分の不遇の原因であろうとも、ちゃんと相手を見てくれる人なのだと、アタシが楽になれたからね。そのおかげでもっと周りに溶け込みやすくなったんだ」
実際、今の母へ周囲の反応は悪くない。むしろ良いように見える。
「…でもそれは母さんの努力の結果だろう。祖父様は父に押し付けただけで、父は可哀想だから手を出さず、頑張ったから手を出した。それは…卑怯じゃないか」
亡くなった人の事を悪く言うのは良くない事なのかもしれない。しかも相手は実の祖父と実の父親だ。だけど正直なところあまり感慨がない。そもそも家族としての実感がない。
オレは薄情なんだろうか。
祖父も父もオレと同じように、家族としての実感なんてオレに感じてなかったんじゃないだろうか。
義務だけで産まれた子供を他人が愛せるんだろうか。
頭の中で思考がぐるぐると巡る。
そんなオレの心情が読めたのか、母は困ったように笑った。
「アンタは覚えてないだろうけど、祖父様もアンタを大層可愛がってくれたんだよ。あの人もね。アンタは間違いなく皆に祝福されて産まれてきた。アタシもアンタが、イルラが産まれてきてくれて本当に嬉しい。ここまで頑張って来れたのも、幸せでいれるのも、イルラがアタシの息子に生まれてきてくれたからだよ。それを授けてくれた父さんに、アタシは心から感謝しているよ」
「…でも父は、他に好きなヤツが」
これは周知の事実であり、口性無い村人から、母が愛されていた訳ではないと聞かされて、オレ自身がひどく傷付いた事があった。だからこそ、父に良い感情を持てないのかもしれない。
「そうなんだよねえ。バカだよねえ。アタシなんて放って、とっとと2人くっつけば良かったのにねえ」
あっけらかんと母が言って、何を言ってるのか分からなくなる程に驚いた。
「せっかく愛し合ってたのにさ。2人共、村の事ばっか優先して」
「…母さんは、相手を知ってるの」
「女の勘さ、なんてね。見てりゃ分かるよ。アンタには教えないよ、と言っても、祖父様方と一緒に亡くなってるからね。…父さんと一緒に眠っているよ」
父と祖父が亡くなったのは、王国や南大国からの冒険者達も招集された、大規模な天災レベルの魔物討伐中の出来事だ。被害者は数多く出たが、砂漠内で仕留められたので、両国から恩恵を受ける形となり、砂漠の民は以前より生活が潤った。
しかし、亡くなった人々は砂漠民だけに限らず、3桁を軽く超えていたそうだ。
だから誰と特定するのは難しいだろう。
「一緒に?」
「…アタシがこっそり、一緒にしたのさ。夫婦は同じ墓に入るだろ。アタシなんかに同情されたくないかもしれないけどさ、…悲しいじゃない。生涯通して想いあってたのに、見て見ぬふりしてね。2人はアタシが嫁に来てから、2人きりで会う事さえしなかったんだよ。一度もね。不義理と思ってたみたいだよ、バカよね。不義理は、アタシの両親だってのに」
「…それで良かったのか。母さんは」
つまりそれは、一度も父に心を貰った事がなかったんじゃないのか。
「そりゃね、愛されたいって思わなかった事もないけど、それはあの人に対してってより、漠然とね。恋に恋してたようなものさ。あの人の事は尊敬しているし、人として好きだったけど」
「……本当に、2人の間に愛なんてなかったんだ」
「…やっぱまだ、話すには早かったかね」
母の言葉に落胆が乗った気がして、オレは恥ずかしいのか、腹が立ったのか、兎に角反射で立ち上がった。
「…っ!ちが、…」
「子供からすれば悲しい事よね。親が愛し合ってなかったと聞いたら。でもね、愛にも色々あるんだよ。確かに、恋愛としての愛はなかったけど。人として、夫婦としては愛し合い、敬い合っていたよ。だから今ここに、アンタがいるんだよ」
