蜘蛛の恩返し

海土竜

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蜘蛛の恩返し

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 庭の木に蜘蛛の巣がかかっていた。
 普段ならさっさと箒で払ってしまっていたはずだったが、朝露に濡れたそれは、まばゆい輝きを放つ銀の糸にようで、巣の真ん中にでんと構える黄色と黒の模様で飾られた持ち主の姿は、グロテスクな生き物と言うよりは未知のテクノロジーで作られた精巧な機械の美しさを備えている。
 足を広げれば、指を広げた手と代わらない大きさの生き物に恐れをなしたわけではない。
 あちこち這い回るような生き物ではない。花の咲かない木の飾りとして、緑の枝に色どりを与えてくれるだろうし、腹が減れば、暖かくなると、どこからともなく庭に入り込み、不快な音を立てて飛び回る蠅や蚊を退治してくれるだろう。
 世話をする必要もなく、時折その姿を眺めて、美的興味と恐怖を伴う好奇心を満足させつつ、お互いに知性的な距離感を保つ隣人として共存できるのではないかと思っていた。
 だが、蜘蛛の方は別の考えを持っていた。
 腹の足しになりそうもない小さな蚊や見るからにまずそうな蠅には見向きもしなかった。
 それらが巣の間を通り抜けるのに何の興味も持っていないようだったし、巣から動こうとしないため、それらを退治するのに殺虫剤を使う事をためらわせた。
 しかし、蜘蛛とて戒律を守って食事をしないわけではなかった。
 ある日、庭に見た事もない美しい蝶が迷い込んで来た。
 何と言う蝶なのか名を調べようと、優雅に羽を揺らして舞う姿を目で追う。ふわりと風に舞っていたかと思うと、急に蜘蛛の巣へと吸い込まれ、目にも止まらぬ速さで蜘蛛の前足に押さえつけられた。後には、大きな顎が動くのに合わせて、しわくちゃの羽が上下に動くだけであった。
 瞬間的に怒りが沸き上がったが、見た目だけで美しいと勝手な価値を押し付けようとしている人間が、生きるための食事をしているだけの相手に向けられる怒りではないと気づいて、情けなく思ったが、同時に引っ込み切れない感情でもあった。
 ただ、その答えはなく。静かに窓を閉めて見ない振りをしていると、夕立が降ってきた。
 真っ黒な雲が立ち込め、叩きつける様な大粒の雨が降った。
 澄んだ水の匂いが空気に混じる。胸につかえていた、もやっとした言葉にならない感情を洗い流してくれるかのように。蜘蛛の巣を叩き壊してしまおうとした罪悪感も、衝動的な感情をわき上がらせた自分への嫌悪感もすべて洗い流してくれたように。
 心底、すっとした。
 そして、雨上がりの濡れた枝に、美しい隣人の姿を思い出し、暗い空のような喪失感に包まれた。
 巣は雨で流され、黄色と黒の模様も排水溝に吸い込まれて行った。二度と目にすることはないだろう。
 そう思って枝を眺めていると、ゆるやかな風の中にきらりと輝く糸が揺れていた。
 胸が躍った。
 黄色と黒の畏敬の念を抱くほど美しい金属のような姿が枝の上に見えると、残酷な捕食者だと非難しようとした思いは影を潜めた。
 ゆるやかな風の中に光の糸が走るたびに、枝の間の透明なモニターの幾何学的な模様に線が足された。
 前よりも美しく複雑な模様をそこに描き出そうとしている。
 他の生き物を捕らえる残酷な罠であったとしても、その美しさを讃えても良いと考えるのは、また身勝手な思いだろうか。
 それに答えは必要なかった。お互いの知性的な距離を保ってさえいれば。

 静かに窓を閉めてから数日が経つと、また夕立が降った。
 庭に出ると叩きつける様な雨が枝を揺らし、銀色の模様は跡形もなく消え去っていた。あれほど目立つ黄色と黒の模様を持つ姿は、どこにも見当たらない。
 例えどれだけ激しい雨が降っても、蜘蛛はどこかへ身を潜め、雨が上がれば流された巣を新しく張り直す。風が枝を揺らし、雷が大気を揺らしても。
 それもまた、人間の身勝手だろうか。
 激しい雨と風に、日の光を遮る分厚い雲に、恐れを抱いたのだろうか。
 知性的な距離を保ちながらも手を差し伸べ合えないかと模索するように、蜘蛛の巣のあった枝に傘を置いた。
 その傘の下で、雨をしのいでくれるかもしれない。
 その傘の下に巣を作れば、雨に流される事もない。
 だが、雨が上がると、それがいらぬお節介とばかりに、蜘蛛は別の枝に巣をかけていた。
 自分の愚かしさに苦笑しながら濡れた傘をたたもうとすると、傘の上に、見た事もない美しい蝶の羽が、揃えて置かれていた。無地の傘に小さな花が咲いたように。
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