上 下
1 / 1

渡せなかったチョコレート

しおりを挟む

 「決裁をお願いします」というメモ書きとともに、新しく採用する派遣社員の経歴書が数名分、机の上に置かれていた。
 部下が上げてきた派遣社員を不採用とすることは、ほぼない。
 言葉は悪いがコールセンター業務の経験が少しあれば誰でもいい。
 マニュアルにそって受け答えしてくれればそれでいいのだから。
 
 入れ替わりも激しいため派遣社員の面接、採用は部下に任せている。
 知らぬまに社内初の女性コールセンター統括などという立場になってしまった私は、最後の決裁をするだけだ。
 著しく不都合があれば派遣会社にクレームをいれ、契約を切ってしまえばいい。残酷なシステムを普及させた政府とそれを活用する企業、どっちもどっちか――。
 
 いつもはパラパラと形ばかり経歴書をめくって決裁印を押し、部下に告げるだけだが、その日は一人の経歴書の名前に目がとまった。44歳、私と同年齢だ。出身中学の欄に目をやると、私と同じ中学が記されていた。


 遠い記憶が瞬く間に立ち上がってくる―――。

 ―――男はいわば学校のアイドル的存在だった。

 どこの中学校にも一人はいる、同級生はもちろん下級生の女子生徒にまで知られているような。
 端正でありながらジャニーズ系の可愛さものぞかせる容姿にサッカー部のエースとくれば、騒がれないはずがない。そして成績も悪くはなかった。

 バレンタインなどは、山ほどのチョコレートが入っているであろう大きな袋を抱えて、放課後の運動場に向う彼の後ろ姿を覚えている。
 ジャニーズのアイドルになら私も手紙を添えてチョコを送ることはできたろう。
 しかし、ジャニーズのアイドルより遥かに近い存在のはずの学校のアイドルは、ある意味、テレビ画面に映るアイドルより遠い存在だった。

 分厚いメガネをかけ、野暮ったいだけの長い髪を無造作に束ねて、仲のいいほんの数人といつも教室のすみっこにいる少女。きっと、ほとんどの男子生徒は少女の名前すらロクに知らなかったにちがいない。
 そんな存在が学校一のアイドルにチョコなんて渡せるはずがなかった。近づけるはずがなかった――。


 ―――内線の音に我に返り、受話器を手にとった。
「うん、派遣さんOK。全員すすめて」と部下に告げた。


 ―――高校に入学して新しい環境に馴染んだ頃には、少女は恋そのものよりも恋をしうる自分になることを誓った。

 メガネをはずしコンタクトに代え、髪をバッサリと切った。
 鏡に映るのは、やはり冴えない少女だったが、それでも別人になれたような気がした。

 男のことはさほど思い出しもしなくなっていた。もともと恋といえるほどしっかりとした想いではなかったのだろう。集団催眠にかかったように皆と同じように憧れていただけだったのか。この先は、そんなものではなく本当に誰かを好きになった時、せめてチョコを渡せるぐらいにはなりたかった。
 
 やがて大学へと進み、少しずつメイクを覚えた頃、恋は遠いものではなくなっていた。
 少ないながら恋の経験を重ね、肉体の悦びも知り、そして別れに泣いた。
 時は瞬く間に過ぎゆき、就職先を考える時期にきていた。折りしも世にネットが現れた頃だ。しかし、世間一般にはまださほど普及していなかった。私はこれから爆発的にネットが普及すると考え、就職先にプロバイダを選んだ。

 採用され三年もすると会社は急成長を遂げ、入社競争率はおそろしいものとなった。

 以来二十数年つつがなく勤めてきただけだが、私の立場は今では仰々しいものになっていた――。


 ―――男の初出勤となる日、部下が男を連れあいさつにやってきた。

 部下から紹介されるとともに「よろしくお願いします」と頭を下げる男に、いつも通りに微笑みながら「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。
 
 これだけで顔合わせは終わりだ。男と部下が去っていく。
 
 ほんの数秒の対面だったが、男を観察するには十分だった。あの頃の面影はいくらかは残ってはいた。しかし決定的に違っているものがあった。それは人間が身にまとうオーラのようなものだ。あの頃の自信にあふれ華やいだものはどこにもなかった。

 代わりに男を覆っていたのは人生に倦み疲れた中年男にありがちのものだった。
 どんな人生を辿ったかは知らない。知る必要もない―――。

 派遣社員と私の接点はほぼない。
 だが、月末に出勤簿の最終確認印をもらいにくる。今日はその日だ。

 男がやってきた。頭を下げながら遠慮がちに「お願いします」と出勤簿を差し出した。
 出勤日に部下の印が押されていることを確認し、私は一番下の最終確認欄に印を押す。
「おつかれさまでした」と言って出金簿を手渡すと、男は「ありがとうございます」とまた丁寧に頭を下げた。