互いの仲に愛は無かったが、責任感と情深さは似たものを持っていた2人だったから上手くいっていたのだと、母は続けた。いかに父が自分を大事にしてくれたか。父の想い人もオレの誕生を喜んでくれたとか。
「……もしアンタが愛を望むなら、心から愛した人を嫁さんにするしかないね。それが1番幸福な事だもんね」
「……あ」
そうだった。首長になるのならば、自分もいつかは跡継ぎを産んで貰わねばならない。その時、相手へ愛だけを求められるわけではない。村人達が納得する相手でなければ。だから政略結婚も視野にいれていたのに。その時、相手を本当の意味で愛せるかなんて分からない。
そもそも自分はちゃんと女性を好きになれるかすら曖昧だ。初体験は男の幼馴染とすませてしまった。女性には手を出し難いからと言う理由で。
だが幼馴染にも恋愛感情があるわけじゃない。
墓穴を掘った気がして、イルラは押し黙った。
「…アンタって本当に聡い子だね。そんなに賢くなけりゃ、あの老人達も次期首長と持ち上げる事もなかっだろうに」
「…母さんはオレには務まらないと思うのか」
祖父と父が亡くなった時、後継者は3歳のオレしか居なかった。母は以前より祖父の側近であり、父の教育を担ってくれていた男を指名したが、村人皆に反対されたそうだ。当の本人にまで。
まだ3歳の子供を王座に座らせようだなんて、大人達の汚い腹の中が見え隠れしていて、母は孤軍奮闘でオレを守り抜いた。今までの努力が実ったのか、女性陣が味方となり、オレが首長となるまでの繋ぎとして、母が代理首長となる事が決定した。
そんな母の苦労や頑張りを無駄にしたくないし、母を尊敬しているから、次期首長になる事に躊躇いはない。母がして来たことを、オレが引き継ぐのは当然のような気もしていた。だが母は、あまり乗り気じゃないように見える。
「アンタは賢いけど偶に捻くれてるね。そこもアタシには可愛いんだけどさ。不安の裏返しだから」
「…今、そんな話してないだろ」
「アタシはどっちでも良いんだよ。正直なところ、世襲じゃなく襲名制の方が良いんじゃないかって思ってるくらいだしね。血筋って言うけどさ、優れた人間ばかりが必ず産まれる訳じゃないんだし。だけどアンタがしたいなら全力で応援するさ。イルラは自慢の子だもの。アンタは良い首長になれるよ」
「……うん」
にっこりと笑う母は少女のように見える。
「…ただアタシはさ、あの人見てて思ったんだ。もう誰も犠牲になって欲しくないって。村の為、他人の為、それはとても良い大義名分だし、悪い事じゃないよ。だけどアンタには好きな事をして欲しいのが本音。やりたい事や、生き甲斐とか、他に見つかったなら、村の事は気にせずに、そっちに行って欲しい」
「…」
「愛する人が見つかったなら、幸せになれるんなら、例え村人が反対しても、どんな形でも、結ばれて欲しい。……この願いも、身勝手なんだろうけどね」
母は酔っていた。突然、小柄な割に豊満な胸に抱き締められる。何年振りかの抱擁に照れ臭く動揺したが、鼻を啜る声が聞こえて抵抗出来なかった。
「あの人は優し過ぎたんだろうね。アタシなんて気にせずに愛する人と結ばれてりゃ良かったのに。責任と義務感だけで生きるのはあんまりだよ。国に義理立てる為に正妻をアタシにして、愛する人を愛人にするのは不義理に思えて出来ずにいて、物分かり良いふりして諦めてさ。でもどんだけ隠しても、2人を見る度に切なさに押し潰されてるのが分かったよ。好き合ってるのに。アタシのせいで。ごめんねすら言えやしない。2人の矜持を傷付けてしまうもの。無知を演じるしかなかったの。義理立てなんて、どうしてもしたいってんなら、その人を正妻にして、アタシを愛人にすりゃ良かったんだ。国への言い訳なんていくらでもあっただろうよ。せめてもう少し生きてくれりゃ良かったのに。アタシは大変だったし苦労もあったけど、楽しんで生きていたんだよ。今もこうやって愛しいアンタを胸に抱いて生きている。祖父様と父さんのおかげでね。父さんが首長になったら、アンタが今くらい大きくなったら、提案するつもりだったんだ。その人と、やり直して欲しいって。なのに、死んでしまうなんて…」
