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江口の戦い 3
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仰向けに空を見上げたまま、胴当ての脇に手を突っ込んで内側から丸めたさらしを引き抜いて、顔を拭いた。甲冑は紐で縛って固定すると言っても、きつく縛り付けるだけではずれるため、内側の隙間にさらしを詰め込んで体に合うように調整しているのである。詰め込んださらしは、斬られた時の傷を押さえて出血を押さえる役目もあり、かなり堅めに押し込まれていたため、泥沼に浸かっても水を吸い込まずに済んでいた。泥の上に浮かべたのも、そのおかげだ。水を吸っていたら、泥に沈んで這いあがれなかっただろう。
空は濃淡の違う白に覆われているだけで、何も見えなかった。思い返せば、初めは、敵の姿など見えはしなかったのではないだろうか。仲間の槍の穂先に触れた者が叫び声を上げただけ、臆病な叫び声が霧の向こうに敵の姿を浮かび上がらせていただけだったのかもしれない。だが、次第に聞こえてくる音は確かな物となり、槍を振るう音、金属のぶつかり合う音が近づいて来ている。
それは間違いなく合戦の音だった。
息が整うのを待ってはいられない。目の前をふさぐ霧は、光が増すほど白く輝き、濃い壁となった。腹ばいになるようにして、地面の上の草を手で探りながら沼にはまらぬよう移動し始めた。濡れた草を撫でると雫が跳ねて逃げる。小さな波のように地面が震えている。それが唐突に、突き上げるような揺れと水を叩く音に変わり、馬の駆ける音になった。
味方が駆け寄って来たのかと、安堵し立ち上がろうとしたが、その勢い、殺気立ったまでの勢いに、見方ではないと直感が告げ、兜を地面につけ亀のように縮こまった。見つからぬよう祈った。濃い霧の中、馬の背の上からなら地面に伏せている相手を見つけられはしないだろう。踏まれても声を上げなければ、石でも踏みつけたと思うだろう。
崖から転がり落ちてきた岩が地面を叩きつけて、堅い地面を泥のようにえぐっているのではないかと思えるような衝撃がすぐそばを駆け抜けていった。無数の馬の蹄だ。雪崩のような勢いだったが、それが馬の嘶きを合図に、ゆっくりと水たまりを踏む音に変わって引き返してくる。
「これは、これは、すっかり見違えましたな義藤様。その御姿、実によく似合っておられる。この様な所で泥遊びに興じられておるとは」
低い笑い声がいくつも響いた。顔を上げても霧で良くは見えなかったが、複数の騎馬が取り囲んでいるのが分かる。味方ではない。だが、少しでも将軍としての威厳を保たねば。伏せたままでは格好がつかない。体を起こそうとすると、馬上から槍を振り下ろされた。
白い霧が切り裂かれ視界が開けたが、代わりに槍の穂先から跳び散った泥が目を塞いだ。だが、その一瞬、馬上にあった大きな武者の姿は、見覚えがあった。一度見れば忘れようもない、父・義晴が将軍だった頃、謁見に来た三好長慶の側らで、周りの者たちより頭一つ、いや、二つは大きな体を折り畳んでいた弟の十河一存だった。座敷であっては場違いな山のような姿でも、鬼と揶揄されるほど鍛え上げられた岩のような姿は滑稽だと笑えはしなかったが、戦場で相対すれば、圧倒的な威圧感に言葉も出ない。
「顔まで泥まみれとは、何とも逞しい。さぞ、大した手柄を上げられた事でしょうな」
腹の内に込み上げてくる熱い物が恐怖を忘れさせたが、声を上げる前に冷たくなった泥に熱を奪われてしまったようだった。馬上から降り注ぐ嘲笑に、小さく唸って対抗の意思を表すのが精一杯で、重い兜のせいで上を向いて睨み返す事も出来なかった。
「将軍が迷子になられても困るからな、綱を付けてさし上げろ」
泥を撥ねる足音が近づいてくる。獣のように縄に繋いで引いて行こうと言うのか。捕まるにしても毅然とした態度を示そうとしたが、泥まみれの鎧が重く、立ち上がれもしない。逃げ出すなど、更に不可能だ。成すがままにと、泥にまみれた地面に顔を向けたまま目をつぶった時に、耳に狼の遠吠えが聞こえた。
合戦の最中に、これ程人の間近で遠吠えを上げる狼がいるのか?
