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第7章
美しい人
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美弥のような素人女優は、何人かのシーンが1本に集められ収録される。人気女優のように一人で長時間収録する単体作品ではない。
素人女優としてAVに出演し始めて1年ほど経った頃、単体作品の添え物としての役もこなすようになっていた。
単体作品ともなると、ドラマ仕立てとなるものが多く、やはり脚本や設定にも手間と金がかかってくる。脇役としての添え物が必要となる。
主演女優の姉妹役や、友人、同僚、あるいは娘、といったところだ。
これまでにも何本か、そんな添え物としての出演を済ませた。
作品によっては美弥自身のセックスシーンはなく、妙にセリフが多かったりで違う意味で大変だった。
ある日、そんな添え物の仕事が回ってきた。主演はデビューして1年でトップに駆け上った業界でも屈指の超人気女優だと、スカウトマンの片桐から聞いた。
だからといって、どうということはない。淡々と自分の役をこなせばいい。美弥は、そう思いながら現場に向った。
―――スタジオではパッケージの写真撮影が行われていた。激しくフラッシュが焚かれる光の海の中、悠然と微笑む女性に美弥は息を呑んだ―――。
――人気女優ともなると、皆、一様になるほどと思うルックスをしていた。
ただ、いかに綺麗でも可愛くてもAV女優やホステスなど、いわゆる性を前面に押し出さざるを得ない仕事に携わると、どれだけ隠そうとしても澱みや濁りにも似た隠微なものが、わずかばかりでも仄見えてしまう――。
今――美弥の目に映る主演女優にはそれがなかった。どこまでもなかった。それどころか途方もない透明感があった。
隠微さなど全く無縁の優美な気高い世界から、そのままスライドしてきたかのような――。
たとえば、この撮影が――幼少から音楽の世界だけに生きてきた天才ヴァイオリニストやピアニストの音楽CDのための撮影だといわれても、美弥は信じただろう。
立ち尽くしている美弥に気付いた主演女優が、目顔で会釈した。
美弥は慌てて頭を下げた――。
どの世界でも同じだが、AV業界にもヒエラルキーはある。添え物の美弥が挨拶にいっても顔すら向けない女優もいる。そんな中で先方から目顔であいさつされたことに驚いた――。
表紙の撮影はまだ時間がかかりそうだった。添え物の仕事の短所は、こういった出番待ちが長いということだ。
だからスタジオの片隅のベンチに腰掛け、文庫本を開いた――。
――しばらくすると誰かが前に立つ気配に、出番かなと顔を上げた。
驚いた事に先ほどの主演女優が、やさしげな笑みを称え立っていた。
美弥は慌てて立ち上がり、「すみません…表紙撮影が終わったら改めてこちらからご挨拶にうかがおうと思ってました……」
そう謝る美弥に、彼女は首を横に振り「むしろ邪魔してごめんなさい……。何を読まれてたんですか?」遠慮がちに美弥に聞いた。
「小説です、ヘルマンヘッセという人の……」
形の良い唇が、うれしげにほころんだ。
「ヘッセ! ちなみに……ヘッセの?」
美弥がおずおずと文庫本の表紙を見せながら「デミアンです……」と言うと、彼女の涼しげな目元が少し見開かれ、ちょっと待っててくださいと言って控え室の方に消えた。戻ってきた彼女の手には一冊の文庫本が携えられていた。
ヘッセの『春の嵐』だった。ところどころ擦り切れ、古びている。
「好きで好きで何度読んだかわからないぐらい。いつも持ち歩いてたら、こんなになっちゃって……」と恥ずかしそうに彼女は微笑した。
美弥も思わずつられて微笑んだ。美弥が初対面の誰かに、こんな反応を示すのは珍らしいことだった。しかも相手は主演女優だ。
「座りませんか」そういわれて、二人でベンチに腰掛けた。
彼女は美弥にデミアンの印象を聞き、うれしそうに相槌を打った。デミアンも好きなようだった。他に好きな作家を聞かれ、海外文学は読み始めたばかりで漱石や芥川が好きだと答えると、彼女は幾つかの作品を挙げた。それは美弥の好きなものばかりだった。
本の話ができるのが、美弥はうれしかった。
上京してから、誰かと本の話などしたことはなかった。慣れない一人暮らしを始めたばかりだから、尚更うれしさが沁みた。
―――話しながら美弥は、彼女を観察した。
彼女には、圧倒的優位にある者が弱者に施しのように優しく接することで自らが悦に入るような嫌らしいものは、どこにもなかった。
孤独な一人旅の途中で、たまたま出会った旅人が同郷と知り、無邪気に喜んでいるといった風だった。
「優里さん、お願いします!」というスタッフの声に「はい」と小気味よく返事し、彼女は立ち上がった。
たおやかに美弥を振り返り、「また、よかったら話しましょ」そう言った。
セットに向って歩く後姿さえ美しかった――。
美弥はその後ろ姿に見蕩れた――。
ただ、やはりこの世界の人だ――と間近で観察して思った。