「……母さん」
「……村の犠牲にならないでおくれ。学園に行きたい理由も、村の為なんだろう。首長になるからなんだろ。アタシから産まれたと思えない程、アンタは良い子だし立派な子だ。父さんに良く似てる。だけど、だから、心配でしょうがないんだ」
「……」
「辛い目に遭っても我慢しそうで。悲しくても隠しそうで。向き合う大事さを知ってるから、逃げる選択肢を選ばずに、傷だらけになるんじゃないかって。…アタシは楽観的過ぎるって怒られるくらいだし、悲しかったら泣くし、無理だと思ったら逃げ回っていたんだよ。だから人の悪意にも対応出来たの、助けてって言えば祖父様や父さんが助けてくれたしね」
母は顔を上げた。元は白かったらしい日に焼けた褐色の頬に涙が伝っていた。初めて母の涙を見て動揺してしまう。
泣いてるのは母なのに、まるで涙を拭うように優しく頬を撫でられる。
「……どんな場所にも、良い人もいれば悪い人もいる。良い人の立場が強ければ良いけど、悪い人の立場が強いとその集団は悪に染まりやすくなるもんよ。真っ向から悪意に立ち向かわないで。母さん、アンタが傷付くのイヤよ。人間てね、どこまでも残酷になれる生き物だからさ」
「…今までは、逆のこと言っていた」
「……アンタにはさ、世界は美しいものなんだって、思って欲しかったんだ。だけど嘘じゃないよ。そういう人も勿論居るんだ。だけど…」
「母さん」
母の言葉が続く前に、強く呼べば、母が止まった。赤らんだ目が、無垢な子供のように丸くなっている。
「約束する」
オレはそう言って友を作る事を約束した。
母を安心させたかった。そして、この時ばかりは楽観していた。
友ぐらい簡単に出来るだろうと。
それが浅はかな希望だったと、学園に着くまでの道中で痛い程に思い知ったのだが。
道案内役に、宿の使用人達に、馬車の御者に、全員ではないが確かな差別と侮蔑を受けた。
ククルカの名を聞き、公爵だと知って漸く、奴らは人として対等になったような振る舞いをした。
母の言う悪意の正体に、差別の不条理さに、気付いた。学園に着いた時には、オレはもう疲れていた。大人がああなのだから、子供のコイツらもオレを差別するんだろうと、完全に捻くれていた。
入学式の前日に学園に入ったオレは先に寮へ案内された。最初の同室は挨拶もろくにせず、目も合わさずに出て行った事で、完全に偏見を持ってしまい、クラスでも誰の相手もしないと決めた。
カカココが居てくれて良かった。魔物の蛇、それだけで人払いになったからだ。
母との約束を守れないーー
それだけが懸念だった。
だけど、同室が変わった事でオレはまた甘い考えを持った。
その時に、微温湯へと足を沈めた事に気付けずに。
実習塔のダンスホール。選択科目の社交ダンスの授業の為に訪れたホールの扉前で、ずらりと男子生徒が壁となりイルラの前に立ち塞がった。
中央に立つファクシオン・オンザウェルが鼻でせせら笑って、その膨よかな身体を揺らし、イルラへ向かって顎をしゃくって告げた。
「踊りたければその肌の色をどうにかしてから来いよ」
分かりやすい差別発言に呆れてしまう。
後ろにいる連中の顔を一瞥する。2組合同授業だから知らない顔もいるが、分かるだけでも男爵から侯爵まで勢揃いしていた。目が合うと逸らす者や、気まずそうに初めから俯いている者もいる。
オンザウェルは公爵家だから、権力に物を言わせて集められた者もいるのだろう。
だが、イルラも同じく公爵を賜っているククルカ一族の1人息子だ。ここに並ぶ者達は、ククルカをオンザウェル家よりも下と見做したことを言外に表明した事になる。