 背を向け立ち去ろうとした男に「あ、よかったら一ついかがですか?」と声をかける。
 仕事中、少しだけ糖分が欲しい時のために無造作にチョコレートを入れているカップを差し出した。
 男は恭しく「あ、ありがとうございます」と、一つ手にとった。


 もう私は分厚いメガネはかけていない。髪もずいぶんと短くなった。
 結婚して苗字も変わり、何より三十年という歳月が経った。男は今、記憶の片隅にも残っていない少女と三十年ぶりに我知らず対面している。同級生だと告げたら、どんな顔をするだろうか。
 もっともそんなことはしない。

 14歳の頃の自分を頭に思い浮かべた。
 そして母親が、年頃の娘をからかうような気持ちで心の中でつぶやいた。
 
 チョコ渡せたじゃん―――と。
 
 私は周りに気付かれない程度、少しだけ微笑んだ。


                       (了)
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月
恋愛
 第7回ほっこり・じんわり大賞 奨励賞をいただきました。応援くださり、ありがとうございました。 ――珈琲が織りなす、家族の物語  バリスタとして働く桝田亜夜[ますだあや・25歳]は、短期留学していたローマのバルで、途方に暮れている二人の日本人男性に出会った。  ほんの少し手助けするつもりが、彼らから思いがけない頼み事をされる。それは、上司の婚約者になること。   亜夜は断りきれず、その上司だという穂積薫[ほづみかおる・33歳]に引き合わされると、数日間だけ薫の婚約者のふりをすることになった。それが終わりを迎えたとき、二人の間には情熱の火が灯っていた。   旅先の思い出として終わるはずだった関係は、二人を思いも寄らぬ運命の渦に巻き込んでいた。

今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美
恋愛
1才半の息子のいる瑞希は携帯電話のキャリアショップに勤めるシングルマザー。 いつものように保育園に迎えに行くと、2年前に音信不通となっていた元彼が。 帰国したばかりの彼は亡き祖父の後継者となって、大会社のCEOに就任していた。 ずっと連絡出来なかったことを謝罪され、これからは守らせて下さいと求婚され戸惑う瑞希。   ★第17回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました。

逆バレンタインは波乱の予感!?

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
バレンタイン。 チョコを渡せずにいたら、反対に彼から渡された。 男だけもらえるのずるい!とか冗談で言ったのを真に受けたらしい。 それはいい。 それはいいが、中身はチョコじゃなくて指環と婚姻届! 普通なら喜ぶところだろうけど、私たちはもうすぐ終わりそうなカップルなのです……。

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

<完結>【R18】バレンタインデーに可愛い後輩ワンコを食べるつもりが、ドS狼に豹変されて美味しく食べられちゃいました♡

奏音 美都
恋愛
原田美緒は5年下の後輩の新人、柚木波瑠の教育係を担当している。可愛いワンコな柚木くんに癒され、萌えまくり、愛でる幸せな日々を堪能していた。 「柚木くんは美緒にとって、ただの可愛い後輩ワンコ?  それとも……恋愛対象入ってるの?」 「うーーん……可愛いし、愛しいし、触りたいし、抱き締めたいし、それ以上のこともしたいって思ってるけど。これって、恋愛対象?」 「なに逆に聞いてんのよ!  それ、ただの痴女じゃんっ!! こわいなぁ、年増の痴女……」 恋に臆病になってるアラサーと可愛い新人ワンコの可愛い恋のお話、と思いきや、いきなりワンコがドS狼に豹変して翻弄されるドキドキラブコメディー。

彼の愛は不透明◆◆若頭からの愛は深く、底が見えない…沼愛◆◆ 【完結】

まぁ
恋愛
【1分先の未来を生きる言葉を口にしろ】 天野玖未(あまのくみ)飲食店勤務 玖の字が表す‘黒色の美しい石’の通りの容姿ではあるが、未来を見据えてはいない。言葉足らずで少々諦め癖のある23歳 須藤悠仁(すどうゆうじん) 東日本最大極道 須藤組若頭 暗闇にも光る黒い宝を見つけ、垂涎三尺…狙い始める 心に深い傷を持つ彼女が、信じられるものを手に入れるまでの……波乱の軌跡 そこには彼の底なしの愛があった… 作中の人名団体名等、全て架空のフィクションです また本作は違法行為等を推奨するものではありません

【完結】通勤電車の貴公子

青井 海
恋愛
私には気になる人がいる。彼は通勤電車でよく一緒になるだけの人。私は彼のことを何も知らない。 彼のことを見ているだけで幸せだった。 ある日、運命の歯車が動き出す。

処理中です...