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井戸の中の人魚
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久しぶりに訪れた田舎だったが、何も変わっていなかった。
田んぼの間を抜ける砂利道も川へ降りる坂も記憶の通りであったが、どれも小さく、よくできた模型の中を歩いているような気分になった。
「こんにちは」
木陰に座っている老人に挨拶する。20年前からずっとそこに座ってしぼんでしまったかのように小さくなっている。悪い冗談のように思えた。
「おー、じゅんちゃんか? えらく立派になって」
「ご無沙汰しております」
「ここらは大して変わらんが……。そうそう、あの井戸な。埋めてしもたで」
「はい、聞きました。……井戸の底にどこかへ続く通路なんてありませんでしたか?」
「城跡じゃないし、そういうもんは無かったの……」
20年ぶりに田舎に戻って来たのも、その話を聞いたからだった。
少し山に入ったところに古い井戸があった。幼い頃、何かに呼ばれたように目を覚ますと夜中に家を抜け出してその井戸を見に行っていたのだ。そんな日は、夜中でも目がなれると月の明かりで昼間のように明るく、迷うことなく井戸まで山道を歩けた。そして、井戸には、美しい女性がいた。
彼女がどこか、この世ならざるものであると感じていた。
その神秘的な美しさのせいだろうか。近づいてはならないと、幼き思いがそう告げて、井戸の縁に腰を掛ける美しい女性に声をかける事もなく、遠くからこっそりと眺めていたのだった。
彼女は静かに月を見上げ、月の光が反射しているような白い肌に、春には若葉のうすい緑の浴衣をまとい、夏には深い森の緑の浴衣を、秋には紅いモミジ柄の浴衣を、冬には雪のように真っ白な、そして、袖口からのびる指はつららのように透明だった。
だが、雪が解け、春が始まりにひと際明るくなった月を追いかけて、山道を井戸まで急ぐと、彼女の姿はなかった。
まだ来ていないのだろうか?
息をひそめ木陰から井戸を見張っていると、奇妙な思いが沸き上がってくる。それを抑えきれない好奇心と言うのだろうか。考えてはならないと、頭の中から振り払おうとする気持ちを奮い立たせるほど、抗いがたいものに引き寄せられる。知らぬ間に足が前に進んでいた。
井戸の周りに積み上げられた石の縁に彼女は腰を下ろしていた。ひんやりと冷たいそこに手を置いて、井戸の底を覗き込む。予想と違って、井戸の中は、真っ暗だった。何も見えず、水面がどこにあるかさえ分からないほどだった。
安心したような、残念なような気持ちに、ため息をついた瞬間、井戸の底の水面が輝き始めた。それは中天に上った月の光が差し込んだだけだが、地面の下の闇の中から照らし出される光に、どっちが空なのか、どっちが地面なのか、分からなくなるような錯覚に襲われた。
そう、ふらりと目眩のような感覚。
次の瞬間、全身を叩きつけるような冷たさが襲ってきた。水の中へ落ちたのだ。全身を動かし、手足を伸ばして、水面へ出ようとするが、指先から真っ黒な水に溶けていくように感覚が消え始めた。
ただ、視界の中で細かく砕けてしまった月の光に、手を伸ばした。すると、突然、バラバラになっていた月が大きく丸い姿に戻った。
白く冷たい手で、水面の上に掲げられているのはすぐに分かった。氷のように冷たく、雪のように柔らかい。だが、震えが止まらなかったのは寒さのせいではなかった。井戸の底の真っ黒な水面は、四方に、遥か遠くまで続いていたのだ。地下迷宮のような、あの世へ続く通路の入り口に立つ恐怖に震えていたのだった。
気がついた時には井戸から助け上げられていた。
いなくなっていることに気が付いた大人たちが総出で探すと、井戸の中に垂れ下がった蔦にしがみ付いて眠っていたらしく、助け出された後、こっぴどく怒られはした。