馬鹿馬鹿しくて相手にするのも面倒だが、無視して入れる壁ではない。
「踊りたいのでなく、授業を受けに来た。オレのパートナーが出来ないのであれば、その旨を教師に伝えると良い。オレは教師の指示に従う」
冷めた声で返すとファクシオンが忌々しげに顔を歪めた。
「偉そうにするなよ蛮族が。お前と俺が同格とでも思ってるのか」
「偉そうになどしていない。だが、同格ではあるだろう」
「蛮族は頭も悪いのか。お前の一族が公爵を名乗れるのは、王族がお前らを飼い慣らすためだ。公爵家の中でも最も歴史の浅いお前らが、俺と同格だと?笑わせるな」
「…ククルカが公爵を賜ったのは」
「黙れ!」
怒鳴り声にビクリと肩が跳ねた。
ファクシオンが足を踏み出し、威圧感を纏って見下ろしてくる。ファクシオンはクラスの中でも背が高く、脂肪と筋肉で膨らんだ身体のせいでより大きく見える。
毅然としようと気を張っているから、表情こそ崩れなかったがイルラは内心で怯んでしまった。
恵まれなかった自分の体格を何度も恨んだ。今は憎々しいほどだ。情けなさと悔しさに、両脇に下ろした拳に力が入るが、絶対に周囲に気取られたくはない。目線だけは強気にファクシオンを見返した。
「お前ら一族の話なぞ聞くだけ無駄だ。教師にはお前が欠席した旨を話しておいてやるから、さっさと消えろ。その汚い肌を見ていると気が滅入る」
野良犬でも払うように片手をシッシッと揺らされた。侮辱に唇を噛み締めたくなるが、反応すれば相手の思う壺だろう。
教師さえ来ればいくら公爵家の息子とは言え、これ以上の愚行は行わないはずだ。それまでの辛抱だ。そう思っていた。
ーーバシャン
頭の上から水が降って来るまでは。
目の前に水のカーテンが一瞬出来る。銀色の短い髪もダンス用のシャツやズボンも余す事なく濡れてしまった。たった一度水を掛けられただけで、ここまで浸潤しないだろう。おまけに少しぬるついているから、純粋な水ですらない。
何らかの水属性魔術だろうが、イルラは頭の中が真っ白になり反応出来ない。
「良かったな、親切な奴が洗ってくれたようだぞ。だがお前の汚れは取れないみたいだな。頑固な汚れはこれだから厄介だ」
「…っ、オマエら」
「おい、そんな姿で中に入るなよ。床が濡れでもしたら大変だ」
舌打ち、風属性魔術で水気を飛ばそうとしたが取れなかった。困惑し濡れた身体を見下ろすと、噴き出す声が聞こえた。見回すとファクシオンの後ろの数人がクスクスと笑っている。
「その程度の風では飛ばないようだな。ますますお前と踊る奴は居ないだろう。そろそろ教師が来る。精々泣き付いてみろ。ダンス教師も所詮、侯爵家に嫁いだだけの女だ。お前を助けるために俺に意見出来るとは思わないがな」
ハハハと高笑いしてファクシオン達はホールへと入って行き、バタンと扉を閉めた。
時間が経つほどにどろりとする水は不快感しかない。清潔魔術に洗浄魔術まで掛けてみたが、意味はない。段々この水属性魔術がすごいんじゃないかとさえ思えてきた。
「……ふっ」
イルラは込み上げて来た笑いを漏らす。
ダンスホールの正面出入り口はここだが、他にも扉はある。しかし誰も教師を呼びに行く事をしなかった。
つまり今ホール内にいる全員が、ファクシオンへ無言の賛同をしたと言うことだ。
この水属性魔術も誰がしたのか分からない。
入学してから今まで、微温湯に浸かっていたのだと気付いた。
イルラは踵を返してダンスホールから遠ざかる。
もし教師が来ても、ファクシオンの言う通りならばアテにはならないだろうし、変に騒ぎになるのも嫌だった。
『イルラ。義務教育とは言うけどね、別に無理して行かなくても良いんだよ。特に貴族科なんてのは成績が悪くても進級出来るし、授業なんて出なくても卒業出来る。あそこは大人達が最低限の教育を施したくて作っただけの場所だから。アンタは賢いし、魔術にも長けているだろう。行かなくたって良いんだよ。行かなくたって立派な大人になれるんだよ』