それに応えるように、近くの霧の中で遠吠えが上がり、速く軽い足音が周辺から近づいてくる。
「何事だ! こやつらはっ……うぐっ……」
十河一存の怒号が左腕に突き立った矢に遮られた。
義藤はその姿を見上げる暇もなく、駆け寄ってきた足音に担ぎ上げられ、地面に伏せた体勢のまま少しだけ浮いた状態で滑るように運ばれた。体をひねって首を回し、相手を確かめようとしても、兜の頬だれが邪魔だった。見えないと分かっていても、確かめずにはいられなかった。何度か頭を動かしていると、見えない兜の向こうから声が返って来た。
「あまり暴れるな、菊憧丸」
よく知った懐かしい声。低く力強い声がこれまでの心細さを忘れさせて、義藤はこれまで貯め込んでいた肺の空気を一気に吐き出すように答えた。
「義賢兄上!」
「おう、もう少し辛抱してくれ」
聞きなれた声は、体を低くしたまま義藤の体を抱えて凄い速さで足場の悪い沼地を駆けながらだが、少しも息を乱さず軽く答えた。その声の主は、六角義賢。甲賀と伊賀を統治する六角家の当主で、義藤の烏帽子親となった六角定頼の息子だ。六角家は京都から落ち延びた足利義晴の後ろ盾であり、幼い義藤とは年の離れた兄弟のように仲良く育った間柄だった。
忍びの国の当主だけあって、義賢も厳しい鍛錬をこなしていた。最小限の防具だけ付けた軽装で、義藤を抱えるむき出しの腕は堅く絞った縄の様に引き締まっており、しっかりと支えられた体は、少しも揺れていなかった。それに、常人なら二の足を踏んでためらう深い霧の向こうを見通せるかのように、速度を落とさず走り続けられた。
白い壁となって逃げ道を塞いでいた霧は、今は追手を遮り逃亡を手助けしてくれていた。視界を塞いでいる霧に感謝をしていたが、霧は少しずつ薄くなり始めていた。じっとりと濡れて肌に張り付くようだった白い壁は、走る勢いに押されて花びらのように舞い上がった。完全に消えてしまえば、馬で追いかける追手から逃げられはしないと、運ばれているだけの義藤にも理解できた。一人でいる時とは逆に、霧が晴れない事を祈らなければならなかった。
だが、祈った所で薄まり始めた霧は留めようもなく。更に勢いをつけた六角義賢が地面を蹴った瞬間、霧の中から飛び出し、眩い日の光にさらされた。
空は濃淡の違う白に覆われているだけで、何も見えなかった。思い返せば、初めは、敵の姿など見えはしなかったのではないだろうか。仲間の槍の穂先に触れた者が叫び声を上げただけ、臆病な叫び声が霧の向こうに敵の姿を浮かび上がらせていただけだったのかもしれない。だが、次第に聞こえてくる音は確かな物となり、槍を振るう音、金属のぶつかり合う音が近づいて来ている。
それは間違いなく合戦の音だった。
息が整うのを待ってはいられない。目の前をふさぐ霧は、光が増すほど白く輝き、濃い壁となった。腹ばいになるようにして、地面の上の草を手で探りながら沼にはまらぬよう移動し始めた。濡れた草を撫でると雫が跳ねて逃げる。小さな波のように地面が震えている。それが唐突に、突き上げるような揺れと水を叩く音に変わり、馬の駆ける音になった。
味方が駆け寄って来たのかと、安堵し立ち上がろうとしたが、その勢い、殺気立ったまでの勢いに、見方ではないと直感が告げ、兜を地面につけ亀のように縮こまった。見つからぬよう祈った。濃い霧の中、馬の背の上からなら地面に伏せている相手を見つけられはしないだろう。踏まれても声を上げなければ、石でも踏みつけたと思うだろう。
崖から転がり落ちてきた岩が地面を叩きつけて、堅い地面を泥のようにえぐっているのではないかと思えるような衝撃がすぐそばを駆け抜けていった。無数の馬の蹄だ。雪崩のような勢いだったが、それが馬の嘶きを合図に、ゆっくりと水たまりを踏む音に変わって引き返してくる。
「これは、これは、すっかり見違えましたな義藤様。その御姿、実によく似合っておられる。この様な所で泥遊びに興じられておるとは」