他の多くの主演女優たちのように隠微なオーラは纏っていないが、不意に一瞬、瞳が闇に吸い込まれていくように翳りを帯びる。
まるで美弥のよく知る茫漠の世界に入っていくように――。
たぶん、彼女もまた哀しい過去を秘めている――美弥はそう思った―――。
素人女優としてAVに出演し始めて1年ほど経った頃、単体作品の添え物としての役もこなすようになっていた。
単体作品ともなると、ドラマ仕立てとなるものが多く、やはり脚本や設定にも手間と金がかかってくる。脇役としての添え物が必要となる。
主演女優の姉妹役や、友人、同僚、あるいは娘、といったところだ。
これまでにも何本か、そんな添え物としての出演を済ませた。
作品によっては美弥自身のセックスシーンはなく、妙にセリフが多かったりで違う意味で大変だった。
ある日、そんな添え物の仕事が回ってきた。主演はデビューして1年でトップに駆け上った業界でも屈指の超人気女優だと、スカウトマンの片桐から聞いた。
だからといって、どうということはない。淡々と自分の役をこなせばいい。美弥は、そう思いながら現場に向った。
―――スタジオではパッケージの写真撮影が行われていた。激しくフラッシュが焚かれる光の海の中、悠然と微笑む女性に美弥は息を呑んだ―――。
――人気女優ともなると、皆、一様になるほどと思うルックスをしていた。
ただ、いかに綺麗でも可愛くてもAV女優やホステスなど、いわゆる性を前面に押し出さざるを得ない仕事に携わると、どれだけ隠そうとしても澱みや濁りにも似た隠微なものが、わずかばかりでも仄見えてしまう――。
今――美弥の目に映る主演女優にはそれがなかった。どこまでもなかった。それどころか途方もない透明感があった。
隠微さなど全く無縁の優美な気高い世界から、そのままスライドしてきたかのような――。
たとえば、この撮影が――幼少から音楽の世界だけに生きてきた天才ヴァイオリニストやピアニストの音楽CDのための撮影だといわれても、美弥は信じただろう。
立ち尽くしている美弥に気付いた主演女優が、目顔で会釈した。
美弥は慌てて頭を下げた――。
どの世界でも同じだが、AV業界にもヒエラルキーはある。添え物の美弥が挨拶にいっても顔すら向けない女優もいる。そんな中で先方から目顔であいさつされたことに驚いた――。
表紙の撮影はまだ時間がかかりそうだった。添え物の仕事の短所は、こういった出番待ちが長いということだ。
だからスタジオの片隅のベンチに腰掛け、文庫本を開いた――。
――しばらくすると誰かが前に立つ気配に、出番かなと顔を上げた。
驚いた事に先ほどの主演女優が、やさしげな笑みを称え立っていた。
美弥は慌てて立ち上がり、「すみません…表紙撮影が終わったら改めてこちらからご挨拶にうかがおうと思ってました……」
そう謝る美弥に、彼女は首を横に振り「むしろ邪魔してごめんなさい……。何を読まれてたんですか?」遠慮がちに美弥に聞いた。
「小説です、ヘルマンヘッセという人の……」
形の良い唇が、うれしげにほころんだ。
「ヘッセ! ちなみに……ヘッセの?」
美弥がおずおずと文庫本の表紙を見せながら「デミアンです……」と言うと、彼女の涼しげな目元が少し見開かれ、ちょっと待っててくださいと言って控え室の方に消えた。戻ってきた彼女の手には一冊の文庫本が携えられていた。
ヘッセの『春の嵐』だった。ところどころ擦り切れ、古びている。
「好きで好きで何度読んだかわからないぐらい。いつも持ち歩いてたら、こんなになっちゃって……」と恥ずかしそうに彼女は微笑した。
美弥も思わずつられて微笑んだ。美弥が初対面の誰かに、こんな反応を示すのは珍らしいことだった。しかも相手は主演女優だ。
「座りませんか」そういわれて、二人でベンチに腰掛けた。
彼女は美弥にデミアンの印象を聞き、うれしそうに相槌を打った。デミアンも好きなようだった。他に好きな作家を聞かれ、海外文学は読み始めたばかりで漱石や芥川が好きだと答えると、彼女は幾つかの作品を挙げた。それは美弥の好きなものばかりだった。
本の話ができるのが、美弥はうれしかった。
上京してから、誰かと本の話などしたことはなかった。慣れない一人暮らしを始めたばかりだから、尚更うれしさが沁みた。
―――話しながら美弥は、彼女を観察した。
彼女には、圧倒的優位にある者が弱者に施しのように優しく接することで自らが悦に入るような嫌らしいものは、どこにもなかった。
孤独な一人旅の途中で、たまたま出会った旅人が同郷と知り、無邪気に喜んでいるといった風だった。
「優里さん、お願いします!」というスタッフの声に「はい」と小気味よく返事し、彼女は立ち上がった。
たおやかに美弥を振り返り、「また、よかったら話しましょ」そう言った。
セットに向って歩く後姿さえ美しかった――。
美弥はその後ろ姿に見蕩れた――。
ただ、やはりこの世界の人だ――と間近で観察して思った。
他の多くの主演女優たちのように隠微なオーラは纏っていないが、不意に一瞬、瞳が闇に吸い込まれていくように翳りを帯びる。
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