入学案内の文書が届いた時に聞いた、母の声が唐突に頭の中で響いた。
行かないなんて選択肢はなかった。次期首長となるなら、王国の慣習や同年代の貴族達の事を知っておきたかったからだ。
母はそれ以上は何も言わなかった。
村を出る、その前夜までは。
『母さんね、アンタが傷付くのイヤよ。人間てね、どこまでも残酷になれる生き物だからさ』
いつも溌剌とした母の、珍しく憂い帯びた顔と声に胸の奥が締まる。思い出しているだけの今ですら。
母は差別に晒されて生きていた人だ。それでも人を信じ、人を愛し、人の為に動いていた、強く、そして少し甘い人だと思っていた。
「母さんごめん」
小さな呟きは広く重厚な廊下の静寂へ沈んでいく。
足元には不慣れな絨毯。踏み締める度に、頭の中に母の姿が見えて来る。
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あの日、村を出る前日、母は珍しく酔っ払って部屋へと現れた。準備中のオレの肩へ腕を回して、無理やり隣に座り合うと、それまで小出しでしか聞いていなかった過去を語り始めた。
元は王国貴族であった母は、王命での政略結婚が決められていた。当時はまだ12歳で、学園を卒業後に嫁ぐ予定だったそうだ。だが程なく家が傾き没落となった。
傾いた理由を母は語りたがらない。旧姓すら教えてくれないから、勝手に調べようとも思わない。
とにかく母は家も家族も失い、このまま婚約もなくなるのだろうと思っていたが、当時のククルカ首長である祖父様が約束を反故にはしないと12歳の母を引き取りそのまま嫁がせたそうだ。憐れみもあったのだろうと母は言う。
その時、父は既に30手前の歳だった。歳上だとは聞いていたが、これほど離れているとは知らなかった母は驚いた。おまけに父は政略結婚へ同意などしていなかった。「結婚なんて初めから反対だった」と父と祖父はよく怒鳴り合い、母の前ではいつも気まずそうにしていたそうだ。
「優しい人ではあったんだ。だからこそ申し訳なくてね。アタシが呑気について来なければ良かったんだけどさ。両親の悪巧みにも気付けず、親戚にも相手にされなくて、侍女として働く事も難しいかもって皆に言われてさ。鵜呑みにしちゃったんだよ。今思えば他にも道はあったと思うけど」
憂いを深めた瞳は、イルラと同じオレンジだ。哀愁が漂うとよりいっそう夕暮れのように見える。
「…あの人はね、好きな人が居たそうだ。何か大きな功績を上げたら想いを告げるつもりだったのに、その前にアタシとの縁談が持ち上がっちまった。祖父様も良い方だったけど、一族の為には誰かが犠牲になる事を当たり前に思っていたからねぇ。息子だったあの人は、そりゃ逆らいようもなかったんだろうさ」
母はそう言ってある方角へ目を向けた。
その方角には死者を弔い祀る墓地がある。祖父と父は、今はそこで眠っている。
父が亡くなったのはオレが3歳の時だから、思い出もなく感傷に浸るほどの感情もない。むしろ、
「…だからと言って、遠くから来た母さんを父が蔑ろにしていたこと、仕方なかったとは思えない」
母は驚いたように振り向いた。そして、悲しそうに微笑んだ。
「それは違うのよイルラ。確かに仲睦まじい夫婦にはなれなかったけどね、蔑ろにはされてないの。むしろあの人は誰よりも人として接してくれた人よ」
「オレが出来るまで、母さんを放置していたと聞いた」
「アタシの可愛いイルラに馬鹿なコトを吹き込んだヤツの事は後で聞き出すとして」
一瞬、母を囲む空気が冷えて重いものになった。この状態の母に詰め寄られたら白状せざるを得ない。
気を取り直すように母はグラスに注いだ酒を口に含んだ。その所作には、村人達にはない気品がある。