低い笑い声がいくつも響いた。顔を上げても霧で良くは見えなかったが、複数の騎馬が取り囲んでいるのが分かる。味方ではない。だが、少しでも将軍としての威厳を保たねば。伏せたままでは格好がつかない。体を起こそうとすると、馬上から槍を振り下ろされた。
白い霧が切り裂かれ視界が開けたが、代わりに槍の穂先から跳び散った泥が目を塞いだ。だが、その一瞬、馬上にあった大きな武者の姿は、見覚えがあった。一度見れば忘れようもない、父・義晴が将軍だった頃、謁見に来た三好長慶の側らで、周りの者たちより頭一つ、いや、二つは大きな体を折り畳んでいた弟の十河一存だった。座敷であっては場違いな山のような姿でも、鬼と揶揄されるほど鍛え上げられた岩のような姿は滑稽だと笑えはしなかったが、戦場で相対すれば、圧倒的な威圧感に言葉も出ない。
「顔まで泥まみれとは、何とも逞しい。さぞ、大した手柄を上げられた事でしょうな」
腹の内に込み上げてくる熱い物が恐怖を忘れさせたが、声を上げる前に冷たくなった泥に熱を奪われてしまったようだった。馬上から降り注ぐ嘲笑に、小さく唸って対抗の意思を表すのが精一杯で、重い兜のせいで上を向いて睨み返す事も出来なかった。
「将軍が迷子になられても困るからな、綱を付けてさし上げろ」
泥を撥ねる足音が近づいてくる。獣のように縄に繋いで引いて行こうと言うのか。捕まるにしても毅然とした態度を示そうとしたが、泥まみれの鎧が重く、立ち上がれもしない。逃げ出すなど、更に不可能だ。成すがままにと、泥にまみれた地面に顔を向けたまま目をつぶった時に、耳に狼の遠吠えが聞こえた。
合戦の最中に、これ程人の間近で遠吠えを上げる狼がいるのか?
それに応えるように、近くの霧の中で遠吠えが上がり、速く軽い足音が周辺から近づいてくる。
「何事だ! こやつらはっ……うぐっ……」
十河一存の怒号が左腕に突き立った矢に遮られた。
義藤はその姿を見上げる暇もなく、駆け寄ってきた足音に担ぎ上げられ、地面に伏せた体勢のまま少しだけ浮いた状態で滑るように運ばれた。体をひねって首を回し、相手を確かめようとしても、兜の頬だれが邪魔だった。見えないと分かっていても、確かめずにはいられなかった。何度か頭を動かしていると、見えない兜の向こうから声が返って来た。
「あまり暴れるな、菊憧丸」
よく知った懐かしい声。低く力強い声がこれまでの心細さを忘れさせて、義藤はこれまで貯め込んでいた肺の空気を一気に吐き出すように答えた。
「義賢兄上!」
「おう、もう少し辛抱してくれ」
聞きなれた声は、体を低くしたまま義藤の体を抱えて凄い速さで足場の悪い沼地を駆けながらだが、少しも息を乱さず軽く答えた。その声の主は、六角義賢。甲賀と伊賀を統治する六角家の当主で、義藤の烏帽子親となった六角定頼の息子だ。六角家は京都から落ち延びた足利義晴の後ろ盾であり、幼い義藤とは年の離れた兄弟のように仲良く育った間柄だった。
忍びの国の当主だけあって、義賢も厳しい鍛錬をこなしていた。最小限の防具だけ付けた軽装で、義藤を抱えるむき出しの腕は堅く絞った縄の様に引き締まっており、しっかりと支えられた体は、少しも揺れていなかった。それに、常人なら二の足を踏んでためらう深い霧の向こうを見通せるかのように、速度を落とさず走り続けられた。
白い壁となって逃げ道を塞いでいた霧は、今は追手を遮り逃亡を手助けしてくれていた。視界を塞いでいる霧に感謝をしていたが、霧は少しずつ薄くなり始めていた。じっとりと濡れて肌に張り付くようだった白い壁は、走る勢いに押されて花びらのように舞い上がった。完全に消えてしまえば、馬で追いかける追手から逃げられはしないと、運ばれているだけの義藤にも理解できた。一人でいる時とは逆に、霧が晴れない事を祈らなければならなかった。
だが、祈った所で薄まり始めた霧は留めようもなく。更に勢いをつけた六角義賢が地面を蹴った瞬間、霧の中から飛び出し、眩い日の光にさらされた。
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