籠の中の鳥

海土竜

文字の大きさ
上 下
5 / 23

逃走 1

しおりを挟む
 荷物のように抱えられて揺さぶられていたが、目の前をふさいでいた霧が急に晴れた。真っ青な空を縁取る葦の林と、その隙間から強く差し込む光。途方もない広さの川が進む道を塞いでいた。走っている途中も脇に抱えられたまま何度か頭を引っ張り上げられていたが、どこへ向かって進んでいるのか確認する余裕はなかった。
 脇に抱えたままだと、どうしても頭が地面に近くなる。沼地やくぼ地で地面に顔を向けていると、溜まっている有毒ガスなどで窒息する可能性もある。だから時折、無理に引き起こされていたのだ。背負ってしまえば、地面から離れるため問題ない様に思えるが、戦場で背中に背負うなど矢の的にしかならない。馬より速く走れなければ、戦場を走り抜けた頃には、矢の数本も刺さっているだろう。
 目の前に現れた川に足を止めた六角義賢が、どんな顔をしているのか。進路を塞がれ立往生しているのかと思うと、見上げるのが不安になった。今にも後ろから騎馬が追いついてくると、抱えられたまま振り返ろうとしていたが、葦の林の影から小舟が音もなく漕ぎ出されてきた。

「若、御無事で」

 薄汚れた着物に手ぬぐいで頬被りをした渡し船の船頭は、幅の広い川ならどこにでもいそうな農民のように見えたが、鎧武者相手に落ち着いた低い声で尋ね、返事も待たずに船を岸に寄せると、櫓を突き立てて揺れないように固定した。
 義賢は船の縁を軽くまたいで飛び乗る。しっかりと押さえられていた船は、少し揺れただけだった。運ばれていた義藤は、詰めて座れば5人ほどは座れる細長い船の上に下ろされた。即座に、手をついている船底がぎぃと小さく軋んで水面を進みだした。首を回して見上げると、船頭は随分と背が高く顔は見えなかったが、みすぼらしい着物から覗く櫓を操る腕は、一介の船頭には似つかわしくないほど鍛えられていた。

「首尾はどうだ?」

 義賢は船頭に尋ねたようだったが、視線は離れたばかりの岸に向けられていた。その意をくみ取ってか、

「三雲は別の船を用意しております。向こうの方が、先に進藤の用意した計画の通り合流地点に着いているでしょう」

 三雲成持もそうだが進藤賢豊も甲賀六宿老の一人だ。それを知っている船頭の声も聞き覚えがあった。身なりに厳しく、普段のきっちりした姿とかけ離れていたため気がつかなかったが、船頭も甲賀六宿老の一人、平井定武だった。

「義藤様は、鎧を脱いだ方がよろしいですな」

 鎧飾りと大きな兜の前立てで、狭い船の上で身動きが取れなくなっていると言う理由だけでもない。遮る物の無い水面の上では、とにかくその恰好は目立つのだった。義賢に手伝ってもらいながら鎧を外し、船の縁から乗り出して顔を洗うと、垂れた髪の毛まで乾いた泥が付いていた。それを爪でそぎ落とそうとしていて、急に胸が締め付けられるような痛みに襲われた。初めての戦場で、刀を抜く事はおろか自分の足で歩く事さえままならず、泥にまみれて逃げ出してきたのだ。部下も見捨てて。込み上げてきた口惜しさと情けなさで、言葉にもならない痛みに押しつぶされそうだった。そして、その後悔を抱えたまま、船で運ばれて行くだけなのだろうか。その心の内を見透かしたように、

「お気になさいますな。戦場から持ち帰るのは、自分の命ひとつで十分なのですよ」

 六角義賢と平井定武のどちらがその言葉を口にしたのだろうか。どちらにしても、義藤には驚きだった。彼らのような戦場でいくつも手柄を上げた百戦錬磨の武将が、そのような言葉を口にするとは。

「このまま近江の坂本まで、船を進められるか?」

「そう、上手くは行きますまい。京に近づく頃には、知らせが届いて警戒も厳しくなっているでしょう。水上の関所を抜けるのに、行きのように勢いに任せる訳にもいきませんし」

「進藤の読み通りと言う訳か」

「父の居る東山御城へは、戻れないのですか?」

 東山御城は、義藤の父・足利義晴が将軍職を辞したのち改修した城だった。京都と近江の間を繋ぐ重要な戦略拠点であり、それにふさわしく何重もの曲輪が張り巡らされた城で、細川元晴側の本拠地と言えた。それは、勝ちに乗じて追撃する三好長慶の軍の目指す場所にもなる。真っすぐに目指せば戦闘は避けられないだろう。

「大丈夫です。ただ、南に下って、大きく迂回する事になりますが」

 それも彼らの予測の内だった。 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

女の首を所望いたす

陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。 その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。 「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」 若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

戦争はただ冷酷に

航空戦艦信濃
歴史・時代
 1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…  1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

処理中です...