「放置ではないのよ、あの人なりに線引きをしていただけ。アタシが幼過ぎてどうして良いか分からなかったのよ」
父は母と距離があり、子作りなど以ての外だった。その当時は名ばかりの嫁では肩身が狭く、おまけに村人達は王国貴族からの血の介入を煙たがっていたそうだ。
村での異民族は母の方だった。
おかしな話だ、血が濃くなり過ぎないように、他部族や冒険者なんかを迎え入れる事はよくある話なのに。
だから母は奔走した。ククルカの歴史や文化、慣習を身に刻みつけ、望んで祖父様や父の公務に付き添い、村人達へ歩み寄り、時にひどい扱いを受けながらも徐々に自分の地位を確立していった。
父も、そんな母の頑張りを認めてくれていたようで、ある時から「嫁だ」とはっきり明言するようになり、夫婦としての形を為していったそうだ。
「だからと言って周りがすぐ変わる事はないけれど、この人は例え自分の不遇の原因であろうとも、ちゃんと相手を見てくれる人なのだと、アタシが楽になれたからね。そのおかげでもっと周りに溶け込みやすくなったんだ」
実際、今の母へ周囲の反応は悪くない。むしろ良いように見える。
「…でもそれは母さんの努力の結果だろう。祖父様は父に押し付けただけで、父は可哀想だから手を出さず、頑張ったから手を出した。それは…卑怯じゃないか」
亡くなった人の事を悪く言うのは良くない事なのかもしれない。しかも相手は実の祖父と実の父親だ。だけど正直なところあまり感慨がない。そもそも家族としての実感がない。
オレは薄情なんだろうか。
祖父も父もオレと同じように、家族としての実感なんてオレに感じてなかったんじゃないだろうか。
義務だけで産まれた子供を他人が愛せるんだろうか。
頭の中で思考がぐるぐると巡る。
そんなオレの心情が読めたのか、母は困ったように笑った。
「アンタは覚えてないだろうけど、祖父様もアンタを大層可愛がってくれたんだよ。あの人もね。アンタは間違いなく皆に祝福されて産まれてきた。アタシもアンタが、イルラが産まれてきてくれて本当に嬉しい。ここまで頑張って来れたのも、幸せでいれるのも、イルラがアタシの息子に生まれてきてくれたからだよ。それを授けてくれた父さんに、アタシは心から感謝しているよ」
「…でも父は、他に好きなヤツが」
これは周知の事実であり、口性無い村人から、母が愛されていた訳ではないと聞かされて、オレ自身がひどく傷付いた事があった。だからこそ、父に良い感情を持てないのかもしれない。
「そうなんだよねえ。バカだよねえ。アタシなんて放って、とっとと2人くっつけば良かったのにねえ」
あっけらかんと母が言って、何を言ってるのか分からなくなる程に驚いた。
「せっかく愛し合ってたのにさ。2人共、村の事ばっか優先して」
「…母さんは、相手を知ってるの」
「女の勘さ、なんてね。見てりゃ分かるよ。アンタには教えないよ、と言っても、祖父様方と一緒に亡くなってるからね。…父さんと一緒に眠っているよ」
父と祖父が亡くなったのは、王国や南大国からの冒険者達も招集された、大規模な天災レベルの魔物討伐中の出来事だ。被害者は数多く出たが、砂漠内で仕留められたので、両国から恩恵を受ける形となり、砂漠の民は以前より生活が潤った。
しかし、亡くなった人々は砂漠民だけに限らず、3桁を軽く超えていたそうだ。
だから誰と特定するのは難しいだろう。
「一緒に?」
「…アタシがこっそり、一緒にしたのさ。夫婦は同じ墓に入るだろ。アタシなんかに同情されたくないかもしれないけどさ、…悲しいじゃない。生涯通して想いあってたのに、見て見ぬふりしてね。2人はアタシが嫁に来てから、2人きりで会う事さえしなかったんだよ。一度もね。不義理と思ってたみたいだよ、バカよね。不義理は、アタシの両親だってのに」