それから夜中に井戸へ近づくことはなくなったが、あの女性の姿を忘れた事はなかった。静かに月を見上げる美しい横顔。背中を支えてくれた手。彼女に何かを伝えるべきだと思うも、それを言葉に出来ないまま二十年余りが過ぎ去ったのだ。
迷うほどの山道も裏庭に続く坂でしかなく、井戸は記憶にあったよりずっと小さい。石を積んだ縁は膝よりも低く中は砂利で埋められ、石の間から竹筒が顔を出していなければ、そこに井戸があった気がつかないかもしれない。井戸などを埋める時に、地中にガスがたまらない様に長い竹の管を通しておくのだそうだ。井戸は埋められても、そこに小さな井戸が残っている。小さな希望が残っている。
昼のように明るい月の光の中、竹筒の中を通って井戸の底へ月の光が届くのを静かに待っていた。
その光は彼女には届かないかもしれない。届いたとしても、その小さな穴では……。
陰りそうになる思いに、そっと視線を井戸へ向けると、竹筒から月の光を反射して銀色に輝く透明の蒸気のようなものが噴き出していた。
それは、雲のように集まり天へと上る。決して手の届かない高みへ。そう思った瞬間、水に浸した浴衣を覆いかぶせるように広げていた。
ばさりと、浴衣は地面に落ちた。
輝いていた蒸気も消え失せ、月はゆっくりと傾き始めていた。
何もかも遅すぎたのだと、落ちた浴衣を拾おうと手を伸ばすと、浴衣がもぞもぞと動いている。
全身が文字通り凍り付いた。指先ひとつ動かせぬまま、目を見開いていると、浴衣の縁がふわりとめくれ、そこから少女が顔を出した。記憶にあるより、ずっと幼い、だが、月を見上げる女性の顔だった。
彼女に何と言葉をかけて良いのか分からなかった。
「ありがとう」だろうか?
「あいたかった」だろうか?
それは、二十年余り、胸に埋めていた思いの言葉だったが、いざ声に出そうとすれば、霞のように形のないものだった。
だが、少女は差し伸ばした手を取ると、ふわりと舞い上がるように首に抱きついて来た。言葉はいらなかったのだ。その手は、とても冷たかった。だが、雨に濡れた土のように、ぬくもりのある冷たさだった。
田んぼの間を抜ける砂利道も川へ降りる坂も記憶の通りであったが、どれも小さく、よくできた模型の中を歩いているような気分になった。
「こんにちは」
木陰に座っている老人に挨拶する。20年前からずっとそこに座ってしぼんでしまったかのように小さくなっている。悪い冗談のように思えた。
「おー、じゅんちゃんか? えらく立派になって」
「ご無沙汰しております」
「ここらは大して変わらんが……。そうそう、あの井戸な。埋めてしもたで」
「はい、聞きました。……井戸の底にどこかへ続く通路なんてありませんでしたか?」
「城跡じゃないし、そういうもんは無かったの……」
20年ぶりに田舎に戻って来たのも、その話を聞いたからだった。
少し山に入ったところに古い井戸があった。幼い頃、何かに呼ばれたように目を覚ますと夜中に家を抜け出してその井戸を見に行っていたのだ。そんな日は、夜中でも目がなれると月の明かりで昼間のように明るく、迷うことなく井戸まで山道を歩けた。そして、井戸には、美しい女性がいた。
彼女がどこか、この世ならざるものであると感じていた。
その神秘的な美しさのせいだろうか。近づいてはならないと、幼き思いがそう告げて、井戸の縁に腰を掛ける美しい女性に声をかける事もなく、遠くからこっそりと眺めていたのだった。
彼女は静かに月を見上げ、月の光が反射しているような白い肌に、春には若葉のうすい緑の浴衣をまとい、夏には深い森の緑の浴衣を、秋には紅いモミジ柄の浴衣を、冬には雪のように真っ白な、そして、袖口からのびる指はつららのように透明だった。
だが、雪が解け、春が始まりにひと際明るくなった月を追いかけて、山道を井戸まで急ぐと、彼女の姿はなかった。
まだ来ていないのだろうか?
息をひそめ木陰から井戸を見張っていると、奇妙な思いが沸き上がってくる。それを抑えきれない好奇心と言うのだろうか。考えてはならないと、頭の中から振り払おうとする気持ちを奮い立たせるほど、抗いがたいものに引き寄せられる。知らぬ間に足が前に進んでいた。
井戸の周りに積み上げられた石の縁に彼女は腰を下ろしていた。ひんやりと冷たいそこに手を置いて、井戸の底を覗き込む。予想と違って、井戸の中は、真っ暗だった。何も見えず、水面がどこにあるかさえ分からないほどだった。
安心したような、残念なような気持ちに、ため息をついた瞬間、井戸の底の水面が輝き始めた。それは中天に上った月の光が差し込んだだけだが、地面の下の闇の中から照らし出される光に、どっちが空なのか、どっちが地面なのか、分からなくなるような錯覚に襲われた。
そう、ふらりと目眩のような感覚。
次の瞬間、全身を叩きつけるような冷たさが襲ってきた。水の中へ落ちたのだ。全身を動かし、手足を伸ばして、水面へ出ようとするが、指先から真っ黒な水に溶けていくように感覚が消え始めた。
ただ、視界の中で細かく砕けてしまった月の光に、手を伸ばした。すると、突然、バラバラになっていた月が大きく丸い姿に戻った。
白く冷たい手で、水面の上に掲げられているのはすぐに分かった。氷のように冷たく、雪のように柔らかい。だが、震えが止まらなかったのは寒さのせいではなかった。井戸の底の真っ黒な水面は、四方に、遥か遠くまで続いていたのだ。地下迷宮のような、あの世へ続く通路の入り口に立つ恐怖に震えていたのだった。
気がついた時には井戸から助け上げられていた。
いなくなっていることに気が付いた大人たちが総出で探すと、井戸の中に垂れ下がった蔦にしがみ付いて眠っていたらしく、助け出された後、こっぴどく怒られはした。
それから夜中に井戸へ近づくことはなくなったが、あの女性の姿を忘れた事はなかった。静かに月を見上げる美しい横顔。背中を支えてくれた手。彼女に何かを伝えるべきだと思うも、それを言葉に出来ないまま二十年余りが過ぎ去ったのだ。
迷うほどの山道も裏庭に続く坂でしかなく、井戸は記憶にあったよりずっと小さい。石を積んだ縁は膝よりも低く中は砂利で埋められ、石の間から竹筒が顔を出していなければ、そこに井戸があった気がつかないかもしれない。井戸などを埋める時に、地中にガスがたまらない様に長い竹の管を通しておくのだそうだ。井戸は埋められても、そこに小さな井戸が残っている。小さな希望が残っている。
昼のように明るい月の光の中、竹筒の中を通って井戸の底へ月の光が届くのを静かに待っていた。
その光は彼女には届かないかもしれない。届いたとしても、その小さな穴では……。
陰りそうになる思いに、そっと視線を井戸へ向けると、竹筒から月の光を反射して銀色に輝く透明の蒸気のようなものが噴き出していた。
それは、雲のように集まり天へと上る。決して手の届かない高みへ。そう思った瞬間、水に浸した浴衣を覆いかぶせるように広げていた。
ばさりと、浴衣は地面に落ちた。
輝いていた蒸気も消え失せ、月はゆっくりと傾き始めていた。
何もかも遅すぎたのだと、落ちた浴衣を拾おうと手を伸ばすと、浴衣がもぞもぞと動いている。
全身が文字通り凍り付いた。指先ひとつ動かせぬまま、目を見開いていると、浴衣の縁がふわりとめくれ、そこから少女が顔を出した。記憶にあるより、ずっと幼い、だが、月を見上げる女性の顔だった。
彼女に何と言葉をかけて良いのか分からなかった。
「ありがとう」だろうか?
「あいたかった」だろうか?
それは、二十年余り、胸に埋めていた思いの言葉だったが、いざ声に出そうとすれば、霞のように形のないものだった。
だが、少女は差し伸ばした手を取ると、ふわりと舞い上がるように首に抱きついて来た。言葉はいらなかったのだ。その手は、とても冷たかった。だが、雨に濡れた土のように、ぬくもりのある冷たさだった。
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