「…それで良かったのか。母さんは」
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「そりゃね、愛されたいって思わなかった事もないけど、それはあの人に対してってより、漠然とね。恋に恋してたようなものさ。あの人の事は尊敬しているし、人として好きだったけど」
「……本当に、2人の間に愛なんてなかったんだ」
「…やっぱまだ、話すには早かったかね」
母の言葉に落胆が乗った気がして、オレは恥ずかしいのか、腹が立ったのか、兎に角反射で立ち上がった。
「…っ!ちが、…」
「子供からすれば悲しい事よね。親が愛し合ってなかったと聞いたら。でもね、愛にも色々あるんだよ。確かに、恋愛としての愛はなかったけど。人として、夫婦としては愛し合い、敬い合っていたよ。だから今ここに、アンタがいるんだよ」
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「……もしアンタが愛を望むなら、心から愛した人を嫁さんにするしかないね。それが1番幸福な事だもんね」
「……あ」
そうだった。首長になるのならば、自分もいつかは跡継ぎを産んで貰わねばならない。その時、相手へ愛だけを求められるわけではない。村人達が納得する相手でなければ。だから政略結婚も視野にいれていたのに。その時、相手を本当の意味で愛せるかなんて分からない。
そもそも自分はちゃんと女性を好きになれるかすら曖昧だ。初体験は男の幼馴染とすませてしまった。女性には手を出し難いからと言う理由で。
だが幼馴染にも恋愛感情があるわけじゃない。
墓穴を掘った気がして、イルラは押し黙った。
「…アンタって本当に聡い子だね。そんなに賢くなけりゃ、あの老人達も次期首長と持ち上げる事もなかっだろうに」
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まだ3歳の子供を王座に座らせようだなんて、大人達の汚い腹の中が見え隠れしていて、母は孤軍奮闘でオレを守り抜いた。今までの努力が実ったのか、女性陣が味方となり、オレが首長となるまでの繋ぎとして、母が代理首長となる事が決定した。
そんな母の苦労や頑張りを無駄にしたくないし、母を尊敬しているから、次期首長になる事に躊躇いはない。母がして来たことを、オレが引き継ぐのは当然のような気もしていた。だが母は、あまり乗り気じゃないように見える。
「アンタは賢いけど偶に捻くれてるね。そこもアタシには可愛いんだけどさ。不安の裏返しだから」
「…今、そんな話してないだろ」
「アタシはどっちでも良いんだよ。正直なところ、世襲じゃなく襲名制の方が良いんじゃないかって思ってるくらいだしね。血筋って言うけどさ、優れた人間ばかりが必ず産まれる訳じゃないんだし。だけどアンタがしたいなら全力で応援するさ。イルラは自慢の子だもの。アンタは良い首長になれるよ」
「……うん」
にっこりと笑う母は少女のように見える。
「…ただアタシはさ、あの人見てて思ったんだ。もう誰も犠牲になって欲しくないって。村の為、他人の為、それはとても良い大義名分だし、悪い事じゃないよ。だけどアンタには好きな事をして欲しいのが本音。やりたい事や、生き甲斐とか、他に見つかったなら、村の事は気にせずに、そっちに行って欲しい」
「…」
「愛する人が見つかったなら、幸せになれるんなら、例え村人が反対しても、どんな形でも、結ばれて欲しい。……この願いも、身勝手なんだろうけどね」
母は酔っていた。突然、小柄な割に豊満な胸に抱き締められる。何年振りかの抱擁に照れ臭く動揺したが、鼻を啜る声が聞こえて抵抗出来なかった。
「あの人は優し過ぎたんだろうね。アタシなんて気にせずに愛する人と結ばれてりゃ良かったのに。責任と義務感だけで生きるのはあんまりだよ。国に義理立てる為に正妻をアタシにして、愛する人を愛人にするのは不義理に思えて出来ずにいて、物分かり良いふりして諦めてさ。でもどんだけ隠しても、2人を見る度に切なさに押し潰されてるのが分かったよ。好き合ってるのに。アタシのせいで。ごめんねすら言えやしない。2人の矜持を傷付けてしまうもの。無知を演じるしかなかったの。義理立てなんて、どうしてもしたいってんなら、その人を正妻にして、アタシを愛人にすりゃ良かったんだ。国への言い訳なんていくらでもあっただろうよ。せめてもう少し生きてくれりゃ良かったのに。アタシは大変だったし苦労もあったけど、楽しんで生きていたんだよ。今もこうやって愛しいアンタを胸に抱いて生きている。祖父様と父さんのおかげでね。父さんが首長になったら、アンタが今くらい大きくなったら、提案するつもりだったんだ。その人と、やり直して欲しいって。なのに、死んでしまうなんて…」
「……母さん」
「……村の犠牲にならないでおくれ。学園に行きたい理由も、村の為なんだろう。首長になるからなんだろ。アタシから産まれたと思えない程、アンタは良い子だし立派な子だ。父さんに良く似てる。だけど、だから、心配でしょうがないんだ」
「……」
「辛い目に遭っても我慢しそうで。悲しくても隠しそうで。向き合う大事さを知ってるから、逃げる選択肢を選ばずに、傷だらけになるんじゃないかって。…アタシは楽観的過ぎるって怒られるくらいだし、悲しかったら泣くし、無理だと思ったら逃げ回っていたんだよ。だから人の悪意にも対応出来たの、助けてって言えば祖父様や父さんが助けてくれたしね」
母は顔を上げた。元は白かったらしい日に焼けた褐色の頬に涙が伝っていた。初めて母の涙を見て動揺してしまう。
泣いてるのは母なのに、まるで涙を拭うように優しく頬を撫でられる。
「……どんな場所にも、良い人もいれば悪い人もいる。良い人の立場が強ければ良いけど、悪い人の立場が強いとその集団は悪に染まりやすくなるもんよ。真っ向から悪意に立ち向かわないで。母さん、アンタが傷付くのイヤよ。人間てね、どこまでも残酷になれる生き物だからさ」
「…今までは、逆のこと言っていた」
「……アンタにはさ、世界は美しいものなんだって、思って欲しかったんだ。だけど嘘じゃないよ。そういう人も勿論居るんだ。だけど…」
「母さん」
母の言葉が続く前に、強く呼べば、母が止まった。赤らんだ目が、無垢な子供のように丸くなっている。
「約束する」
オレはそう言って友を作る事を約束した。
母を安心させたかった。そして、この時ばかりは楽観していた。
友ぐらい簡単に出来るだろうと。
それが浅はかな希望だったと、学園に着くまでの道中で痛い程に思い知ったのだが。
道案内役に、宿の使用人達に、馬車の御者に、全員ではないが確かな差別と侮蔑を受けた。
ククルカの名を聞き、公爵だと知って漸く、奴らは人として対等になったような振る舞いをした。
母の言う悪意の正体に、差別の不条理さに、気付いた。学園に着いた時には、オレはもう疲れていた。大人がああなのだから、子供のコイツらもオレを差別するんだろうと、完全に捻くれていた。
入学式の前日に学園に入ったオレは先に寮へ案内された。最初の同室は挨拶もろくにせず、目も合わさずに出て行った事で、完全に偏見を持ってしまい、クラスでも誰の相手もしないと決めた。
カカココが居てくれて良かった。魔物の蛇、それだけで人払いになったからだ。
母との約束を守れないーー
それだけが懸念だった。
だけど、同室が変わった事でオレはまた甘い考えを持った。
その時に、微温湯へと足を沈めた事に気付けずに。
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